君が作る柔の鉄槌

藍ねず

君が作る柔の鉄槌


 

 とある大国に小さな噂があった。


 ――森の一部が霧に覆われたら、人形師がやって来た合図だよ。


 その国では、前触れなく森に霧が立ち込めることがある。ある時は東の村で、ある時は南の街で。それはとある人形師がやってきた証であり、森の獣たちも静かになる。


 霧が隠した森の中、道なき道を進んだ先。望んだ時には現れず、気紛れに姿を見せる木製の家屋。そこに住むのが人形師。数多くの人形を制作し、訪れた者に最適な人形を与えるそうだ。


 人形師は予兆なく、霧と共に移動する。人形師が移動すれば霧は晴れ、元通りの森が戻ってきた。

 だから好奇心のある者は霧深い森へ入っていく。噂の真相を確かめに、どんな人形が貰えるのかと冒険気分で。


 しかし大半の者は何処にも辿り着くことなく、森の入り口に戻っている。家屋に辿り着けるのは、人形を必要とする者だけなのだから。


「あそこのご令嬢が森の人形師に導かれたらしい。それはそれは美しい人形を貰ったのだとか」


「見たことがあるわ。ご令嬢が抱えられていた人形、まるで生きているように精巧だったの。思わず見惚れてしまったわ」


「向こうの旦那も辿り着いたらしい。屈強な人形を畑に置いてから害獣被害がないそうだ」


「あの立派な人形だろう。通りかかった時、鋼の騎士が畑を守っているのかと錯覚したね」


「あの家の老人が――」


「向かいの奥さんも――」


「なんと領主の側近まで――」


 今現在、森が霧に覆われたのは西の街。そこで囁かれるのは人形師の噂。あまりにも出来がいい人形に見た者は驚き、貰った者は胸躍る。できることなら自分も人形を貰いたいと森に入る者は後を絶たないが、望んでしまえば辿り着けない不思議な場所。人々は口々に囁いた。


 あぁ、人形師はきっと、高貴な魔術師なのだろう。


「――って、噂が凄いですよ、ご主人」


「私を魔術師なんて高尚な者と勘繰るなんて、的外れにも程があるね」


 街で買ってきた物を机に置き、袋から食べ物や日用品を取り出していく。温かい木製の家は見かけによらず広く、棚には所狭しに人形制作の道具が並んでいた。


 ここは国で噂の森の奥。僕のご主人が住む木製家屋。僕のご主人は正真正銘の人形師であり、一日に何体もの人形を作っていた。


「ご主人、僕が作っていったお昼まだ食べてないじゃん!」


「あぁ、ごめんね。先にこの子を完成させたくて」


 作業机に向かっていた体を傾け、こちらを向いてくれたご主人。宝石みたいに赤い瞳はいつ見ても吸い込まれそうだ。緩く後ろで纏められた黒髪は床まで届きそうで、風に吹かれると良い匂いがする。

 着てる服もご主人を不思議に見せた。体に沿うような、確かマーメイドドレスとかいう服に造りが似てるんだ。黒い服は少しだけ赤が混ざっているから、ご主人の髪と目みたい。


 ご主人が持っているのは作りかけの人形と縫い針だ。あとはボタンの目をつければ完成なんだろうけど、作業に没頭して昼食を後回しにするのはやめて欲しい。ご主人は細いから、一食でも抜いたら倒れそうなんだよ。


「ご主人ご主人、僕が食べさせてあげるからお昼食べて」


「おやおや、それは手厚い給仕だね」


 ご主人が可笑しそうに笑ってくれる。僕は具材をしっかり挟んだサンドイッチを一口大に切り、ご主人の口に運んだ。


「美味しいね、ありがとう」


「まだ一口目だよ。早くその子を完成させて、ちゃんと食べて」


「うん、分かったよ」


 柔らかく笑ってくれるご主人は言葉通り、早々と人形を完成させる。柔らかな綿入り人形だ。一針一針丁寧に作られた人形は今にも走り出しそうで、僕は頬をつつきたくなった。伸ばした手はご主人に止められたけど。


「触っちゃダメ」


「……はーい」


「いいこ」


 ご主人の手が僕の頭を撫でてくれる。白い癖っ毛は雨の日にすぐ爆発するから嫌いなんだけど、ご主人は綿毛みたいで好きだって言ってくれる。だから僕も好きになれるよう手入れするんだ。ご主人が手当てしてくれた角も、縫ってくれた傷も、大事にしてる。


