第二章〈月のものぐるひ〉(2-2 甘夏に向かって柏手を打て)
経営も適当だけど、人事はもっとテキトーだよな。
面接時のことを思いだしつつ、心の中で苦笑していると、
「あのう」
カップルの娘のほうがそろりと見上げた。
「今日は、気紛れ、ないんですか?」
〈気紛れ〉とは、シャヴァンヌが今年の春から出し始めた、自家製焼き菓子である。
だが、近所の店から仕入れているチーズケーキや生チョコと違い、焼き菓子はいつでも提供しているわけではない。なぜなら、
ケーキを焼いているのが、バイトの深月だから。
深月の特技は、焼き菓子作りなのである。
昔、お菓子のお手軽レシピ本を母からプレゼントされ、最初から順繰りに繰り返して焼いていったら、どんどん要領がよくなり、一冊極めてしまった。
焼き菓子に関してはその本一本槍の深月なので、シャヴァンヌでも、お手軽レシピでしか焼かないが、それでも自家製という響きが好いのか、人気である。深月がいないときに、売り切れてしまうこともある。たまさかそういう日に当たると、「今日は朔か……」と呟く常連客がいるとかいないとか。
まさに、今日が新月だった。
「申し訳ありません。バナナケーキが午前中に終わってしまって。いまから別のを焼くんです」
「いまから?」
「はい。一時間半ほどで焼き上がると思いますが」
甘夏ケーキです、とにっこりすれば、女の子がかすかに頬を染め、恥ずかしそうに瞼を伏せる。
あ、出た。モジモジちゃん。
深月の営業スマイルに、女性がよく見せる仕草だ。
面白いよなあ。なにが恥ずかしいのかなぁ。
時間に余裕がおありでしたら是非どうぞ、と愛想よくいって、深月はその場を離れた。
カウンターの内に戻ると、魁人さんが作りつけの棚の中段から、唐草文様の青い和風カップを下ろしたところだった。コソ泥柄、と深月がこっそり呼んでいる、揃いの二客である。
シャヴァンヌでは、店主が客を見てカップを選ぶ。どう見ても適当に選んでいるとしか思えないが、お客さんには慎重に選んでいるように見えるらしく、カップ選びは概ね好評だ。
ちなみに、棚の上段におかれているアンティークカップは、ほぼディスプレイ用のコレクション。魁人さんがこれに手を出したら、要注意。女性客に、ちょっかいを出す気満々のときだから。
〈マスター公家〉の二つ名を持つ京風瓜実顔のこの店主は、上品そうな雰囲気に反して、バツイチ独身の未だ遊び足りないオヤジなのである。聞いたところでは、衣替えするみたいに彼女が変わるらしい。女難の相の深月とはえらい違い――
女難の相、か。
深月は甘夏を手にして、魁人さんに声をかけた。
「じゃあ、ちょっとケーキ作ってきます」
「はいよ」
端の暖簾をくぐって、キッチンスペースに引っ込む。
しかしすぐには取りかからず、しばらく掌の上で甘夏を弄んでいた。
スーパーで黄色い甘夏を目にしたとき。
ぎくりとした。甘夏が満月に見えて。
〈用があるときは、月に向かって柏手を打ち、私の名を呼ぶといい〉
松原橋での猪のことは白昼夢。紫さんのことも白昼夢。
だから、月を見上げて彼女の名前を呼ぶなんてこと――
「あり得ない、よね……」
微苦笑しながら、そっと甘夏を台の上におく。
冗談交じりに、甘夏に向かって柏手を打ち、名を呟いてみた。
「祓戸、紫子……」
それから、甘夏の皮を、さりさりとむいた。
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