何故神は立ち上がろうとする者に試練を与え給うのか




 少し、俺の話をさせてもらおう。


 俺の名は、茂手帯人。歳は……三十を過ぎて数年。


 少なくともSNSや公の場に公表する際に、一瞬の躊躇いや『もう若くないんだなぁ』と自嘲の念が頭を掠めてしまう年齢だ。


 仕事は……医者だ。


 こういうと婚活において、一気に相手の反応が良くなる。それが故に、俺は価値のある人間であり、求められる存在である、と勘違いしてしまう。


 その勘違いを、先程粉微塵に打ち砕かれたところなのだが。


 実際のところは、開業医を目指して、資金繰りの為に当直のバイトに入りまくりの、万年睡眠不足の、医者の不養生を地でいく疲れ果てた中年だ。


 そんな生活を送っているから、趣味や異性との出会いに割く時間が全くなかった。


 がむしゃらに働く中で、ある時思い当ってしまったんだ。


 ――俺って全く中身のない人間なのではないだろうか、と。


 開業医は勤務医に比べてとても魅力的な労働条件だ。急な呼び出しや手術などもなく、休診日さえ決めれば定期的な休みが取れる上に、収入もいい。


 だが、そんな魅力的な収入と時間を手に入れた時、俺の手元には何があるのだろう?


 このままがむしゃらに働いて金を貯めていけば、四十になる頃には独立できるだろう。借金をすれば、もっと早いかもしれない。


 だが、そんな睡眠も栄養も不足した状態でがむしゃらに働いた四十男に、寄り添ってくれる伴侶が見つかるのだろうか?


 見つからなかったとして、余生を心穏やかに過ごすだけの趣味も、俺にはない。


 ……俺は愕然とした。不安に足元が覚束おぼつかなくなった。


 そのことを高校来の友人、坂本に相談したところ、彼は他人に興味を持たない俺がそんな考えに至ったことを大いに喜び、色々な助言をくれた。


 今回の婚活アプリも、彼に勧められて手を出してみたものだ。


 妻子持ちの彼自身はそういうものに触れていなかったものの、医者である俺に相手が好印象を持ったようだという報告をとても喜んでくれた。そしてその女性と交際に至ったなんて聞いた時には、我がことのようにはしゃいでくれた。


 そんな彼に、俺はとても心苦しい報告をしなくてはならない。





「……まぁ、そんな気にするなよ。こういうのは相性だ。そういうこともあるさ。むしろもっと深い仲になってから、相性の悪さが発覚するよりずっといい」


 居酒屋でジョッキとつまみの置かれたテーブルの向かい側で、突然の呼び出しに応じてくれた友人はそう笑ってくれた。


「…………」


 俺は俯いたまま何の返事も出来なかったが、そういう考え方もあるのか、さすがだと感嘆していた。そして、自分の至らなさを自覚して益々陰鬱な気分になったりもした。


「でもなぁ、坂本ぉ……俺は、空気が読めない。相手の心を察せない。そんな俺と相性がいい相手なんて見つかるんだろうか?」


「帯人、最初から空気が読めて、最初から相手の心を察することができるやつなんていないんだよ。誰だって最初はKYだ。学校や職場で人と接する内に、相手を傷つけたり、傷ついたりしながら少しづつ成長していくんだよ」


「坂本……」


「もっとも、お前のは特大の傷つき方だったみたいだがな」


 そう言って坂本はカラカラと笑う。応援してやっていたのに、なんて愚痴や、俺の至らなさを責める言葉なんて一つも吐かなかった。


「ありがとうな」


「おう、今日は飲め、俺としてはデートに掛けるつもりだった金で奢ってもらえて、ラッキーだよ」


 空気の読めない俺でも、この言葉を額面通り受け取るほどのアホではない。


 妻子持ちの彼が家族との団欒をキャンセルして、俺の元に駆けつけてくれたそのありがたさが分からないのなら、俺は本当に誰からも相手にされないで、孤独な一生を遂げることになるだろう。


「でもなぁ……どうしても分からないんだ。彼女は何故、怒っていることは猛烈にアピールしてくるのに、何に怒っているのかは執拗に教えてくれなかったんだ?」


 実際のところ、俺はこれを坂本に訊きたかった。訊きたくて仕方なかった。


「それはなぁ……試練だ。男女平等を謳う世の中になりつつも、女性は基本男性にリードされたい、引っ張られたい、振り回されたいと思っているのだ」


「そうなの?」


「多分。俺も男だから分からんが。おそらく、女性は自分から告げられたワケでもないのに、男性側が考えを察して行動してくれるのを好むんだよ。そして女には『言ってもらいたい言葉』というものがあって、そこに自力で辿り着けた男にだけ応えてくれるんだよ」


