水の砂漠の魚たち
鷲生智美
プロローグ
ぴちゃん――。
水の音が僕の耳を叩く。
ぴちゃん――ぴちゃん――。
その音は規則正しく、繰り返し僕の耳を叩き続ける。
「……っ!」
眼を覚ますと同時に、僕は反射的に手をついて頭を起こした。僕の両手は水底を這いつくばっていた。その水底から、3.4cm位、僕の手首の辺りの高さで、水面が波打っている。僕は上半身を起こし、両手で髪を後ろへかきあげ、濡れた顔を撫でて滴る水気を拭った。僕は浅瀬の中に倒れていたらしい。
僕の周りには何もなかった。首をせわしなく回してまだ見ていない方角を探すが、何も見つけることはできない。僕は果てしない水平線に360度取り囲まれていた。まるで水の砂漠の真ん中にぽつんと取り残されてしまったかのように。
僕は立ち上がった。つま先で立って遠くまで見渡す。それでも僕には薄紫の空と、ところどころ浮かぶ汚れた綿のような灰色の雲と、それを映す水面が作る水平線だけしか見えなかった。
泣きたいのだけれど、涙を流す余裕もなく、僕はとにかく歩き出す。歩き始めれば何か局面が変わってくれることを祈りながら。けれども、状況は何一つ変わらなかった。歩けども歩けども何も見えてこない。
僕の混乱は増していく。ここはどこだ。どこへ行けばいいんだ。どうやったら帰れるんだ。僕は走り出す。バシャバシャと足首の辺りで水が撥ねる。けれども状況は何一つ変わらない。僕は、浅い海の中に独りぽつんと立ち止まった。
ばちゃん――。
僕は水底に腰を下ろした。寒くも暑くもない。何も無い。寒さや暑ささえ。あるのは、浅い海と薄紫の空だけ。僕の頭の中にも何も考えが浮かばない。いったいここはどこなのか――。
誰か。ぽつりとその言葉が浮かんで僕は弾かれたように再び立ち上がった。誰かいないのか。誰か僕に教えてくれる人はいないのか。
とにかく誰か人をさがそう。僕の心にようやく形をもった目標ができた。ここが海なら、しかもこんなに浅いなら、そう遠くないところに岸があるはずだ。そうきっとあるはず。僕から見えないだけで。
僕はようやく波の行方を観察できるだけの冷静さを取り戻した。波は確かに一方から来て一方へ押し寄せている。そうだ、この波に従っていけば岸にたどり着けるはずだ。僕はさっきまでと違って、ちゃんと方向というものを定めて歩き始めた。
あるのは波の方向だけではなかった。時間の流れもちゃんとあるようだった。薄紫色の空の端から墨のように黒い色が流れ出して来ている。日が沈み夜が訪れるらしい。やがて一面暗くなり、降り注ぐような星空が現れた。月はなかった。存在しないのか隠れて見えないのかはわからない。
とにかく僕は岸へ向かって歩き続けた。眠ろうなどとはこれっぽっちも思わなかった。波と共に歩かなければ――僕はそれ以外のことを考えないようにただ足を前に動かした。一時間か二時間か、あるいはそれ以上の時間が経っているのに浅瀬が続くばかりで岸は見えてこない。でも、そのことも努めて考えないようにしていた。
僕の斜め後ろが明るくなっていくようだ。でも僕はそちらの方を見ない。ただ足元の波を見つめてそれと同じ方向を目指して歩いていく。空腹だとも思わなかった。僕はただただ誰かに会いたかった。だからひたすら歩いていく。
夜が空け切ったころ、やっと遠くに何かがあるように見えた。僕は走り出した。駆けて駆けて、それが見間違いではなく陸の影であることがわかった。――だのに僕の足はそこで動くのを止めてしまった。がくりと膝をつき、僕はまた再び海の中に崩れ落ちる。行かなくちゃ。行けば誰かに会えるかもしれないんだから。動かなきゃ。
でも、もう僕の身体は限界だった。
ぴちゃん――ぴちゃん――。
僕の耳を洗う、規則正しい波の音。その音を聞きながら、僕は再び眠りの底に引きずりこまれていった。
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