九章 Real Face
1 砂糖入りコーヒーは甘くない
処置をおえて診察室を出たリウは、順番待ちの急患であふれかえるロビーを見渡した。
クドーの姿は、まだなかった。
近くに繁華街がある救急指定病院だけに、夜間でも患者が減ることがない。検査待ちで時間がかかっているのかもしれなかった。
静かさを求めて、廊下の突き当たりにある休憩所にむかう。パーテーションで区切っただけの簡素なスペースだが、病院の規模にあわせてそこそこ広い。付き添いで来たのか、テーブルに
ひとりだけかと思ったが、ずらりと並んだ自販機の前に、もうひとりいた。藍鼠色のジャケットを腕にかけ、飲み物を選んでいる男がいる。
背は高くないが、ワイシャツ越しにがっしりした身体つきは——
リウは
「おごったるで。どれにする?」
振り返りもせず訊いてくる。いなかったことにはできなかった。
「……いりません」
「わしから差し出すもんは水一杯も受けられんとか、おまえまで言うなや?」
顔だけむけてきた
「その親指、固定しとるとこみると手こずったみたいやな。わしと
「あなた方だから、気づけなかったんです」
立誠が嬉しそうに笑む。
同時に、少し離れたテーブルについていた、四十代の小柄なスーツ女性が立ち上がった。鋭い目を伏せリウに黙礼すると、空気さえ乱さず壁際へと離れる。蔡のダークスーツが休憩所の風景に溶け込んだ。うたた寝をしている男性の寝息は穏やかなままだった。
「新しい副署長には、さっそく一線引かれましたか」
立誠には、<ミナミ飲食業福利厚生会>会長の顔もある。リリエンタール副署長には菓子折り持参で、すでに接触ずみだろう。そして、菓子は断られたとみた。
「幹部のくせに、なかなか面白いひとやった」
立誠の「面白い」は、あたりの良さといった表面的なことではない。質問に答えていないが、気に入った様子をみせた。
「
立誠が、カップ式自動販売機のボタンを押した。
「無糖で」と言うまえに、すでに砂糖の調整ボタンに手がかかっている。最大量を押されてしまった。
「その様子じゃ、なんも食べてへんのやろ? 手っ取り早いエネルギー補給しとき。まだ必要になるからな」
思わせぶりな言葉がひっかかるものの、差し出されたカップを受けとった。
コールドではなかった。夏でも冷たいものを好まないリウの好みを覚えているのが劉会長だった。
紙コップを手にリウは、座ることなく近くの壁にもたれた。
甘党の立誠が買ったのは瓶ラムネ。蔡にはコーヒー牛乳を手渡し、手近なイスにすわった。
「リリエンタール副署長は、私のことをご存知のようでした。高城ロペス・ルシアさんの警護役に、私を推しましたか?」
「はっきりシロやとわかっとる持ち駒が必要やったからな」
あっさり認めた立誠は、キャップシールをはがし、玉押しでビー玉を落とした。しばらくそのままにして、ラムネからあがる泡が落ち着くのを待つ。
「私も金欲しさに内通者になり得ますが?」
「せやからいうて、あんな節操ない
「…………」
「おまえは金だけで納得するやつやない。生活費を稼げさえすればええ思てるんやったら、除隊のあとは成り行きのまま、ウチに落ち着いてるはずや。おまえなりに警官の職に思うことがあって選んだんやろ?」
「信用をいただいているのだと思っておきます」
「おおよ。それに、モレリアの連中が手ぇ出してきても、確実にガードできるいうのもある」
リウは声を落とした。
「ダニエラ折場カルヴァーリョの密告を助けるため?」
ラムネに口をつけようとしていた立誠が、事あり顔になる。
「こっから先を話すんやったら、人の耳がないとこ行こか」
男性のうたた寝は熟睡にかわっていたが、立誠は慎重だった。リウは返答として、おごってもらったコーヒーを一息で流し込む。
甘い……。チェイサーに水がほしかった。
夜勤の病院スタッフが慌ただしく廊下を行き交う。その動線に影響をあたえることなく、ラムネ片手の立誠がすべるように歩いた。
リウは、まわりに聞かれても問題ない話題を立誠にふる。
「こちらには屋台の爆発事故の関係で?」
「ああ。けど、見舞いより営業したかったなあ。さっきの休憩コーナー、人の手で茶を入れる喫茶室に変えたいんや」
「そちらの話は別の機会に」
屋台の持ち主には<ミナミ飲食業福利厚生会>から保険や見舞金が出る。だからといって、会長が直々に連絡する必要はない。一般的には。
