第11話・きみの名は?
優しい色した月が静かにこちらを見下ろしていた。独り異世界に召喚された志織を憐れむでもなく、ただそこにある存在を認める様に。
その月に手招きされた様に感じられて志織は窓辺に近付いた。天井から床まで届く大きな一枚ガラスの窓。慎重に押せば少し開いた。バルコニーに出るとそこから庭へと出れる様に階段が渡されている。
ぼんやりとした頭で月明かりのなか、夜の中庭にくり出せば花壇のなかで白く輝く花達があった。
「……綺麗」
自分が入浴時に浴槽のなかに浮かべられていた拳大の白い花だ。穢れなき色がそこにあって志織を慰める様に大きく花弁を広げていた。気のせいか花弁がほのかに他の色を纏って輝きを放ってる様にも思える。
志織は白い花が群生する花壇に近付いて鼻を寄せた。清々しい花の香りが、胸のむかつきを抑えて気持ちを落ち着かせてくれているような気がする。
「良い匂い。あなたはなんて名前の花なのかしら?」
ひとりごちる志織の背後で声が上がった。
「オパーリアと言うんだよ。夜の闇のなかでキラキラ輝いて見事だろう?」
「そう。オパーリアって言うの。マーか……」
てっきり声の主はマーカサイトだとばかり思い込んでいた志織は、振り返った先に見知らぬ黒髪の若者が立っているのに気が付いて驚いた。
「……あなたは? あなたは誰?」
見知らぬ相手に対し、志織は間抜けな応対になってしまっていた。まさか他に誰かと会うなんて思いもしなかったから。
「驚かせてごめん。僕はロベルト。ここの料理人をしてる。きみは?」
「わたしはの……、リーよ……」
青年は優しい笑みを浮かべていた。彼の声がマーカサイトに似ていたものだから、てっきり魔王だと思ったのだ。自分の思い込みの激しさに志織は恥かしくなってきた。
人違いしたというのに、彼は気にしてないらしかった。そればかりが名前を聞かれ、こちらの世界に来て初めて名前を問われた志織は戸惑った。
一応、自分の名前を軽々しく他の者に教えてはならないと。イエセから忠告されている志織である。高校生時代のクラスメートたちに呼ばれていた愛称をその場で名乗ることにした。
志織は彼をひたと見つめた。自分と同じ黒髪に黒い瞳をした相手に親近感が湧いた。ロベルトは背が高く甘いマスクの掘りの深い顔立ちの美青年で、志織のいた世界でいうならソース顔の部類に入るだろうか?
「リーか。きみに似あった可愛い名前だね。そんな格好で寒くはないかい?」
そう言いながらロベルトは、自分の着ていた白い調理着の上に羽織っていた黄緑色の上着を脱いで志織の肩にかけてくれた。志織は寝間着のまま部屋から出て来ていた。寝巻きは厚い布で出来てるから中が透けて見える事はなかったけれど彼は紳士的だった。志織は素直に礼を述べた。
「ありがとう」
ロベルトのちょっとした心遣いが有り難かった。上着からは魚介類を煮込んだような懐かしい匂いが伝わって来る。ふいに宿泊客の為に鍋を掻きまわしていた父の姿が思い出された。
「お料理の仕込みでもしていたの?」
「良く分かったね。そうだよ」
「あなたの上着から美味しそうな匂いがしたから」
「悪いことしたな。こんなに可愛い女性(ひと)に汚れた上着なんて貸すんじゃなかった」
困ったように言うロベルトに、志織は構わないと言った。
「わたしこの匂い好きよ。温もりもね。あの美味しいお料理を作った人の匂いだもの。嫌いになんかなれない」
志織は先ほど食べた料理を思い出してお礼を言いたくなった。きっと彼が作ってくれた人なのだ。だけど自分が聖女だなんて明かす気になれなかった。
「嬉しいな。そんな風に女性に言ってもらえるなんて思ってもみなかった」
志織の言葉にロベルトは目を丸くしたが、笑みを口許に綻ばせた。
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