第5話
相変わらず、香織とのけんかが絶えなかった。
何とか自分の抱える焦燥感や、不安定な精神状態をコントロールしようとするのだが、つい津田は、些細なことで香織となじり合いをしてしまう。
しかし、間もなくめぐみもパパママがいえるようになり、ぽつりぽつりと意味のある言葉が口から出るようになると、かわいさも増し、津田はめぐみのためにも何とかもう少し生活のレベルを上げたいと考えるようになって、ネットの求人欄にも目を凝らすようになった。
しかし、学歴も技術もなく、小さな会社のツアーコンダクターしかしたことのない津田には、今より条件のいい仕事はなかなか見つかりそうもなかった。来る日もくる日も、コロナが終息してツアーが再開され、いつかまた待遇がもとに戻るのを夢見ながら、実質的に開店休業状態の会社から安い給与明細を受け取り、そしてしばしば、香織となじり合いのけんかを繰り返すのだった。ほかにはどんな生き方も見つからなかった。
津田は、疲れていた。香織も、たぶん疲れていた。そして、戦争が始まった。
津田はその日、電車に乗っていた。満員の通勤電車の中で、随分繰り返してきたように、津田はその時も押しつぶされそうになりながらドアにもたれかかり、窓外を流れる対向車線側の2本のレールを見るともなく見ていた。
対になったレールは、朝の光に1点がとりわけ強く輝き、その輝きは電車の速度に合わせて津田の目の下をどこまでもついてくる。しかし、このどこまでも続くはずの輝きが、たとえ苦痛でたまらず、いっそぷっつりと切ってしまいたいと思った輝きが、ある日突然自分の意思と関係なく本当に断ち切られてしまうことの脱力感を、想像もしなかったその無力感を、津田は今ひしひしと思い知っていた。
海外旅行業界は、この戦争でとどめを刺されたのだ。
「辞めていただけませんか」
ひと月ほど前、専務から突然そういわれた。津田よりもずっと年下で、結婚もまだしていない社長の息子が、妻と子を抱えた津田に突然そういった。そして、
「申し訳ありません」
とひとこと、申し訳なくなさそうに付け加え、次の給与の締め日である10日を過ぎたら、もう一切来なくてよいと津田に告げた。
じわじわと虚脱感が襲ってきたのは、その日の夜、香織にそのことを告げてからだった。めぐみが寝るのを待って香織にそのことを話すと、香織は黙って青ざめた顔を両手で覆い、俯いたかと思うと、ひと呼吸おいてから指の間から嗚咽を漏らした。
「なんでなの。なんで私たち、こんなに不幸にならなきゃいけないの」
そしてしばらくの間、ただ泣いていた。津田はめぐみの脇にごろりと横にになって、全身がゆっくりと虚脱感に覆われてくるのを感じていた。めぐみが横で静かな寝息を立てていて、それが一層せつなかった。
戦争さえなければ、そしてコロナさえなければ、そう思ってみても、もうどうなるものでもなかった。
それから何度か、こうして辞めさせられることが決まった会社に通っているが、その日は、もう津田の中で何かが壊れ切っていた。10日の締め日まではあと2回出勤しなければならなかったが、津田はもうその壊れ切ったものを、修理する気力がなかった。津田の降りる駅で列車が止まり、多勢の勤め人が乗り降りし、ドアが閉まっても、津田はじっと立ったまま動かなかった。列車が動き出すと、津田はこれで終わったと思った。最後に会社に対して微細な反抗をしたことで、津田は少し気持ちが慰められるのを感じ、それから5つ目の駅で下車した。
改札を出て200メートルほど歩くと、名も知らぬ川が流れる広々とした場所に出た。川は20メートルほどの幅があり、そのこちらと向こう岸に、それぞれそれと同じくらいの、雑草の茂った河原が広がっている。それらが見渡せる堤防に腰を降ろし、一服つけた。
ただ、ぼんやりとしていた。もういいんだ、と思った。もういいんだ、何もかも。1本が2本、2本が3本になっても、津田はぼんやりと座ったままたばこをふかし、そうして昼下がりまでをそこで過ごして、その後あたりをぶらぶらしてから家路についたのだった。
それから数日は、何をするでもなかった。香織とも話をせず、めぐみには時々愛想笑いを見せるだけで,小さな家の片隅で横になったり、気まぐれに外を歩いてみたりして過ごした。川辺で,もういいんだと思ったが、しかし外を歩くと、少しずつ、なんとかしなければ、という気持ちを感じることがあった。戦争ではたくさんの人が亡くなっている。が、自分には、まだ命がある。その気持ちは時間が過ぎるに従って津田をしだいに強くとらえることが多くなり、テレビやユーチューブで惨状を見るたびに、津田はしだいに、じっとしていられない気分になることが多くなった。津田の両親も香織の両親も、どちらも年金で細々と暮らす老夫婦で、金銭的な援助は期待できないから、津田はとにかく仕事を探さなければならなかった。そしてできればそれは少しでも早い方がいい。今までの安月給で、蓄えもそれほどない。
自分にはまだ命がある。この言葉に勇気を得て、津田はハローワークに通うようになり、ネットの求人には、隅々まで目を通すようになった。
業種にはこだわらなかった。職種も、営業、経理、肉体労働、何でもやるつもりになった。そうして探していると、ぽつり、ぽつり、と自分でもできそうな募集を見かけることがあった。30代も後半で、旅行会社しか経験のない津田には、いい条件の求人などあろうはずもなかったが、20万をやっと越える求人に、津田は次から次へと応募した。休みは少なく、通勤時間は1時間半以上というのもざらだったが、それでも津田はいとわずに面接に出かけた。出かけるとたいてい、結局は不採用通知を受け取ることになるのだが、津田はそう簡単にあきらめるわけにはいかなかった。
いったい何社まわったか、自分でも分からなくなった頃、ふと目にとまった募集があった。
「施設警備員」
月給23万以上。24時間交代制。社会保険完備。交通費全額支給。制服貸与。高卒以上50歳くらいまで。経験不問。
津田は何かピンとくるものを感じた。今まで多少なりとも経験を問われるような仕事に応募しすぎたのだと考えた。これなら香織と共稼ぎでやっていけないこともない。今度こそ、30代後半の自分にもチャンスはある。
問い合わせると、まずメールで履歴書を送ってくれというので、津田は祈るような気持ちでそれを送った。
結果は早かった。2日後にメールが来た。
━━応募者多数のため、書類審査を行った結果、今回は貴方様のご希望に添えない結果となりました。悪しからずご了承ください━━そんなことが書いてあった。
つづく
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