第2話
津田が、郊外に2LDKのマンションを借り、香織との新婚生活を始めたのは5年ほど前のことだった。
津田はその頃、海外旅行をメインにした小さな旅行会社で、主にツアーのコンダクターなどの仕事に従事していた。
旅行会社といっても実は名ばかりで、似たような小さな規模のオフィスがひしめく街の一角に、申し訳程度に事務所を開設しただけの小さな会社だった。
収入も仕事がきつい割には少しもよくなかったが、香織の婦人服の店でのパート収入と合わせて、何とか人並みに生活していくことができた。
ツアーのない時は、香織は朝津田に弁当を持たせてくれた。仕事場では、同僚に愛妻弁当と冷やかされもしたが、津田はそんなことはおかまいなしに、埃っぽい事務所でとる昼食を心底楽しみにしていた。朝出勤すると、もう昼食の時間を心待ちにし、昼食が終わると、仕事が終わって香織のもとへ帰ることばかり考えた。
それはツアーに出ても同じことだったが、しかしツアーはきつかった。10日以上家を空けることも珍しくはなく、津田は仕事がいやでたまらなかった。ただ、香織のもとに帰れるということだけを心のよりどころにして、毎日必死に耐えた。耐えれば香織のもとへ帰れる。ただそれだけだった。
ツアーを終えて疲労しきった体を夜更けの電車に押し込み、香織に帰宅のラインを打って最寄りの駅まで戻り、バスに乗り換え、ぼーっとしながら自宅近くでバスを降りると、香織が立って待っている。
そんなことがよくあった。
「香織ちゃん」
そう呼ぶ津田に、
「おかえりなさい」
と香織は微笑む。
帰ってきたという安堵で力が抜けそうになりながらも、思わずいとしさがこみ上げてきて津田は香織の肩を抱く。2人で夜道を歩いて自宅に戻ると、香織の作った夕食が食卓に並べられている。
そんな夜の食事は心底おいしかった。2人で焼酎を酌み交わしながら、香織の手料理に舌つづみを打つのが本当に楽しかった。そしていやでたまらない仕事も、こうした香織との生活のおかげで継続して耐えていくことができた。
2年近くが過ぎ、香織から妊娠していることを告げられ、やがて香織につわりがくるようになると、津田は香織を心配しながらも、いよいよ仕事に精を出すようになった。香織がパートを辞めたため、生活は苦しくなったが、香織が病院の検診を終え、順調だと言われた、とか、女の子だと言われた、という報告を聞かされるたびに、津田は少しずつ、胸を躍らせるようになった。
子供が生まれた時の不思議は、今でも津田の胸の中に鮮明に残っている。
20代前半くらいまでは、自分と似た顔をした人間がこの世にもう1人生まれてくるということが、想像するだけでもいやだった。生を前向きにとらえられない津田にとって、自分が子供をつくるなど想像もしたことがなかった。そもそも子供もあまり好きではなかったし、世間一般の、家族というものを少しもいいものだとは思っていなかった。
それが香織と結婚してからいつしか感じ方が変わり、1人くらいなら子供がいても楽しいのではないか、と考えるようになっていた。津田はいつしか、人並みの家庭や、かわいい子供のいる生活を望むまでになっていた。
退院してきた香織が抱いてきた子は、まだ津田にも香織にもまったく似ていなかった。しかし、自分が香織を愛した結果、1人の赤ん坊がここにこうしているというのが不思議でならなかった。病院からタクシーで自宅に戻ってから、香織の腕から白いベビー服にくるまれたその子を受け取り、初めて自分の両腕に抱くと、津田は頭の中が真っ白になるのと同時に、そのあまりの重たさに、子供を抱いたまま思わずソファに座り込んだ。実際には3000グラムあるかないかのその子が、津田には途方もなく重く感じられた。そしてただ呆然と、抱いたその子の開いたばかりの目を見つめていた。
それからしばらくはツアーがない時でも、津田は寝不足の日が続いた。香織が夜中に赤ん坊にミルクをやる時、それを作るのを手伝ったりしたからだ。しかし、それは少しも苦ではなく、むしろ津田には楽しかった。分量を計った粉ミルクを湯で溶かし、容器を冷やしたあと、人肌ほどの温かさかどうかを、自分の手の甲にミルクを落として確かめてみる。それを持って香織に渡すと、香織の腕の中で、赤ん坊は吸い口にしゃぶりつき、ごんごんとそれを飲む。そうして香織と2人で、赤ん坊をあやしたり、その寝姿に見入るのが、津田には睡眠以上の憩いに感じられた。
数ヶ月もすると、赤ん坊を風呂に入れるのもツアーがない日は津田がやるようになった。赤ん坊を抱いて、あたたかな湯につかるのは、津田にとって癒されるひとときだった。湯の中で、赤ん坊はいつも気持ちよさそうにしている。体を洗ってやり、髪を洗って、ゆっくりと湯につかり、香織を呼ぶと、香織はバスタオルを広げて風呂場にやってくる。津田の手から香織の手へ、慎重に赤ん坊は渡され、津田の仕事は一段落する。
津田は、もう死を身近に感じることなどまったくなくなっていたばかりか、かつてない充足に包まれていた。生活は質素でつつましかったが、津田は生きていることに何の不満も感じていなかった。
つづく
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