怪談「助けるなよ」

Tes🐾

助けるなよ

 世間の状況が落ち着いており、会社で食事会をしたときのこと。私の同僚であるDさんから、こんな話を聞かせてもらった。



 今から十数年前、Dさんは都内の情報系の専門学校に通っていた。

 電車で片道およそ三十分ほどで、赤羽駅で一度乗り換える。奇妙な出来事が起きたのは、その赤羽駅でのことだ。

 その頃はちょうど、学校で行われる催し用の制作の真っ最中だった。この催しは、いわゆる学園祭のようなものだが、コンペの役割も兼ねており、主な就職先の企業も招待されている。その場のやり取りや作品の評価次第では、就職に直結することもある重要なイベントだ。

 就職活動を控えていたDさんも、相当念入りに準備に励んでいたそうだ。特に前日ともなると、作業は学校の閉館時間まで及び、校舎から出る頃には、すっかり日付が変わろうとしていた。

 やるだけのことはやった。ただ、Dさんは元来、人の前で喋ることが得意ではなかった。明日の対面での応対だけは、どうしても不安が拭えない。重い気持ちを引きずりながら帰宅の途についた。

 最寄り駅から電車に乗り、数駅先の赤羽駅で乗り換えのために降りる。それから乗り換え先のホームに移動して、誰も並んでいない乗車位置へと立った。終電間近とあって人は疎らだったが、それでも電車の到着間近になると何人かやって来る。

 Dさんの隣にも一人、スーツ姿の男性が並んだ。

 その男に僅かに目をやったことで、彼の奥に見えるそれに気がついた。


 子供が走っている。


 小学生の低学年くらいの男の子で、青と白のボーダー柄の服が印象的だった。その男の子が、ホームで並ぶ乗客たちを縫うように、駆け回りながらDさんの方へと徐々に近づいて来ていた。

 来たときは見かけなかったが、迷子だろうか。時折、立ち止まって乗客たちを見ていたので、Dさんは最初そう思った。けれどしばらくすると、今度はわざと並ぶ人の間を通ったり、何度も周りを回ったり、どうも遊んでいるらしい。そのうち、ぱたぱたと子供靴の軽い音が耳に届き始める。それが何だか妙に癇に障った。

 ――人が明日のことで気が気じゃないっていうのに、迷惑も考えない嫌なガキだ。

 Dさんは内心毒づきながらも、関わらないように視線を前に戻した。わざわざ注意するのもそれはそれで面倒だ。周りも同じなのか、誰も気にする素振りを見せていない。それから間もなく、電車の接近を報せるアナウンスが流れた。

 ぱたぱたぱた。

 そのアナウンスが終わる頃、子供はついにDさんの元にやって来た。例に漏れず、ぐるりとDさんと隣の男を囲うように走ると、二人の前で立ち止まる。視界の下に、こちらを伺う子供の頭が見えた。

 ――乗り降りの邪魔だろ。早くどっかに行ってくれ。

 更にいらいらが募る。何だったら、走り出す時に足を引っ掛けて脅かしてやろうか、などと実際にはできもしない考えが浮かんだ。

 その時だった。


 視界の端をさっと何かが掠める。すると次の瞬間には、男の子の身体は弾かれたように宙に舞っていた。そして「あっ」と声を上げた頃には、もうホームの上から男の子の姿は消えた後だった。


 転落事故だ。


 嘘だろ、と心の中で叫びながら、咄嗟にホームから身を乗り出して線路を確認する。あの青と白の縞模様は見当たらない。ホーム下に避難したのかもしれないが、あんな子供が落ちてすぐに逃げられるだろうか。線路上は暗く判然としない。そのうち迫る電車のライトが視界に入った。もし線路上に取り残されているとしたら、今すぐ降りないと間に合わない。

 そこでぐいっと――右の肩を引っ張られる。


「助けるなよ」


 耳元で低い呟きがした。

 Dさんを引き戻したのは、隣に並んでいたスーツ姿の男だった。

 直後に電車が滑り込んで来る。Dさんは思わず身構え――けれど、悲鳴や衝撃音、警笛の類は聞こえてこなかった。ホームには行き先についてのアナウンスが流れ、電車はそのままゆっくりと減速すると、甲高いブレーキ音と共に止まった。

 それから乗車口が開くと、そのスーツ姿の男は足早に乗り込んでいった。

 困惑するDさんは、その背に声を掛けることもできず、しばらく立ち尽くしていた。ただ、電車が発車し、それでも何の騒ぎにもなっていないことを確認すると、ようやく合点がいったという。

 あの男の子は、生きている人間ではなかったのだ。



 この話を聞かせてもらった当初、私は「子供の霊に連れて行かれそうになったなんて、怖い話しですね」と感想を述べた。

 けれど、それを聞いたDさんは首を横に振った。


「思い返すとさ。あのとき男の子を突き飛ばしたのって、そのスーツ男の足だった気がするんだよ。だとしたら、あの『助けるなよ』が違った意味に思えて、それが後から怖かったんだ」


 そう言いながら、彼は右肩をさすっていた。

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