インモラル

i.q

インモラル


 ※暴力描写はありませんが、登場人物の会話中に虐待やイジメの表現があります。苦手な方はご注意下さい。






 以下本文。







 ×××××××××××









『偶には一人旅してリフレッシュするのもいいもんだぞ』


 そんな事を職場の同僚に言われたのはいつだったか。


 言われた当時は家族や友人・または恋人を伴わず旅なんてして何が楽しいんだと思った。しかし、そんな俺は今、縁もゆかりもない土地のどこにでもあるような小さな公園のベンチに座り、一人でぼんやりと空を見上げていた。


 青色をほとんど覆い隠した白と灰色のマーブルが視認できるギリギリの速度で動いている。最初に見上げた時と比べて青色の位置が大きく変わっている事だけは認識出来た。それだけの時間を俺は枯れ葉がカサカサと音を立てて動く音だけに耳を傾け、肌を乾いた空気が撫でるのを見送りながらその場で過ごしていた。


 いい加減首が痛くなってきて、上向きにしていた顔を起こす。不意に公園の時計が目に入った。


 時刻は午前十時四十五分。


 本来なら今頃教壇に立ち、生徒に向かって授業をしているはずの時間だ。平日のこんな時間に仕事着にしているスーツを着ることもなく、パーカーにジーンズにスニーカーというラフな服装で、言葉の通り何もしないでいる。こんな事など社会人になって、否、学生になって以降初めて、否、もしかしたら人生で初めてかもしれない。


「ははっ。仮病で二泊三日のお一人様旅行っ。最高かっ」


 再び天を仰いで久々に発した声は秋風に攫われて誰にも届かないところに行ってしまった。


 今、俺を縛るものは何もない。そう思うと途轍もなく晴れやかであり清々しく、どうしようもなく虚しかった。








 順風満帆。人が俺の人生をそう評価するなら、確かに間違っていないと頷ける。


 病知らずで丈夫な体と人並み以上の身体能力、常に上位に食い込む成績を叩き出す脳みそ。母親譲りの端整な顔つき。経済力ある父親に、純粋で可愛い弟。自分の事を慕って集まる友人。自分に恋い焦がれる女。自分を尊敬する生徒。何一つ欠けていない人生。人が俺の人生を何らかの方法で覗けるのならそう表現するだろう。


 自分でだってそう思う。ただ、そんな人が羨む人生にも歩んでみれば歩んだ人間にしかわからない陰りはあるものだ。今の俺はその陰にどうしようもない程に押し潰されそうだった。


 努力。


 俺がこれまで一二を争って好きだった言葉であり、妄信してきた単語。そして今の俺の心臓に見えない刃を突き付けている凶悪な概念だ。


 幼い時から、努力は俺を裏切らなかった。だから怠らなかった。努力してきたからこそ得られたものは数多く、努力なくして今の人生なしと言えばその通りだ。


 ただ俺は知ってしまった。


 努力ではどうしようもないことがある事を。


 心を込めた熱意ではどうにもならない事柄がある事を。


 そして、そのどうしようもどうにもならない事は、悪魔や死神が仕掛けた罠かのように残酷な結果を生みだす事を、俺は分からされてしまった。


 そして、それを受け入れるには俺の人生は順風満帆過ぎた。


 諦めの悪い心はどうにもならないことをどうにかしようと足掻き続け、とうとう燃料切れになった。


 だから俺は人生で初めてのサボタージュを謳歌している。


 何もかもどうでもいい。何も考えない。努力しない。人間の本能のままに動き、食い、寝る。それがこの旅のテーマだ。


 決して有意義な事ではないが、無意味でもない。


 俺はそう信じてひたすら思考する事を放棄し、ただただふらふらしていた。


 時折、幼児とその母親が公園を利用しようと敷地内に入ってくる。ただ、俺の存在に気が付くと、危険人物とみなして母親の方が子供を守るように立ち去って行った。働き盛りの成人男性がだらしなくベンチに凭れ掛かって動く気配がなければ当然の反応だ。俺だって、今の俺のような男には近づくなと通常なら生徒に注意する。


