「ここは、満員だ」〔ホラー〕

 夜、数階建ての古いビルの屋上フェンスを乗り越えて、建物の縁に立っている若い女性がいた。


 見下ろすと、ビルとビルに挟まれた袋小路が見える。

(ここから、一歩だけ踏み出せば、楽になれる)

 思い詰めた表情の女性は、吹き上げてくるビル風に髪を巻き上げられても、気にするコトもなく……闇が広がる袋小路の路地を見下ろしている。

(自殺する人の本当の気持ちなんて……本人以外に、誰もわかるはずもない……誰にも)


 女性は携帯電話の電源をOFFにすると、フェンスの一部に指を引っ掻けて少し前のめりになる。

(このまま、指を離せば……確実に死ねる)


 街の自殺の名所──そのビルの屋上からは、引き寄せられるように。何人も飛び降りて命を絶っている。

(もうすぐ、あたしもその一人に)

 フラッと前方に体が揺らいだ瞬間、後方から男性の声が響いた。


「やめろ! そこから、飛び降りるのはやめろ!」

 突然の声に、驚いた女性はフェンスを強く握って振り返る。

 そこには作業服を着た、中年の男性が厳しい顔で睨みつけていた。

 中年男性が、続けてしゃべる。

「どんな理由があって死のうとしているのか、それは本人にしかわからない……死にたければ、勝手に死ねばいい、だがそこから飛び降りるのはだけはやめろ!」

 よく考えたら、自殺しようとしている人間に対して奇妙な説得だった。だが、自殺を決意した女性には、その奇妙さに気づく余裕はない。


 下を見下ろしながら、男性に向かって毒づく女性。

「近づかないで! 放っておいてください! あなたに何がわかるって言うんですか!」

「あぁ、わからねぇよ……わかるのは、この高さから飛び降りたら痛いってコトだけだ……頭がスイカみたいに潰れたり、肋骨が折れて内臓が飛び散るヤツもいるぞ……痛いぞうぅ、もう満員だ」

「あなた、いったい何を言って……」

「とにかく、そこから飛び降りるのだけはやめろ! 迷惑だ」

 再度、中年男性に目を向けた女性は戦慄した……そこには誰もいなかった。

(えッ!?)

 この時、振り向いている女性の顔の反対側……今さっきまで、下を覗いていた場所から。下半身がぼやけている、若い女の上半身だけが上昇してきてスウッと、闇の中に消えたコトに女性は気づかない。


 飛び降りようとしていた女性は急に怖くなり。

 足が震えてきた。

 必死にフェンスをよじ登って、屋上に座り込んだ女性は小刻みに震える体を手で押さえて、座り込む。

(今の中年男性はきっと、あたしに自殺なんかするな……命を大切にしろと、教えるために出てきたに違いない……もう少しだけ、生きてみよう)


 女性が少しだけ現世の未練を強めた時──自殺ビルの袋小路では、密着密集した自殺者たちの霊が蠢いていた。

 顔が半分潰れた者。

 手足が奇妙にネジ曲がった者。

 腹部が裂けて内臓が露出している者もいた。


 密集している地縛霊たちの中で、ビルの屋上まで上がって消えた、頭に血痕がこびりついている女性霊が言った。

「彼女、思いとどまって、別の場所に移動してくれたね」

 自殺希望者の女性を屋上で、説得した中年男性が、血まみれの地縛霊の中で揉まれながら言った。

「もう、いっばいなんだよ定員オーバーだ……このビルは自殺霊が多すぎる、自殺したかったら他に行けってんだ……ったく」


  ~おわり~


【説明】地縛霊はその場に留まるらしい。何年も……未練がある限り。

 もしかしたら、普段見慣れている雑踏の中にも、実は多数の霊が紛れ込んでいるのかも知れない。

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