第4話
「もういい。俺はこんな家出て行く。おまえなんか、青森に帰っちまえばいいんだ。2度とおまえの顔なんか見たくないからな!」
そう怒鳴ってパジャマのまま家を飛び出した。冬の寒い夜だった。津田は本当にもうどこかへ行ってしまおうという気持ちだった。
しかし、団地の建物の間を早足で歩いて、外の冷え込んだ空気にさらされていると、金も持たずに、パジャマ姿のままで飛び出してきたことを、すでに後悔し始めていた。何よりも、寒くて凍えそうだった。津田はとある棟の階段を上り、ほの暗い踊り場で、腰をおろして、両手で膝を抱えたままぼんやりとしていた。腰かけている尻が氷のように冷たくなり、体もますます冷えてきて、小1時間もすると、じぶんのしたことを馬鹿げていたと感じはじめた。津田の体は寒さのせいで小刻みに震えていた。踊り場から見える月だけが、やけに冴え冴えと輝いて見えた。
怒鳴った時は、自分でも怒りが込み上げてどうしようもなかったのだが、しだいに冷静になると、津田は給料日まで、ポケットの小銭でバス代を払って急場をしのぐ以外しかたないと思いはじめた。足りない分だけ、香織からもらえばいい。たとえスイカにチャージする5千円という金は香織も持っていないとしても、足りない分くらいはバス代を補充してくれるかもしれない。
1時間ほどして、津田は暗い夜道を震えながら歩いて、自分の住まいに戻ってきた。玄関のドアには鍵はかかっておらず、ふてくされた表情のままで中に入ると、奥の四畳半の部屋で、香織がめぐみを寝かしつけていた。
パジャマ姿の香織は津田に背中を向けたままだが、背後から香織の肩越しに覗き込むと、めぐみは仰向けになりながら微かに目を開けた。津田を認めると、あたかも待っていたように、そして戻ってきた津田を心から歓迎するように、うっすらと微笑み、そらからゆっくり目を閉じると、何事もなかったように静かに寝息を立て始めた。
津田にはこの時、めぐみが天使のように思えた。津田は思わず、目頭が熱くなるのを覚えた。
無垢な許し。こんな自分を微笑んで迎えてくれる純粋さ……。
子供に罪はない。
津田はそれ以来、自分のやり場のない憤懣が爆発することのないよう、極力自制を心がけるようになった。
団地に移って1年以上が過ぎた。
めぐみはもう2歳半だったが、言葉の発育が遅れているのか、まだパパママもいえなかった。それでも津田は、めぐみがかわいくてしかたがなかった。その頃はもう会社に行くのも週に2回あれば多い方で、昼間からめぐみの手を引いて近所を散歩するのが楽しみだった。そして、コロナよ、何とか早く終息してくれと心の中で祈るのだった。
ある日曜日、その日もめぐみを連れて、津田は近くの公園に散歩に出かけた。暖かくなったばかりの小道をめぐみの手を引いて歩き、公園までやってくると、
「ほうら、めぐちゃん、きょうはあったかいねえ」
そういってめぐみの手を離し、めぐみが何をしだすか、見るともなく見ていた。柔らかな陽射しが、木々の枝の間をぬって、めぐみと津田の上にちらちらと降り注いでいた。
公園といっても、古いベンチと、砂場と、すべり台があるだけの、小さな広場にしかすぎない。まわりには、高度成長期に建てられ、今はすっかり老朽化した団地の建物が、何十棟と2人を取り囲んでいる。
めぐみはしばらく、しゃがんでありの行列を見ていた。津田はコロナ禍で鬱々としている心身を、ベンチに座って癒した。その日は朝寝坊したが、まだ睡眠が足りない気がしていた。生活のリズムが乱れ、背中の方から、暗いカビのようなものが自分を覆っている気がした。津田はベンチに座ったまま、胸のポケットからたばこを取り出して火をつけた。強いけど、タバコの中で1番安い銘柄のものだ。と、そうしている津田を認めためぐみが、少しよたよたと歩きながらベンチのところまでくると、ベンチによじ登って津田の隣にちょこんと腰かけた。そして半ば津田のほうに顔を向けながら、何もいわずに足をゆっくりとぶらぶらさせ始めた。
この子は俺を何だと思っているのかな、と津田は思った。この子には、パパがいえないのだから、まだパパという概念は多分ない。だけど、こうして自分の横にきて、足をぶらぶらさせている。一緒に休んでいるつもりなのだろうか。なんだか分からないけど信頼できる人。自分を大事にしてくれる人。そういうふうに俺のことを思っているのかもしれない。
公園には、木漏れ日とそよ風があるだけで誰もいない。
津田は不思議に静かな気持ちになった。落ち着いた、穏やかな、何か自分も人を信頼したくなるような、未来の明るい生活を信じたくなるような、そんな気持ちだった。
津田は、今にして思うと、初めてめぐみと心が通い合うのを感じたのは、この時ではなかったかという気がしている。
つづく
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