香織とめぐみへ

レネ

第1話

 湯に月が浮いている。

 その月を眺めていると、津田は少し気持ちが慰められる気がした。両手ですくえばすくい取れそうなそうな月が、身体を動かして湯が波立つたびにゆらゆらと揺れ、小さな波間に消えたり浮かんだりしているのを見ていると、体を覆っていたどうにもならない倦怠も、少しずつ湯に溶けていく気がした。

 津田は湯の中で身体を伸ばす。ただうなだれて、鬱々として、列車とバスの座席に体を埋めているうちにこの温泉街へやってきてしまった津田だったが、こうして他に誰もいない露天風呂に1人で浸かっていると、今なら香織のことも許せるような気がしてくる。

 香織とは実によくけんかをした。初めの頃はとても仲が良く、けんかをするなど互いに考えられなかったのに、この半年は毎日のようにけんかをしていた。だが、その香織を、今は許せるような気がした。

 香織は、急に自分がいなくなったことをどう思うだろうかと津田は考える。パートから帰宅し、質素な夕食の支度をして、ラインをしても通じず、電話をかけても出ず、待てども待てども戻らない自分を、果たしてどう思うだろう。明日も戻らない。明後日も戻らない。3歳半のめぐみは、お父さんどこに行ったの? と香織に尋ねるだろうか。

 川のせせらぎが聞こえる。ここからは見えないが、露天風呂のすぐ下方を、小さな川が流れている。香織に別れを告げなければならなくなった今、静寂の中にたゆたうそのせせらぎを聞いていると、津田は昔の香織とのことを感傷とともに思い出した。

 自分も、自分の人生も、香織と出会ってから全く変わってしまったと今にして津田は思う。

「ぼくはもう香織ちゃんに決めたんだ。香織ちゃんしか考えられないんだ。結婚してほしい」

 出会ってから2、3ヶ月で、喫茶店でコーヒーを飲みながら不器用に、しかし真摯に香織にそう言ってから、その変化は一層急激になった気がする。32歳の時だった。

 香織の、北国育ちらしい色白の顔が、ぽっと火が灯ったようになったのを覚えている。大きくもなく、小さくもないふたえの目をキラキラさせ、ふっくらとした唇がほころんだ。背中まで垂らした長い髪を一度左右に振り、はにかみながら少し考えるような仕草をしたあと、小さく頷いたのを津田は忘れない。

 それまで、津田は生というものをなかなか前向きにとらえられずにいた。いつも、自分はいつ死んでもかまわない、という感覚を抱いて生きていた。困難に出会うたび、それを乗り越える努力がひどくおっくうになり、いっそ死ねたら楽だろうなどとふと考えるたちの人間だった。津田にとって、死の感覚はいつも身近に感じられていた。

 それが、香織と出会い、結婚して一緒に生活するようになり、やがてめぐみが生まれると、津田はいつの間にか死を考えることがなくなっていた。家族を養うことに、ある種の喜びさえ感じ始めた。責任の重圧を感じることがないわけではなかったが、それは少しも津田に死を連想させることはなかった。

 しかし、今はどうにもならなかった。もう終わりなのだ、と湯に浸かりながら津田は改めて考えた。津田は風呂からあがって身体を拭き、服を着て古ぼけたスプリングコートを羽織ると、立ち寄り湯をしていた小さな旅館を出た。まだ冷たい夜風がほてった頬をしんと冷やした。風にふかれながら少し温泉街を歩くと、入口や客室に明かりの灯った旅館に混ざって、時折、つぶれてしまって廃墟のようになった旅館が目についた。そうした旅館の経営者が、今いったいどうしているだろうと思うと、津田は会ってみたいような親しみを覚えた。収入がなくなってしまっても生きていけるような特別なすべを、自分に教えてくれはしまいかと、そんな気がした。

 津田は自分が泊まっている小さな民宿の2階の部屋に戻ると、膳に向かい、用意してきた便箋に「香織へ」と書きつけた。とたんに香織との楽しい思い出が頭をよぎった。

 自分は仕事で世界各国を飛び回っているのに、実際は金がないため、新婚旅行のかわりに2人で行った伊豆一周の旅や、休みの日、雨の中を山中湖へ遊びに行き、瀟洒なホテルに2人で泊まった時のことなど、香織と出会って初めて体験した楽しい記憶の断面が、次から次へと瞬時に脳裏に現れては消え、津田はいったい何を書いたらいいのか見当がつかなくなった。頬杖をついてペンを転がし、そのまま入口に背を向けて横になった。そして腕を曲げて頭の下にあてていると、新婚の頃はよく香織に腕枕をしてやったのを思い出した。

 津田はただ、そのままじっとして動かなかった。

 どれくらいの時間が経ったろう。「遅くなりました、夕食です」と、民宿の女将が食事を運んできた。

                   つづく 

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