ネコヤナギの刺青

阿下潮

第1話


 私は、おばあちゃんが好きだ。

 でも、お母さんはおばあちゃんのことを嫌っている。私もお母さんのことは嫌いだ。だから、いつか私に娘が生まれたら、きっと私も嫌われるだろう。


 おばあちゃんは一言でいえば、自由だ。

 おばあちゃんの自由さを表すエピソードはいろいろあるけれど、おじいちゃんが死んだとき、自分はもうお別れを済ませているから必要ないといって、お葬式に出席しなかったのが、一番印象に残っている。大人なのにそんなのが許されるんだ、と思った。お母さんはおばあちゃんのそういうところが嫌いなのだという。


 おじいちゃんが死んだあと、おばあちゃんはこの部屋で一人暮らしをしている。たまに遊びにくるとお菓子をくれたり、夜だったら一緒にお酒を飲んだりして、感覚的には親族というよりも友だちの距離感に近い。


 おばあちゃんの特徴を表す一番の象徴は、左腕に施されたタトゥーだ。(おばあちゃんはかたくなにタトゥーではなく刺青だという。厳密にはどちらも同じものらしいけど)タトゥーにしては珍しい絵柄だと思うけれど、穏やかな春の陽射しの中でふわふわと柔らかそうに膨らんでいるネコヤナギが描かれている。そんな図柄を選ぶのもおばあちゃんらしい。


 さらに珍しいのは、そのタトゥーが今では彫れる人を探すのも大変な、O(オールド)タトゥーだということだ。おばあちゃんが体に彫ってもらった頃は、彫師は芸術家として珍重されて、技術も継承されていたらしいけれど、F タトゥーが一般に広まってから、O タトゥーは一気に寂れてしまった。


 F タトゥーのF はflashのF 。図柄を自由に選んだら特別な光をパッと照射するだけで、体内に特別なインクが定着する。同じように特別な光をパッと当てたらインクが反応して簡単に消えるから、気軽に本物のタトゥーを楽しめるようになった。それまでもタトゥーのシールやそれっぽい模様のストッキングなんかがあったらしいけど、あくまでそれらはタトゥーらしきもの。身体に色素を入れる本当のタトゥーではないから、意図せず剝がれたり、消えてしまったりする。なんだかお手軽すぎて、その気にならない。やっぱりやるなら本物を、でもできる限り面倒なことは避けたい、っていう需要にマッチしたらしい。


 F タトゥーは、超極微小の色素粒子を真皮に直接沈着させる。低温プラズマを照射することで、マクロファージがうんたらかんたら……、とか一とおりサロンで説明は聞いたけれど、よく分からなかった。施術のあと、私の腕に椿の花は沈着したけど、脳みそに知識は定着しなかったみたい。


「で、今日は刺青の話をしに来たの?」

「違う……けど違わない、かな。聞いてよ、おばあちゃん。別れちゃったの、私」


 私は、ツバキが好きだった。いまも大好き、だと思う。

 でも、別れた。もう、ツバキとはふれ合えない。心も体も。


 大学に入って初めて彼女ができた。それまで彼氏がいたこともなかったから、特定の相手と恋愛感情を持っておつきあいをする、という契約めいた関係を築くのが初めての経験だった。


 同性の相手とつきあい始めたことについて、お母さんはことさら明るく受け入れてくれたけれど、おばあちゃんのリアクションは想像していたものと違った。密度の高い金属の重りを天秤に載せるときのような目で私を見たあと、「よかったね」と薄く笑った。おばあちゃんの時代は、つきあう相手が同性だと、おかしな目で見られたり陰で何かいわれたりしたらしく、結婚だってできなかったんだよと、後からお母さんが教えてくれた。

 刺青は入れるくせにそういうところは古いんだな、と思ったけれど、その時はもう、初めて彼女ができたことにとにかく浮かれていたから、正直おばあちゃんの反応なんてどうでもよかった。


 入学式で私の前の座席に座っていたツバキの赤い髪は、それまで淡々と過ぎてきた私の人生にねじ込まれた強烈な刺激だった。大学に入ったら自分も染めようとは思っていたけど、こんなきれいな赤を見せられたら自分がどんな色に髪を染めたとしても絶対に勝てないとくじけてしまうほどに鮮やかだった。