 俺が平常な精神状態だったなら、笑顔をやって来た母子に向けて自分が危険人物ではない事を示し、好きなだけ遊んでくださいと公園を立ち去るだろう。


 今はそんなことはしない。立ち去って行くなら好都合だと親子を無視して、公園を自分の城かのように我が物顔で占領するのが少しばかり楽しいくらいだった。


 しかし、俺の城にはすぐに客人が来てしまった。


 そろそろ腹が減ってきた。そう思って足下に置いてあったボストンバックを漁り、今朝コンビニで買った菓子パンを取り出して顔を上げる。


「ねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」


 瞬間、俺は身体を大きくビクつかせてしまった。


 何の気配も前触れもなく、目の前に制服を着た少女が立っていた。


 少女は黒髪を時代錯誤なおさげに結んび、これまた絵を描いたような眼鏡を掛けていた。膝丈よりやや長いセーラー服に紺色のセーター。風紀委員が模範にしたがるような見るからに優等生な見た目をした少女。しかし、その足元を見れば土塗れの上履きが並んでいた。


 反射で「こんな時間にどうしたんだ?」とモラルある教師の台詞が口をついて出そうになり、俺は意志の力で口を継ぐんだ。


 黙っていると少女は勝手に次の言葉を吐き出した。


「ねぇ、親殺しと自分殺しだったらどっちが罪深いと思う?」


 喉が口内に溜まった唾をゴクリと嚥下した。


 濁った目が俺を見下ろしていた。危うい。その言葉に尽きる顔が首の上に載っている。そんな印象だった。


 保護しなくてはと理性的な自分が考えて、直ぐにそれを打ち消す。


 俺の知ったこっちゃない。そう思ってみたかった。


「俺は閻魔大王じゃないから知らない」


 精々不良な大人を装ってベンチに凭れ掛かって言い放つと、少女は思った以上に冷静な声で「確かに」と呟き、俺にベンチを詰めるように言って来て隣に腰を下ろした。


「私の父親ね、この辺じゃ有名な医者なの。おじいちゃんは市長をしたこともある。おばあちゃんは元社長令嬢。お母さんは東京の大学に出てから大きな商社で秘書業務をした後に出戻りしたお嬢様。凄いでしょ?」


「ご立派だな」


「でもって、お父さんは私をぶって煙草の火を押し付けるの。おじいちゃんは私を杖で殴る。おばあちゃんとお母さんはそれを見ながら何も言わないの」


 さらりと語られた内容に絶句している内に、少女はさらに残酷な境遇を語った。


「見えないところにいっぱい痣を作ってくる癖に、それが学校にバレたら私がイジメに遭ってる事にして校長のところに怒鳴り込みに行ったの。うちの娘になんて事するんだ、どう責任を取るんだって。偽善者の振りして学校を責めてる時のお父さんの顔と、私の事を心配だって演技したお母さんさんの顔を見た時は本当に笑えた。それからクラスメイトが濡れ衣着させられて、担任と校長にどやされて、それが原因で本当にイジメに遭うようになっちゃった」


 少女はそこまで言うと黙った。


 何か言わなくてはならない。何を言えばいい、と生真面目な頭が考えてはじめ俺はそれにストップを掛ける。頭を使って慰めの言葉を探したところで自分は所詮赤の他人。そもそも人に気を使うようの余裕は持ち合わせていなかったはずだ。


 だから、考える事をやめた。


 俺は菓子パンの袋を割いて、いちごジャムパンに齧り付いた。


「めちゃくちゃウザい家族だな」


 パンを咀嚼しながら、意味もなく公園の遊具に視線を向ける。赤、青、黄色に緑のプラスチックで出来た城のような遊具。直線の滑り台に螺旋の滑り台。小さな屋根の上には周る仕様になっていない風見鶏。無意味の一言に尽きる。


「ホント、ウザい」


「殺してやりたい?」


「ぶっ殺したい」


「ふーん」


 また沈黙。空を見上げれば青が無くなって殆ど灰色になっていた。さっきまで自分が観察していた雲は完全に迷子だ。


「……でも、私、腕力ないの」


「……」


「だから殺せても多分一人…、直ぐに捕まっちゃう。だからもの凄い遺書残して死のうかとも思ったんだけど。遺書が都合良くアイツらに処分されないかが心配」


「まぁ、四面楚歌じゃあ、安心して逝けないかもなぁ」


「……お兄さんが、いきなり信用できる人間になったりしないかなぁ?」


「それこそ無理だろ。人の生き死になんて関わりたくない」


「だよね……」


 また少女は黙り込んだ。風が強くなったって枯れ葉の舞う音が騒々しくなり、俺の咀嚼音が耳の奥で響く。


 不思議と気まずくはなかった。どっか行けともどっかに行こうとも思わなかった。


 奇妙な居心地の良さは俺だけが感じていたわけでは無いらしく、少女の方にも立ち去る気配がない。


 雲行きが怪しくなる中、公園のベンチで何をする事もなく座っている。するとまた少女は話しはじめた。


 家族の愚痴から始まったそれはこの世に対する恨み言に変わった。それが尽きると、今度はこの世の未練が語られる。


 もっとあーしておけば良かった、こうしておけば良かったと、大きな後悔が語られた後は、小さな願望が並んだ。


 食べたかったスイーツに買いたかった漫画、やりたかったゲームに行きたかったゲーセンやカラオケ。なんだかんだでまだ学生なんだなと、適当な相槌をうっていると、突然方向性が変わった。