「なんで? こうして欲しいって伝えたら何かデメリットがあるのか?」


「はい出ました、禁句。異性との関わりにメリット、デメリットを口に出してはいけません」


「なんでだよ!」


 さすがに俺はワケが分からなくて、立ち上がりそうになった。


 対照的に、坂本は落ち着いた様子でビールを一口飲み、ジョッキを置く。


「自分のことをどれだけ気にしててくれたか、どれだけ思い遣ってくれているのか、それを見極めようと試練を与えているんだよ。彼女達は、そこに喜びを見出すんだ。きっとX染色体にそう刻まれているんだ」


 医者である俺に塩基配列の話題を振るとは、小癪な。


「俺のY染色体には全く刻まれていないのだが……逆に男が、怒っているけど全く口に出さないで察してくれるのを待っていたら、女性達はそれを許してくれるのか?」


「許してくれるワケないだろ。殴られて終わりだよ」


「ず、ずるくないか、それは?」


「そうだよぉ、ずるいんだ。でも……可愛いんだな、それが」


 いつの間に取り出したのか、加熱式たばこから燻らせた煙の向こうで、坂本は苦笑いした。


「はぁあ?」


「さっきも言ったけど、大事なのは相性だ。他の人にこんなことされたら絶対許さないってことを、何故かこの人だと許せる……それどころか可愛いとすら思えるって人と出会うことが大事なんだよ」


「……お前は出会えたの?」


「出会えたさ。俺、自分の子供だったら何されても許しちゃいそうで、よく奥さんに怒られる」


 そういう話じゃないだろ、と思っていたことが伝わったようで、坂本は目を細める。


「同じことさ。結局のところ、男が、女がじゃなくて、その人のことがどれだけ好きで、どれだけ愛せるかだよ」


「……なるほど、これが察する力なのか」


「おうよ。これも俺の帯人への愛が為せる業なんだぜ?」


「よせよ……でもここまで話してて思ったけど、俺は当分誰かを好きにはならなそうだ」


「失恋したあとってのは、誰だってそう思うさ。でも、時間が経ったら必ず寂しくなる」


「本当に?」


「本当に。Y染色体にそう刻まれてんの」


「でもさ、そんな苦労してまで女性と付き合うだけの価値、あるのかな?」


 俺はぐいっとビールを煽って、溜息交じりにそう言った。


「ま~たお前は『価値』とか言う~。あるよ、絶対。どんな辛い目にあって、二度とごめんだと思っていても、気が付いたらまた求めてしまう、そんな素晴らしいものを彼女達は俺達に与えてくれる」


「…………」


 本当かよ、という俺の懐疑的な視線を察してはいたのだろうが、坂本は続ける。


「でも男ってのは馬鹿だから、それを受け取るまでの手順プロセスを省略しようとする。手間や苦労をすっ飛ばして女性からの優しさや温もりを享受きょうじゅしようとする。だから、まぁ……キャバクラや風俗が廃れないんだろうなぁ。そんなのは、一過性のものに過ぎないのに」


「俺は……そんなに好きになれる誰かに出会えるんだろうか? そもそも、誰かを愛せるんだろうか?」


 俺が頭を抱えていると、坂本はこほん、と咳払いをしてから、こう言った。


「会えるし、愛せるよ! 頑張れ! じゃないと一生童貞だぞ!」


「ちが……今そういう話してるんじゃなくて……!」


「あれ? シロートだっけ?」


「馬鹿野郎!」


 なんて怒鳴りつつも、これは彼なりの励ましなのだと理解していた俺は、結構元気づけられていた。



「何ていうか……俺、頑張ってみるよ。いつか好きになれそうな人と出会えたら、変にくだらないとか思わないで、察せるように努力する」


 少なくとも、坂本との別れ際には、こんな言葉が吐けるくらいには。


「ああ、頑張れよ! いい出会いがあったらまた聞かせてくれ!」


 そう言う坂本に手を振って、帰路に就こうと背を向ける。


 ……ありがとうな、坂本。俺、頑張るよ。


「帯人っ! 危ない!」


 そんな俺の背中に、先程までとは違う、切羽詰まった坂本の声が掛かった。


「……ん?」


 何事かと振り返ると、目の前に大型のトラックが迫っていた。


「……はい?」


 ……は? いや、なんで? 唐突すぎるだろ。俺は明日からも頑張ろうと決意を新たにしたところなんだぞ。ふざけんな。


 ……あ、これ、死ぬな。


 そう思うと同時に、目の前が真っ暗になった。

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