 入学は同じタイミングだったけど、ツバキは子どものころ、海外で生活していた関係で、年齢は私の四つ上だった。仲良くなって分かったことは、髪の色以上に強い感情を持った人だということ。話すほどに、今まで出会ったことのないその個性に惹かれていき、夏になる前には、私の方から告白していた。人生で二度目の告白だった。


 ツバキは私を受け入れてくれた。

 掌を重ねると、ツバキの指の方が長くて綺麗だった。


「カエデ」と私を呼び止める声が好きだった。その声が聞きたくてわざと聞こえないふりをした。寝ているふりをした。何度も繰り返すから、すぐばれて頭をはたかれるのがうれしくて、また聞こえないふりをした。


 お互いの体にお互いの名前のF タトゥーを入れることは、ツバキから提案された。私は椿を、ツバキは楓を、それぞれの腕に彫り入れた。初めてのタトゥーサロンで不安になっている私に、ツバキはその長い腕を肩にまわし、覚悟が決まるまで待つよ、と語りかけてくれた。

 タトゥーって自分の体の中に異物を受け入れることだから、やっぱり覚悟がいるよね。初めてならなおさらだよ。耳に吹き込まれる息を感じながら、ツバキの綺麗なまっさらな腕を見ていた。この白い腕には赤い楓が映えるだろうなと思ったら、とにかく早くそれが見たくなって、それからは怖がっていた自分がおかしくなるくらい、スムーズに進められた。予想したとおり、それはすさまじく艶美だった。


 そうして無事に私の腕にも椿のタトゥーが入り、凡々とした木の棒にぼってりとした花弁が開いた。私がそばにいなくても、椿のタトゥーがカエデを守るから。そう言ってツバキは、視線を私に固定したまま、自分の腕に舞った楓に口をつけた。私は椿の腕のタトゥーから目が離せなくなり、体の芯が熱くなるのを感じた。

 F タトゥーは施術後、クールダウンの時間が必要ないので、そのままツバキの部屋になだれ込み、お互いのタトゥーを眺めながら、互いの体に異物を受け入れる行為に耽った。


「まさか孫のセックス自慢を聞くことになるとはね。まあ、いいけど、そんな愛し合ってた二人が、なんで別れることになったんだい?」

「解放されたくなったのかな。ツバキは束縛が強かったんだよ。すごく」


 どこにいても一緒だった。ツバキの部屋に入り浸りだったけど、部屋の内でも外でもずっと二人で過ごした。大学の授業も一つのブースに二人で入り、くっつきながらディスプレイを眺めた。ご飯を食べる時も向かい合わせに座るより距離が近くなるからと隣に座った。


 はじめはそれが嬉しかった。愛されるってこういうことだと全身で感じていた。


 ただ、F タトゥーを入れた頃から、ツバキが私を見つめる視線が少し変わった。私がどこへ行くにも着いてきて、それこそトイレだって一緒に入ろうとして、なんとか押し戻したけど、ずっとドアの前で待っていた。笑って済ませられなくなってからは、それまで幸せに感じられていた行動の一つ一つが反転して、どんどん足枷みたいに重くなっていった。


 愛しているから、ずっとそばにいたいんだよ。そういわれても、管理されているようにしか感じられなくなってしまった。でも、これからだってどうしたって別々に行動せざるを得ない時があると思うけど、という私の問いにツバキは何でもないような顔で答えた。

 自分がそばにいなくても、タトゥーがカエデを守るから。

 タトゥーを入れた時と同じ言葉を聞いただけなのに、こんなにも煩わしく怖気を感じてしまうのか、と自分に少し引いた。


 次の日、タトゥーを入れたサロンとは別のサロンに行き、F タトゥーの除却施術を受け、私の恋は終わった。F タトゥーに使用する光源やインクは厳格に規定されているから、別のサロンで入れたタトゥーも普通に処理できるらしい。