「おいで、ビル。美味しいサンドイッチに合う紅茶を淹れたいんだ。君も飲もう」


「はい、ご主人」


 作業机に置かれた人形を一度見て、僕はご主人の後をついていく。本当に美味しそうにサンドイッチを食べてくれるご主人は、僕の胸も満たしてくれた。


 ***


 僕は外れ者の妖精だった。周りはみんな黒いのに、僕だけ白い髪だったから。それがすごく目立って、揶揄からかわれて、森で迷っていたら獣や人に襲われてと散々だった。いま思い出しても悲しくなる。


『騒がしい森は嫌いなんだ』


 ヒビが入った角が痛くて、撃たれたお腹も痛くて泣いてた時。現れてくれたのがご主人だ。霧を払いながら出てきたご主人は格好よかった。目が合って、僕に上着をかけてくれて、安心した。


『耳と目を閉じなさい。そして十数える。できるかな?』


『ぁ……ぅ、うん、か、数える』


『いいこ。数えたら目を開けていいよ。うちに運ぶから、手当てをしようね』


『ッ、はぃ』


 涙を我慢できないまま目を閉じた。十を数えたのはとてもゆっくり、深呼吸をしながらだったと思う。恐る恐る目を開けたらご主人が僕の前にしゃがんでいた。眉を八の字に下げた、困ったような笑顔を浮かべて。


『あぁ、ごめんね、君があまりにも一生懸命数えてるから、もういいよって言えなかったんだ』


 開かれた両腕に抱かれて、周りを見たら獣も人もいなくなっていた。ご主人は僕を上着にくるみ、あやすように背中を叩いてくれたんだ。


 ヒビの入った角も、撃たれたお腹も、ご主人が持つ人形作りの道具で治してくれた。角は変形した鉄板で固定され、お腹は縫い針で塞がれる。自分が人形になったみたいだとは思ったけど、この人に作られるならいいかもしれないって感じたんだ。


 人形師のご主人は僕が行くあてがないと知ると、優しく両手を握ってくれた。


『ここにいていいよ。ここは、痛い思いをした子の場所だから』


 ご主人の赤い目は宝石みたいに澄み、僕の胸が痛くなる。たくさん泣いて、たくさん抱きしめてもらって、僕は「ビル」という名前を貰った。僕はご主人だけの妖精になったんだ。


「ねぇご主人、次の子は誰に貸すの?」


「必要としてくれる子に貸すよ」


 今日もご主人は人形を作ってる。手にはめて遊ぶパペット型の人形だ。可愛いキツネを模したパペットの目は黒いボタンがつけられて、きっと何でも見てくれる。


 右手にパペットをはめたご主人は、キツネの口を大きく開けた。


「コンコン」


 ご主人の声に合わせて木の扉がノックされる。僕はすぐに扉を開けて、そこに立つ女の子を見た。僕よりちょっとだけ背が高い、牛飼いの家の女の子だ。


 目の周りを真っ赤に腫らした女の子は、スカートを握り締めてしゃくり上げている。


「ぁの、ここ、魔法使いさんの……」


「魔法使いじゃないけど、そうだよ。ここは人形師のご主人の家」


「こんにちは、お嬢さん」


 足音もなく、僕の背後にご主人が立つ。すらりと背の高いご主人を振り返れば、彼女の手には今できたばかりのパペットがはまったままだ。


「霧の中、よく来てくれたね。話を聞くよ、なんでもお言い。温かい紅茶……いや、ミルクはお好きかな」


 ご主人はゆったりと牛飼いの女の子を迎え入れる。その手はとっても優しいと知っているから、誰かが来るといつも僕は嫉妬する。ちょっとだけね。


 ご主人と僕用の紅茶を淹れて、女の子にはあったかいミルク。家の中を恐る恐る観察していた女の子は、ミルクを飲むと泣いちゃった。


 キツネのパペットが口を開く。黒い瞳で女の子を観察する。


「さぁ、君はどうしてここに来たのかな」


「わた、私、私は――……」


 女の子の掠れた話が始まる。始終黙って聞いていたご主人は、微笑みながらパペットの口を閉じた。


 僕は足を揺らしながら紅茶を飲む。女の子の話が終わると、ご主人は満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう、聞かせてくれて。大丈夫、私がとっておきの人形を渡しておくからね」


「ほ、ほんと……?」


「私は嘘をつかないよ。さぁ、君にはこの人形を貸してあげよう」


 キツネが女の子へ渡される。彼女はご主人を真似てパペットを手にはめ、口を開閉させた。


「……かわいい」


「ありがとう。さぁ、ここからは大事な約束の話だよ」


 ご主人の指が女の子の顎を上げる。赤い目に見つめられた女の子は、背筋を真っすぐに伸ばしていた。柔和な笑みがご主人の顔に張り付いている。


「一つ、その人形を誰にも見られないようにすること。遊ぶとしても君と人形の二人だけにしてね。たくさん話しかけてあげると、きっと喜ぶよ」


 ご主人の手がパペットを撫でる。顎が自由になった女の子は、キツネを見てから頷いた。


「もう一つ、私が人形を渡した人にはちょっと不思議なことが起こる。その不思議なことは君の耳にも入るだろう。もし風に乗って話が届いたら、一日置いてからその子を返しに来て。大丈夫、霧は君を案内してくれるから」


