第二章――②(アリサ視点)
あの侍女の言う通り、厨房を覗くとユマがいた。
ティーセットを並べた調理台の傍で棒立ちになり、眉間にしわを寄せている。
普段から無表情で取っつきにくいタイプなのに、今はそれに輪をかけて機嫌が悪そうに見え『近寄るなオーラ』を放っているが、聖女たるアリサは構わず傍に寄る。
「あら?」
いつものユマなら、半径一メートル前後に接近するだけでアリサの存在に気づくというのに、どういうわけかピクリとも反応しない。
「……ユマ?」
不審に思って呼びかけてみるが、返事もない。
ぼんやりとしたまなざしで、茶器に描かれた模様を指先でなぞるばかり。
彼がこんな様子なのは初めて見る。
お茶にこだわりがあるらしい彼は、真面目な性分も相まって、一秒たりとも蒸らす時間を間違えない。
なのに、砂時計は落ち切っているにも関わらず(最初からひっくり返していない可能性もあるが、それはそれで問題)、早く茶殻を出すかカップに注ぐかしないと、濃くなりすぎ渋くて飲めないお茶になってしまう。
「ねえ、ユマ? ユマったら!」
「あ、ああ。アリサか。どうした」
何度か呼びかけ、結構声量を上げたところで、ようやく彼は顔を上げた。
だが、瞳はどこか虚ろで憂いを帯び、心ここにあらずといった感じは否めない。
「どうした、じゃないわよ。こっちの方がどうしたのって訊きたいくらいだわ。ていうか、そのお茶……大丈夫なの?」
はっとした様子でポットと砂時計を交互に見やり、カップに注いで味見をして小さく眉根を寄せた。やはり渋かったのだろう。
「ユマが失敗するなんて、珍しいこともあるものね。新しいのを淹れたら?」
「いや、捨てるのはもったいない。味を調節すれば飲めなくはないからな」
そう言いつつ茶殻を捨て、いつもは入れない砂糖とミルクをお盆に乗せる。
お茶本来の味が損なわれると言ってストレートにこだわる彼が、ポリシーを曲げるとは相当渋いようだ。
「どうしちゃったの、ユマ。らしくないわね」
「別に、たいしたことじゃない。少し考えさせられることがあっただけだ」
それ以上は何も言わず、ユマはアリサの横をすり抜けて去ってしまった。
まるで彼女など眼中にないとばかりに。
なんだろう、この面白くない状況は。
アリサは羽扇で口元を隠しつつ唇を噛む。
彼はどんなに手練手管を尽くしても、ちっともこちらになびかない。
色恋が御法度の使徒が色恋に狂う様を見たいのに、彼はアリサなど歯牙にもかけず、教育係以上の態度を示すことは一度たりともなかった。
やはりこの醜く肥え太った外見だろうか。
元の世界では、この姿のせいで誰からも蔑まれ疎まれてきた。
痩せの大食いの遺伝子を持つ一家の中で、アリサだけが違った。
家族と同じだけ食べれば際限なく太っていく。ある意味ではアリサだけが正常な身体機能だったともいえるが、彼女は幼少期のうちから家族の中で孤立していた。
周りの目を気にしてダイエットをしようとしたが、家族が我慢せず好きなものを好きなだけ食べているのを見れば、自制なんて効くはずもない。
ただでさえ大食い一家で食事の支度が大変なのに、アリサだけにダイエットメニューを作ってくれるなんて手間をかけてくれるはずもなかった。
そうして体型の改善ができないまま学校生活を送るようになると、日常的に悪口陰口を叩かれ、あらゆる集団から爪弾きにされ、持ち物がなくなったり壊されたり、直接暴力を振るわれたことだって数え切れない。
被害を訴えても、教師も親もアリサを守ってくれなかった。
――そんな体型だから、いじめられて当然でしょ?
――悔しかったら痩せなさい。
口先では「みんな違ってみんないい」なんてきれいごとをほざくのに、異端を排除することになんのためらいもない連中ばかりだった。
誰もありのままのアリサを受け入れてくれず、世界中が敵のように感じた。
でも、ここではみんながアリサを敬い褒めたたえる。広いお屋敷に住み、たくさんの侍女たちが傅き、素敵な騎士様に守られ、おとぎ話のお姫様のような扱いだ。
だが、どんなに畏敬と称賛を集めても、心は完全に満たされなかった。
だって、アリサはこの世界の全てを知っている。
召喚された時から、ここが慣れ親しんだ乙女ゲームの世界だと分かっていた。
もちろん、ゲームはオールコンプリート済。
だから、これから起こりうる出来事も、どうすれば騎士たちが容易くなびくのかも、何もかも知り尽くしている。
初めはなんでも思い通りになるのが面白かったが、次第に飽きてしまった。
すでに隅々までプレイし、遊び飽きるほどやり込んだゲームだから自明の理である。
そこで不落のユマを落とせば慰めになるかと思ったが、それもうまくいかない。
以前おもちゃ替わりに拾った哀れな元貴族令嬢の侍女も、しばらくはいい憂さ晴らしになったが、最近はやけに生意気になって面白くない。
何をしても泣かなくなったし、瞳に力強い生気が篝火のように灯っている。
その上、彼女はユマに気に入られているようで、何かにつけて注意されるようになった。都合が悪くなる前に泣き落としをして深い追及は逃れているが、いろいろとやりにくくなった。
苛立ちは膨れ上がる一方だ。
「忌々しい侍女ね……」
これまで散々冤罪をでっち上げてきたのだから、あともう一つ二つ罪状を追加してやれば、追い出すのは簡単だ。
極端だが毒を盛れば殺すこともできる。手足となる取り巻きの侍女は何人もいるので、実行は容易い。露見しそうになれば切り捨てるまでだ。
彼女たちは使い捨ての駒と同義。見捨てたところでなんの感慨もない。
だが、そんな風にただ目の前から消えるだけでは、全然物足りない。
死ぬより苦しい絶望を味あわせてやりたい。地べたに這いつくばり、泣いて許しを請う様を目に焼き付つけなければ、胸の中に渦巻く溜飲を下げることはできない。
しかし、やり過ぎは禁物だと己を律する。
あの女を徹底的につぶせば、ますますユマはアリサから離れていくだろう。
他の騎士たちもさすがに違和感を覚えるかもしれない。最悪の場合、聖女としての品格を疑われて資格を剥奪される恐れもある。
そうなると本来の目的が達成できなくなってしまう。
かといって策がないわけではない。
元の世界で散々嫌がらせやいじめを受けてきたから、何がどれだけ苦しいか、どんな風にすれば周囲に露見しにくいか、並みの人間より随分くわしくなった。こういうのを怪我の功名とでもいうのだろうか。
使える駒はいくらでもいるし、あとは手はずを整えるだけだ。
「……ふふ、いいこと思いついた」
羽扇の下で三日月形に唇を歪めると、心の奥底からかすかな声がした。
――ねぇ、もうやめようよ……こんなことしたって、なんにもならないよ……
今にも消えそうな声を無視し、アリサはさっそく準備に取りかかった。
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