「束縛がきつい彼女との恋が終わってめでたしめでたしじゃないか。で、どうしてカエデは泣いているんだい?」

「分からない。自分の気持ちが分からなくて、だからおばあちゃんのとこに来たの。私、どうしたらいいと思う?」


 昨日、F タトゥーも消して、隣にツバキがいなくなって一人で大学を歩いていた私に、友達が話しかけてきた。

 今日は護衛のお姉さんはいないんだね。

 多分、これからずっといないよ。

 ああ、別れたんだ、よかったね。


 よかったねといわれてかつんときた。別にアンタにそんなこといわれる筋合いじゃない。ツバキと別れてよかったかどうかなんて、アンタに決められることじゃない。

 私の中に残っていたツバキの欠片が心の底の方で吠えていたけど、表面上は曖昧に笑ってやり過ごした。


 大学からの帰り道、無人バスの中で知らない男に声をかけられた。急いで帰ってきた一人の部屋の静けさが、急に怖くなって、無意識に左腕を触っていた。

 失って気づくことがあるなんて、当たり前だしありきたりだけど、ツバキがいなくなってから気づいてしまったのだ。ツバキがいるという不自由さに守られていたということに。それを今さら欲しがる自分の身勝手さに。他人を受け入れるということに対する自分の無理解と覚悟のなさに。


「初めてのおつきあいなんてそんなものさ。あとになれば全部いい思い出、とはいわないけど、いろんなことに気がつけたんだったら、よかったじゃないか」

「でも、ツバキのことを傷つけた」

「案外、もう次の女を探してるんじゃない?」

「なんでそんなこというの? もっとちゃんと慰めてよ!」


 こんなことをいいあえるおばあちゃんでよかった。やっぱりおばあちゃんが好きだ。


「たぶん軽い気持ちだったんだろうな、いろいろと。F タトゥーを入れるときも、簡単に消すことができるからって、思ってたもん。やっぱり。次は、おばあちゃんみたいなO タトゥーを入れるくらいの覚悟でつきあいたい」

「誰とつきあうのも、どんな刺青を入れるのも、全部カエデが決めればいい。全部カエデの自由だよ」

「おばあちゃんはどういう気持ちでそんなかわいいタトゥーにしたの? おじいちゃんの名前、ヤナギじゃなかったよね?」

「私の大好きな人は、猫みたいな人だったから」

 こんなふうにはにかんで笑うおばあちゃんは初めてだ。いつも自信にあふれた笑い方をしていたおばあちゃんが、斜め下を見ながら頬を赤らめている。乙女がいる。

「それっておじいちゃんじゃないんだよね? おじいちゃんはお母さんみたいに堅物だったって、前にいってたもんね? うわぁ、そうなんだ。おじいちゃんと結婚しても、最愛の人との想い出をずっと残してたんだ。……なんかいいね、そういうの。秘めた愛」

 うつむいていたおばあちゃんが、顔を上げて何かを手放すようにため息をついた。私が、女の子とつき合い始めたと報告した時と同じ顔。

「私の時代は、同性と好き合うなんていう関係性は認知されてはいたけど、カエデたちみたいにおおっぴらにできなかったからね。秘めたくて秘めたわけじゃないよ。……でも、あの子は世間の目だとか、そういう縛りから一切解き放たれてた。自由で美しかった」

「おばあちゃんみたいに?」

「私なんて。あの子は堂々としたかったのに、私がお願いして秘密にしてもらったんだよ。その代わりに二人で刺青を入れた」

 おばあちゃんはひなたぼっこしている猫にするように、自分の腕を撫でた。

「あの子への憧れ、証明、誓い、祈り。周囲への反抗もあったと思う。あと、自分への戒めだとか呪いとか」

 少しの沈黙のあと、顔を上げて、いつもの顔でいう。

「まあ、でも、刺青を入れる理由なんてどうでもいいんだよ。全部、カエデの自由にすればいい」

 空白になった自分の腕を見る。足を見る。全身、どこにだって描くことができる。私の自由を散りばめられる。

「私はこの刺青があるから自由でいられる。刺青を入れると決めた私が、私を自由にしてくれているんだ」

 ツバキと一緒にいたいと思った私は、私を自由にしていただろうか。

 分からない。今はまだ、分からないけど。

「やっぱりいつかO タトゥー入れてみたいな。私もおばあちゃんみたいな恋をして、おばあちゃんみたいなおばあちゃんになりたい」

「刺青なんだから、どっちだって一緒だよ。消さなきゃ消えないんだろ? future のタトゥーの方がカッコいいし、old のタトゥーは痛いよ、正直」

「いいじゃん、別に。私の自由なんでしょ?」


 私は思い描く。いつか体のどこかに、柔らかなネコヤナギの刺青を入れた自分を。おばあちゃんのようにしなやかに笑う私を。




                     了

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