「そ、それだけ? お金とか、」


「それだけだよ。お金も食べ物もいらない」


 ご主人が女の子の後ろに回り、立ち上がることを促す。パペットを抱いた女の子は少し不安そうにしながらも、開けられた玄関の向こうへ帰っていった。


 僕は紅茶を飲み干し、甘くなった唇を舐める。ご主人も口角を上げたまま紅茶を飲んだけど、赤い目がすぐに開いた。


 それと一緒に、玄関に帰ってきた音がする。


「ご主人。帰ってきたよ、農夫の旦那に貸した人形ナイトだ」


「そうだね、さぁ、お迎えしよう」


 ご主人が僕の頭を撫でてくれる。緩んだ顔で玄関を開けたら、扉の隣に鋼の騎士ナイトが帰ってきていた。

 ナイトは屈強な体躯で、人形の中でも蠟人形の部類に入れられる子である。御屋敷の入り口から畑の案山子の代わりまで、どこにいたっても見劣りしない立派な人形だ。勿論、ご主人が作る子の中で見劣りする人形なんていないんだけど。


 直立しているナイトの手は汚れている。僕はナイトの下半身に腕を回して持ち上げ、お湯とタオルを準備していたご主人の元へ連れて行った。


「おかえり、ナイト」


 ご主人はナイトの汚れた箇所を丁寧に拭いていく。中の人型から外の鎧まで、全てご主人お手製の人形だ。いつ見ても格好よくて凛々しい蝋人形。そんな彼も、ご主人に汚れを取ってもらっている時は嬉しそうな雰囲気だ。


 よかったね、おかえり、ナイト。


 綺麗になったナイトを奥の部屋に連れて行く。ご主人や僕の寝室とは違う、人形たちの寝室だ。ご主人と人形たちの香りで満たされた部屋には、シルクでできたローブを着た人形たちが座っていた。


 ご主人はナイトの鎧や体を整えて、ふんわりと白いローブをかける。ナイトの体からちょっとだけ気が抜けたのは勘違いではないはずだ。

 他の子と同じように、大事にナイトは椅子に帰る。彼のために準備された彼だけの椅子だ。他のみんなも自分専用の椅子に座って、棚や床に整然としている。


 この家のどこよりも広い部屋は人形たちのモノ。みんな静かに目を閉じて、自分の番を待っている。


 ナイトの頭を撫でたご主人は、部屋を見渡して口角を上げた。僕はご主人の視線を追い、シルクのローブだけが引っ掛かった椅子を見つける。


「ふふ、行こうか、ビル」


 満足そうなご主人が、僕の手を引いて部屋を出る。


 ご主人の作業机には、クマを模したぬいぐるみが座っていた。本来のクマの凶悪さなど微塵もない、正しく癒しの人形だ。


「部屋にいないと思ったら、ベアはやはり勘がいいね」


 柔らかい綿が詰まったクマの手とご主人が握手する。ベアは黒々とした目を輝かせた。人形の丸い耳に、ご主人は唇を寄せる。


「いいかいベア、君が行くのは、可愛い子どもばかり召し抱える商人の館だ」


 ご主人の囁きがベアに染みる。先ほどの牛飼いの女の子から聞いた話をそのまま伝える間、僕は空になったコップを洗った。


「これ以上傷つく子がいないように、お願いね」


 ご主人の言葉にベアが頷いた気がする。手を拭いた僕が振り返ると、ベアを抱いたご主人がすぐ近くにいた。


「ビル、ベアをお願いね」


「任せて、ご主人」


 笑った僕は両手を広げてベアを受け取る。僕の腕に抱かれたクマは、きらきらと黒目を輝かせていた。


 ***


 霧深い森の中、家から少し離れた切り株で、僕はベアと共にいた。柔らかいベアを抱いていると凄く安心する。ふわふわの手先を握ったり離したりすれば、ベアの耳がくすぐったそうに揺れたように見えた。


