青と黒のチーズイーター

栗岡志百

序章 ジャケットを脱げない彼女

 地上二十六メートルにある家は静かだった。

 ルシアが潜んでいるアパートは、市で最大の繁華街「ミナミ」にある。

 二百六十万を超える人口に、国内外問わずにやってくる観光客の往来も多く、終日にぎわっていた。

 アパートから五分も歩けば、その活気の只中に入れるというのに、遠い存在でしかない。

 いまのルシアには、その五分すら出歩くことが許されていなかった。匿われている部屋から一歩も出ないことを求められているから、孤島にいるようだ。

 身の安全のためには仕方がなかった。

 この部屋に到着するなり、ルシアの手荷物も運んでくれたダニエラが言った。

「冷蔵庫や水屋みずや(食器棚兼食料庫)の中のものは自由に使っていいって」

 見知った動きでキッチンスペースにいき、食べ物や飲み物がある場所をみせた。

「窮屈な思いさせるけど……」

「大丈夫。閉じこもるっていったって、長くて二、三日。我慢できるよ」

「なるべく早く迎えに来てもらうから」

 話好きで友人も多いルシアがひとりで過ごす苦痛を気遣っていた。

「あたしよりダニーのほうがずっと危ない。気をつけて」

 早く行かせようと思いながらもルシアの腕がのびる。

 暑くて汗がにじんでいるのに、寒い。ダニエラの体温をもとめ、自分より少しだけ身長が低い身体を抱きしめた。

 彼女のすべてを覚えておこうとするように、肩に回していた手をゆっくりおろしていく。アッシュブルーのジャケット越しに、厚みのある、しなやかな背中へ。

 さらに下へ。

 腰にふれ……とめた。

 手が感じた、硬く、無骨で、冷たいスチールの感触。

 コットンリネンでも、湿度の高いこの街の夏にはあわないジャケットを脱げない理由がそこにあった。


「今からでも一人で逃げる気ない?」

「え?」

 ルシアは目を丸くし、腕をといた。

「〝保険〟はこのまま持っていく。やっぱり、ルシアに危険なことさせたくない」

「そこはもうお互い承知してると思ってたけど?」

 正面からダニエラを見て言った。

「ダニーが保険を持っていくんだったら、あたしも一緒に行っていいよね?」

「……こんな言い方は厭だけど、ルシアは配偶者でも家族でもないから、警察に保護してもらえる、絶対の確証がない」

「配偶者にさせないくせに、勝手な理屈よね」

「…………」

「ごめん。ダニーを困らせるつもりで言ったんじゃないから」

「わかってる」

「あたしのこれからに、ダニーがいなきゃ意味がないの。だから、あたしのことを思うなら、無事に捕まって……って言い方もヘンだけど。そしたらあたしも安全になるよ」

 ダニエラを納得させようとする。

「会長が手を回して、信用できる人間が付くようにしてくれる。けど、会長の力がどこまで有効なのか正直わからない。ドアを開けるときは、充分確かめて。

 証拠品はどうなっても構わないから。自分をいちばんに守ってほしい」

 ダニエラが腰の後ろに挿していたものを差し出してきた。

「撃つ直前まで、トリガーに指をかけないように注意して。セイフティを外すのを忘れないで。落ち着いて使えば大丈夫」

 手のひらが一キログラム弱の重さを感じとった。渡されたのは、オートマチックピストルだ。

「ためらった隙で殺される。撃つときは思い切って。ルシアが生き残ることだけ考えて」

 使い方は教えてもらっていた。空撃ちドライファイヤでトリガーを引くトレーニングもした。けれど……

「あたしはいい。ダニーが持ってて」

「ルシアが一人でいる間が心配なの」

「慣れない人間が銃にさわるほうが不安でしかないよ。だいたい銃を使わなきゃいけないような場面から、あたしが抜け出せるとは……」

 間違えた。これではダニエラの不安をあおるだけだ。ルシアはすぐに台詞をあらためた。

「あたしは迎えにきた人が護衛もしてくれるだろうけど、ダニーはひとりで目的地まで行かなきゃいけないんだよ? どっちに身を守る武器が必要か、一目瞭然じゃない」



 ダニエラが出ていき、ルシア一人になると、狭いアパートが急に広く感じた。

 心細いのだ。ダニエラを送り出すために、強がってみせただけだった。

 ポジティブな姿勢は、自分の不安をごまかす手段であり、ダニエラを安心させるためでもある。普段あかるい人間が、テンションが低い姿を見せられなかった。

 ルシアは身を守れる武器を何ももっていない。保護してくれるはずという迎えを、ただ期待して待つ。

 遠くの方から聞こえるざわめきと対照的に、ルシアがいる家は静かだ。

 そのことがいっそう一人でいる実感を強くした。

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