「彼氏を作って、キスとかして、セックスしておけばよかった」


 セクシャルな単語が飛び出してきて、通常の俺なら少なからず動揺するところだったが、そうはならなかった。


 悪い大人。


 そんなものに突発的な憧憬を抱いた。


「確かに未経験で死ぬんじゃ、勿体無いな。ブサイクってわけじゃないんだし、まともに生きてりゃ男の一人や二人くらい引っ掛けられただろうに」


 目の前に立たれた時にしか顔を見ていなかったが、少なからずブスではなかった。だから普段は風紀を乱すなと喋る口で軽くて無責任な事を言ってみた。


 すると少女が振り向く気配がした。


「……やっぱり、そういうことって気持ちいいの?」


 これから死のうって人間にしては前向きな質問に俺は思わず軽く吹き出した。


「俺は男側の気持ちしか知らないけど、女の抱くのは好きだよ。純粋に気持ちいい。身も心もな」


 身近な同性以外と生まれて初めて下ネタを気軽に喋ったな、と自分自身を俯瞰して見る。羞恥は湧いてこない。おそらく、少女の方がよっぽど衝撃的で刺激的な発言をした後だったからだろう。


「…でも、愛情がなくちゃ心は気持ちよくならないでしょ?」


 再び出てきた純粋な疑問。俺はいつの間にか空になったパンの包装をボストンバッグに突っ込みながら、クツクツ笑った。


「どうたろうな? はっきり言ってその辺は俺も経験と検証不足だな」


 かがめていた身を起こすとポツリと頬に雨を感じた。再び見上げた空から、小さな水が降ってきてきているのが見えた。


 そろそろ解散か、と気まぐれに少女の顔を最後に拝んでやろうと横を振り向く。


「————愛がない分の経験と検証、私としてみない?」


 少女と正面から目が合い、息を呑んでしまった。


 おさげ髪の眼鏡っ子が雨に僅かに濡れながら座っている。ただそれだけなのに、目が逸らせなくなった。


 少女はゆっくりとした動作で左右の三つ編みを解いた。全身に纏わりついた柵を解くように。


 少女は立ち上がって俺の正面に再び立った。


 そして徐に眼鏡を外すと、それを足下に落とし————思いっきり踏み付けた。


 まるで、囚われていた錠をぶっ壊すように。


「ねぇ、冥土の土産、ちょうだい————」


「あっ」


 無意味な音が俺の口からこぼれ落ちる。同時に、ゾッと悪寒が走った。


 俺は少女の話ぶりを聞いて、心のどこかでなんだかんだで、殺さないし死なないだろうとたかを括っていた。まだまだこの世に未練があって、俺相手にストレス発散したら日常に戻っていくのだろう、と。


 けれども、踏み付けられてひしゃげた眼鏡を目にした途端、少女が二度と家には帰らないという決意をしているということが急激にリアルになって俺に伝わってきた。そして、眼鏡を踏み付けた汚れた上履きは学校との決別を彷彿とさせた。


 少女はもう、帰らない。


 不幸な日常には戻らない。


 そう決めている事を悟ってしまった。


 俺は地面の眼鏡と上履きから徐々に視線を上げた。


 細い脹脛。膝下丈のスカート。濃紺のセーター。セーラー服のリボン。白くて細い首。薄い唇。小さな鼻――――陰っているのに燃えるよな熱を帯びた目。


 それは命の炎を最後の最後に燃やし尽くそうとしているかのような強いオーラを放っていた。


 悪寒が急激に熱に変換される。少女の炎に煽られるかのように何故か俺にも火が付いた。


「悪いこと、してみるか?」


 雨が本降りになってきた。余計なものは全部洗い流すかのように。


「悪いこと、教えてよ」


 俺はボストンバックを放置して少女の手を取り、子ども向けの遊具の階段を登り、動かない風見鶏の屋根の下で、少女の唇を奪った。


 地上二メートルの遊具の上で、蛍光イエローのプラスチックの壁に少女の背中を押し付けて、冷たい雨風を無視して、小さな口を蹂躙するようにキスをした。


 少女は見様見真似で俺に応えた。


 互いが赤の他人の頬を強く引き寄せ、後頭部を掴んで離さず、何もかも忘れて互いの舌を絡ませ、吐息と唾液を混ぜ合わせ、熱を分けあった。


 ――――途中、降り止まずに頬を伝う雨の味が不意に塩辛くなった。


 









