結婚という名の契約
第10話 世界一美しい薔薇
その日は長谷川さんに我が家にご足労いただいていた。というのも私の仕事が立て込んでおり、外出が難しかったためだ。
「結婚誓約書が出来上がりましたね」
「はい」
署名・捺印を終え、改めて結婚誓約書を見返す。揉めてしまったこともあったけれど、こうして出来上がってみると感慨深い。何度も打ち合わせを繰り返して完成したこの5ページに、私達の新生活がつまっている気がした。
「……では、次のステップですけど」
私がそう言うと、長谷川さんは力強く頷く。
「はい、アレですね」
「はい、アレです」
そして私達の声は自然に重なる。
「両親への挨拶」
「プロポーズ」
……重なった?
「ん? 今なんて言いました?」
思わずそう尋ねると、長谷川さんも困惑気味に答える。
「え、あの、僕はプロポーズと言いましたが……」
やはり私の耳は正常だったようだ。
「え、プロポーズ、要ります?」
「え、むしろ要らないんですか?」
私としてはそんなことより両親への挨拶という最難関課題の解決策について議論をしたいのだが、どうやら長谷川さんにとってはそんなことではないらしい。
「いやだって、こんなに色々話してて、今更じゃないですか?」
少し呆れたように言ってしまう私。
「でも、大事なことだと思います!」
対して長谷川さんは目をランランと輝かせた。そういえば『結婚に夢を持っている』と語っていたことをまた思い出す。
「えーっと、分かりました。長谷川さんはプロポーズが必要だと、そうおっしゃるんですね?」
そう確認すると、長谷川さんは力強く頷く。
「……分かりました。しばしお待ちを」
そう言い残し、一旦部屋を出て扉を閉める。長谷川さんはトイレに立ったとでも思っているはずだ。そして私はあることを実行した。
私は用を済ませると、何食わぬ顔で部屋に戻る。
「お待たせしました」
「いえ」
スマホに目を落としていた長谷川さんが顔をあげる。
「長谷川さん」
私はなるべく真剣な目で長谷川さんを見つめた。
「はい?」
不思議そうに見つめ返す長谷川さんの前に、私はゆっくりとひざまずく。
「結婚してください」
そう言って、赤い薔薇……と言いたいところだが、そんなものはうちにないので、代わりにりんごで作った薔薇を差し出した。
「え……」
驚きに固まる長谷川さんに、芝居がかった口調で言葉を紡ぐ。
「恐らくこの先、貴方以上の人に巡り会うことはないと思います。どうか私と結婚してください」
「……」
長谷川さんから返事がない。流石にこんなことで誤魔化そうとするのは駄目だったか、と思ったその時。
ポロリ……
長谷川さんの瞳から一粒の雫がこぼれ落ちた。
「え……」
今度は私が驚きに固まる。そして次の瞬間、激しい後悔が押し寄せた。
「あ、あの、すいません。まさか泣くほど嫌だとは」
結婚に夢を持っている人に対してやるべきことではなかったのだ。
「あ、違うんです」
すると長谷川さんは涙を拭いながらそう言った。
「いえ、あの、本当に。私が無神経でした」
私は必死に頭を下げる。
「いや、あの、本当にそうじゃなくて」
長谷川さんの困ったような声に、私は思わず顔をあげる。
「あの、恥ずかしながら嬉しくて」
長谷川さんはそう言って、照れくさそうに笑った。
「……あの、本当に無理してませんか」
思わずそう尋ねると、長谷川さんは私の手のひらに置かれたままだった薔薇の花を、そっと優しく受け取った。
「本当に、こんな日が来るなんて思ってもみませんでした」
そんな長谷川さんの言葉に衝き動かされるように、私は静かに口を開く。
「……では、私と結婚してくれますか」
そうしてもう一度、世界で一番熱い言葉を紡ぐ。
「喜んで」
即席のその薔薇は、決して形は良くない。けれど、長谷川さんが愛おしそうに見つめてくれるこの瞬間だけは、世界一美しい薔薇だった。
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