「商売道具まで壊されたんや。安心材料は早よ聞きたいもんやし、会長が顔出したら大事にされてる思うやろ? そっからクチコミで広がって、厚生会の信頼もあがる。ミナミでのクチコミの威力は、クドーさんとおったらわかるやろ? 面会時間外のワガママがきくのも、会長職の有効利用や」
爆破されてもタダでは起きない。それだけではないとリウは思っていた。立誠は多忙であるし、お人好しでもない。
それはそれとして、リウは後ろをついてくる、もうひとりにお願いする。
「すいませんが、私より前を歩いてもらえませんか。蔡さんに他意がないのはわかっていますが、蔡さんだから落ち着きません」
一瞬きょとんとした蔡が、ゆるく微笑む。目で立誠に許可をもとめた。
「その〝感覚〟を警察やのうて、うちで使てほしいもんやな」
しょうがないといったふうに苦笑し、部下を呼んだ。リウの死角から外してやる。
病院の駐車場に出ると、立誠は植え込みがあるほうへと向かった。深夜という時刻なだけに、車両はまばらで人の姿もない。
リウは習癖で、周囲を見まわした。
生い茂った木々が、病棟の窓からの視線をさえぎっている。設置されている照明が遠いせいで、蔡の地味なスーツは都市迷彩の機能をおび、彼女の輪郭をぼかしていた。
「内緒の取り引きには、うってつけの位置ですね」
「お互い、明るいとこより落ち着くやろ?」
ジョークの口振りで本音をだす。<桃李苑>のオーナーでも<ミナミ飲食業福利厚生会>の会長でもない顔をあらわにした。
話の内容が剣呑になっていく。
「しょうもないクスリを流すやつは、飲食商売のジャマでしかない。
ミナミで生きてる人間は、よそから逃げて来た
「松井田はあなたの方針を知っていたはずです。退職金をふいにするかもしれない危険を承知で、カルテルに取り入っていたんですか?」
「風蓮は興味のない人間には、ほんま無関心やな」
すでに承知の苦笑をみせた。
「そこまで考える男やないで。退職がみえてきた年齢になったからこそ、辞めるまえに稼ごうとしたんや。
松井田は、<モレリア・カルテル>への要求をエスカレートさせよった。今までどおり小遣い稼ぎ程度で抑えときゃええもんを欲かきよったんや。市議会議員やった父親のコネで分署長におさまっただけあるわ」
「褒美を高望みする松井田をモレリアが見限りましたか」
「分署長室から動かん男が、どんだけの情報が集められるもんかな。斡旋や中立ちも大したことでけへんやろ。そんなんで報酬あげろいわれたモレリアにしたら、切り捨てるきっかけにするだけやな。
ダニエラ折場カルヴァーリョのことを聞いたんは、こういう流れが出てきたときでな。やりたい放題の<モレリア・カルテル>、そいつを助長する松井田、まとめてミナミから
「話がずれますが、モレリアは松井田の代わりを用意しているのですか? あるいは内通者は他にもまだ複数いる?」
「まだ全部はつかんどらん。松井田はモレリアの連中と直接会うことを極力避けようとして、封筒で情報と見返りのやりとりをしとった。この封筒運搬係をとりたてる動きがあってな。
『サゲイト』いうやつや。組織犯罪担当の第一線におるやつやから、こいつの情報なら松井田より——」
「待ってください。サゲイト?」
聞いていた名前が、思わぬところでつながった。
「普段は通称名を
組織犯罪担当の警部補——
「……思い当たる人物がひとり」
本来の姓を聞いたのは、初めて会ったときだけだったように思う。部署が違うし、名を聞くことがあっても通称名で通っていた。いつのまにか、本来の姓があったことすら忘れていた。
「話の途中やけど、ちょっと付き
立誠がラムネを飲み干し、空き瓶を握り直した。シンクロナイズして、控えていた蔡も静かに動き出す。
リウは眠そうな目で応えた。
「いろいろあって疲れました。クドーを待っていたところですし、逃げていいですか?」
「つれないこと言うなや。砂糖たっぷりスイートなコーヒー飲んどいて、よかったやろ?」
「思い出させないでください」
舌がまだ甘ったるい気がする。甘いコーヒーは、やはり仕込みだった。
立誠が楽しそうなのは、これからの展開に対してだ。
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