月桂の筆 ~八色の命の光を灯す者~

天柳李海

第一章 月桂と西陵の土

第1話 月桂、命の色に出会う

 足元の土はどこまでも絶望の色をしていた。

 手を伸ばし掌に欠片をすくい上げる。一つ一つの塊は小石ぐらいの大きさ。

 けれどそれは墨のごとく漆黒で、結晶化して硬いのに重さをほとんど感じない。

 まるで大地が命を失い残された抜け殻のようだ。


 そして錆混じりの乾いた風は、途切れることなく無慈悲に吹き続ける。

 空飛ぶ鳥が種を落としても、草木一本育たない。

 不毛の岩石砂漠と化した土地――西陵せいりょう



 私の願いはただ一つ。

 この地故郷に緑を甦らせること。



 ◇



 朝露が庭の竹林の葉の上に光を投げかけていた。桃色の見事な大輪の花を咲かせる芍薬しゃくやくや、しっとりとした緑の苔に覆われた美しい庭であるが、何も色を映さない、真っ黒な土のようなものが敷き詰められている場所があった。


 月桂げっけいはちらと黒土に視線を落とした後、白い深衣しんいの裾を翻して静かに膝をついた。これは毎日欠かさず行っている、朝の日課。


 ゆるく結い上げた深緑を帯びた黒髪に手を伸ばし、いつも肌身離さず挿している『命数筆めいすうふで』を引き抜く。そして、ゆったりとした衣の袖口から、短冊状の『色符いろふ』を一枚取り出した。


「我願う……」


 少しずつ。少しずつ。

 自らの内に巡る「生気」を体の中心に集め、手にした『命数筆めいすうふで』へと注ぎ込んでいく。


 この筆は孔雀の羽毛で作られた特別製で、月桂げっけいの生気を受けて更に色鮮やかな緑へと輝きが増した。

 筆の三分の二まで緑の光が満ちた所で、月桂は『色符いろふ』に筆先を押し付けた。


日輪にちりん巡り。、水脈と合わさりて。、萌ゆる緑とならん!」


 数字の【一】と【三】を『色符』の上に書き記す。と、それらはふわふわと浮き上がり、ぐるりと合わさって『四緑シリョク』の文字へと変化した。


 月桂は淡い緑の光を放つ『色符』を足元の黒土へと押し付ける。

 祈りながら。


 今度こそ。

 今度こそは――。


 緑光を帯びた『色符』は、蛍のように瞬きながら黒土の中へと吸い込まれていく。一瞬、土の色が明るくなって茶色を帯びたようにも見えた。

 だが。『色符』の光が消え失せると、それは元の黒土へと戻ってしまった。


「……やはり、駄目か」


 月桂は疲労感を覚えながら、溜息を吐き頭を振った。

 指の先が氷を直に触ったように軽く冷えて痺れている。


「一年経つのに変化なし、か。この土にどうやって、植物が生きるための命を与えることができるのだろうか……」


 月桂はゆらりと立ち上がった。『命数筆めいすうふで』を再び結い上げた髪へ、こうがいのように挿す。顔を上げると視界に入ったのは、清らかな水が流れる石造りの水路だった。


 この水城みずきの都は町中に水路が張り巡らされている。

 『湖藍こらん国』の首都であり、名高い水のさととも言われていた。


 月桂の庭にも支流が引き込まれていて、薬草や庭木の水やりに必要な分はここから得ている。何気なく水路の方を眺めたが、ふと鮮やかな黄色に目を奪われた。

 

竜金花リュウキンカが咲いている? 開花はまだ一週間先だと思っていたが?」


 春を告げる小さな金色の花は水草の一種で、水辺と日当たりを好み、毎年同じ所で咲き誇る。水路が少し蛇行して緩やかな流れとなっている所に、丸い小さな葉で覆われた茂みがあった。