 結果的に俺達がしたのはキスだけだった。


 愛がないキスの検証結果は、互いにとても不思議なものとなった。


 息も絶え絶えになって唇を離し、額を擦り付け合った時、俺は少女をキツく抱き寄せて囁いた。


「馬鹿が、死ぬな。家族は社会的に殺して、自分は生きながら生まれ変われ」


 俺は思いつくままに家族を陥れる方法を少女に教え、その為の資金を尻ポケットに入っていた財布から躊躇なく現金で渡した。偶々知っていた駆け込み寺となる評判の良い児相の名前と大体の所在地を教えてやった。少女はそれらを全て真剣な様子で聞き、頷き、金を受け取った。


「いいか? もし、お前が生きて吹っ切れた顔でもう一度俺の前に現れたら、その時はここでは出来ない経験と検証の続きしてやんよ。分かったか?」


「うん。分かった」


「じゃあ、悪者やっつけに行け」


「……ねぇ、顔、忘れないように、写真撮らせて」


「あっ?————ふっ、ん」


 許可など一欠片も取らずに少女は俺の唇に再び自らのそれを重ね、どこからか取り出したスマホのインカメラでシャッタを切った。


 撮り終わって直ぐに終わると思っていたキスは終わらず、少女はつい先程俺が教えたテクで小さな舌を動かす。


 その拙くて情熱的な触れ合いに俺も感化されて、トレーナーのポケットからスマホを取り出した。


 舌を絡ませたまま片手で操作して、カメラを構える。


 ピロン、と軽い調子の電子音が鳴る。


 少女は一瞬だけ身を強ばらせた。けれども、直ぐに自らカメラに絡まる舌を見せつけるように、ヤラシク、ハゲシクなった。


 唇が離れると同時に、俺はボタンを押した。


 少女は緩めた俺の腕の中から立ち上がった。そして、何も言わずに遊具から飛び降り、水浸しの地面に着地して、俺を振り仰いだ。


「愛がなくても、気持ちイイもんだね」


 雨はまだ降っている。なのに、初めて目にした少女の笑顔に、光と虹を見た気がした。













 数ヵ月後






 職員室の自席で次の授業準備をしているとき、不意に隣で呑気に新聞を読んでいた定年退職間近のジジイが声を上げた。


「あちゃー、また株が下がった。投資なんてやっぱりやるもんじゃねぇなぁ」


 悔し紛れの心底どうでもよい発言に、俺は愛想笑いで応じる。そんな時、偶々目に入ったのは折り込まれた新聞の小さな記事。


『○○県、女子高生、イジメの果てに自殺。両親は学校に対し訴訟を起こす構え————』


 数ヶ月前に俺が仕事をサボって旅行に行った土地も○○県だった。


 人生で最も刺激的な時間を過ごしてきたはずなのに、リアリティが無さすぎてどこか夢を思い出すかのような感覚になる。


 深く思い出したら負けのような気がして、俺はあの旅行に関してはあまり思い返さないようにしている。勿論、あの時撮った動画を見返した事はない。


 何故なら、もし————


「おーい、校長先生が呼んでるぜ」


 飛びそうになった思考をジジイに現実に引き戻される。


 俺は出来る限り頭を切り替えて、手招きしてきた校長の許へ行き、促されるまま校長室に入った。


「中途半端な時期だけど、編入生が入ることになったんだよ。ちょっと特殊な子でね。担任を任せるなら君しかないと思うんだ。どうかな?」


 どうかなも、こうかなも、俺に拒否権なんてない。俺はそう内心で毒づいて、校長が差し出してきた資料を受け取り目を通した。


「また児相からの紹介なんだけどね————」


 そこから先の校長の声は俺の耳に入ってこなかった。


 手元の書類から雨の匂いがした気がして、塩辛い味と幻の虹を思い出した。


 ————流石に生徒相手は……不道徳だよなぁ。


 




 人生の第二章が始まる。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

インモラル i.q @i_qqqqqqqqqq

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