 月桂は石造りの階段を降りて近づいた。そして息を飲んだ。

 水の中で五枚の黄色い花弁を開いている竜金花リュウキンカの合間に、誰かが引っかかっているのが見えたのだ。


 さらさらと流れる透明な水音に合わせ、たゆたう長い白金の髪が水面で虹の光を放っている。月桂は一瞬、その眩い光に魅入った。

 揺れる竜金花をしとねにして、若い青年が横たわっていたのだ。


 川に落ちてここまで流されてきたのか。顔は青白く口が軽く開かれている。閉ざされた瞼の上に、はらりと黄色の花びらが落ちた。


 薄青の深衣しんい姿の青年は、見た所二十二、三ぐらいで、月桂より三つ程年下のようだ。

 傍目からその様子をみれば、もう息絶えてしまったかのように感じられる。

 だが彼からは太陽を直視した時のように、圧倒されるほどの強い光を感じたのだ。


 その証拠に竜金花は彼の周りだけ咲き誇っていた。少し離れた群生は、硬い緑のつぼみで覆われたままだというのに。


「これは……まるで命の色を観ているようだ……なんと美しい……」


 月桂は吸い寄せられるように近づくと、青年の傍らに膝をつき右手を伸ばした。

 指先で触れた額は水のように冷たかったが、彼の纏う「生気」は消えていない。

 念のため軽く開かれた口元へ手を寄せてみると、かすかに呼吸のしるしがある。月桂は安堵の笑みを浮かべた。


「命の炎は力強いのに……「生気」は淀んでいるな。昏睡はそのせいか」


 月桂は青年を水路から引き揚げて、自宅である庵へと運び込んだ。


 

 ◇



 月桂は薬草園が見える控えの間に布団を敷き、青年を寝かせた。

 助けた青年はその日、目覚めなかった。だが翌朝、意識を取り戻した。

 湖水を映したような碧い瞳が、様子を見に部屋にやってきた月桂をじっと見上げていた。


「ここは……?」


 青年は身じろぎして布団から右手を出すと、それを支えにして上半身を起こした。結われていない長い髪が肩から流水のように滑り落ちる。

 丸窓から差し込む朝の光に照らされたそれは、鈍い銀色を帯びていた。


「大丈夫か。無理しない方がいい」


 月桂は布団の傍に膝をついて座った。


「ありがとう……ございます。あなたが、俺を助けてくれたんですね?」


 人を疑うことを知らないような、邪気を感じさせない瞳を向けられて、月桂は一瞬言葉を詰まらせた。動揺を隠すため口元に手を添えて咳ばらいをする。


「何の因果か、お主はうちの庭の水路に引っかかっていた」

「うわっ……何それ! 恥ずかしい……」


 青年のどちらかといえばまだ白い顔が、いや耳朶までもが、みるみる朱に染まっていった。


「川に落ちたのはわかってる。でも何をしていたのか……記憶が飛んでる」

「記憶が……頭でも打ったか? どこか痛む所はないか?」


 青年はゆるりと首を左右に振って、そっと微笑んだ。


「怪我はないです。でも倦怠感が酷いかな……体が凄く重い」


 青年は肩に流れる灰色がかった髪を見つめ、ふうと長い息を吐いた。


「お主のまとう生気の「色」と「流れ」に淀みがあるな。体が怠いのはそのせいだろう。『九黒クコク』の瘴気しょうきでも吸い込んだか?」


「生気に淀み? それに『くこく』? 『九黒クコク』って何ですか?」

「すまない。聞き慣れない言葉だったか。まずは名乗ろう。私は月桂という」

「月桂さん……いい名前」

「そ、それはどうも。お主は?」

「えっと、俺は……」


 青年は口をつぐんだ。

 ふざけているわけではなく、本当に言葉が出てこないようだ。


「す、すみません。名前、どうしたんだろう。頭ん中が真っ黒に塗りつぶされているみたいで、何も思い出せない……」


 月桂は気にするなと言わんばかりに首を横に振った。


「心配するな。多分、良くなる」

「……本当? 月桂さんって仁術の心得お医者さんがあるの?」


 月桂は青年を安心させるために優しく微笑んだ。


「いいや、。だが私は、人の「生気」の色を見ることができる『色命数士しきめいすうし』だ。それで健康状態がわかる。お主の「生気」の状態を見た所、人が体内に宿している『八色』全部が暗く、濁っている状態だ。

お主は何らかの理由で強い『九黒クコク』の瘴気を取り込んでしまった。記憶の混濁もそのせいだろう。ほら、髪が灰色を帯びてくすんでいる。本来の色は白金ではないか?」


「……そう……なのかな?」


 青年の顔は暗い。月桂の言う事が理解できなかったのか、反応が鈍い。


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