「おや、君は……」


 ふと霧をかき分けてきたのは、綺麗な身なりの男。上背があって、太い指には綺麗な指輪が何個も付けられている。


「もしや君が、人形師かな?」


 男に見下ろされる。僕は首を横に振り、切り株から立ち上がった。


「この子を貴方に。人形師のご主人からだよ」


「おぉ、なんと!」


 嬉しそうに男がベアを受け取る。僕は空いた両手を背中で組み、愛らしく上品なベアに満足する男を見つめた。


「まさか私にこんなに可愛らしい人形を贈るとは、人形師も粋なものだ」


「貴方に合うのはその子だよ。名前はベア。大事にしてね」


「あぁ勿論さ。……ところで、君の名前は?」


 気の良さそうな笑みを浮かべた男が僕に顔を近づける。瞳孔を細めた僕は、ご主人の言いつけを守るいい子だと自分に言い聞かせた。


「言う意味ないよね。さようなら」


 男を霧が包む。僕は背中で組んでいた両手を解き、肩に乗った優しい手に頬を緩めた。


「我慢できたね。いいこ」


 ご主人の手が僕の白い髪を撫でてくれる。僕は両手でご主人の服を掴み、火照る目元で問いかけた。


「ご主人、今晩はレディとベアの所に行きたいな」


「いいよ、行こうね」


 約束してくれたご主人に抱き上げられて、僕は足を揺らす。霧の中では朝も夜もよく分からないが、ご主人が夜になったと言えば外は夜なのだ。


「頃合いかな」


 灯りも何も持たず、頭から踝までを覆うローブを羽織って、僕とご主人は霧の外に出る。空には弧を描いた月が浮かび、街から灯りは消えていた。


「さて、先にベアの所へ行こうか。あの子は行動が早いから」


「はぁい」


 ご主人がローブから出したのは大きめ裁ち鋏。宙を真っすぐ縦に切ったご主人は、裂け目に体をねじ込んだ。僕も続いて切れた宙に入り、綺麗なテラスに足を着く。後ろでは何事もなかったように空中がくっついて、ご主人は裁ち鋏を仕舞った。


 ご主人の赤い目が細められる。僕はテラスと続く窓の向こうを見た。ここはベアを渡した男――牛飼いの子が言っていた商人の館だ。


 部屋の中にはベアと商人がいる。ご主人が言った通り、ベアは既に行動していた。僕はご主人の手を取って窓をすり抜ける。僕の種族の力の一つ、障害物を通り抜ける力はとっても役に立つのだ。ふふん。


 密閉された部屋に漂うのは血の香り。脂汗の匂いも混じり、床には鞭が落ちている。たぶん商人愛用の鞭なのだろう。今まで使用された形跡が沢山あり、僕の瞳孔が再び細くなった。


「ご主人」


「駄目だよビル。今はベアが遊んであげているんだから」


 ご主人に角を撫でられる。僕は少しだけ口を結び、を見た。


 家にいた時とはサイズが異なるベア。柔らかく茶色い布がいっぱいに伸びて、体も腕も丸太のように太くなっている。黒いボタンの目は眼球となり、左右それぞれ違う方を向いていた。裂けた口からは潜んでいた真っ赤な舌が零れている。


 丸い手の先からは、白い真綿が溢れていた。綿の先端は細くなり、俯せの状態で抱えた商人の背中を掻いている。


 商人は両手足を縄で縛られ、口には宝石でできたネックレスを噛まされていた。ネックレスは商人の後頭部できつく締められ、宝石の猿轡さるぐつわのようになっている。相変わらず、ベアはいい趣味をしてるよね。


 ベアは視点を定めていない目で、商人の背中を血だらけにしていた。寄り集まって細くなった綿の爪が何度も何度も商人の背中を往復して、服を破り、皮膚を裂いて、肉を抉っている。ベアの手元は血まみれだが、本人は気にしてないみたいだ。


 ゆりかごのようにベアが揺れる。その膝に捕まった商人は、血走る目で僕とご主人を見てきた。宝石の猿轡は涎に濡れてとっても汚い。抵抗したらしい手足首にも血が滲んでいるけど、この人がしてきたことに比べればなんてことないと思う。


「聞きましたよ、ご主人。貴方は悲鳴がお好きだと。泣く者を追うことがご趣味だと」


 商人の鼻息が荒い。涙と汗が流れる顔は色が悪く、ご主人は口角を上げた。


「とある女の子を召し抱えようとしていたらしいではないですか。いくらお金を積んだのですか? どんな泣かせ方を想像していたんですか? 私の家族にも手垢をつけようとしたようですが、そのようなことは許しませんよ」


 ご主人の声に商人は大きく震える。そんな震えさえもベアは簡単に抑え込み、血まみれの背中を掻き続けた。


 僕は部屋にある棚や引き出しを物色し、お金に換えられそうな物を探す。ローブの中に入れると家に送られるので、両手が塞がる心配はないんだ。


 僕の鼻を鉄の匂いが刺激する。ちょっとだけ、喉が鳴った。


 ご主人は商人に笑っている。


「私が作る人形には二種類の子がいましてね。一つは、人をあやす救済の子」


 ご主人が細い指を一本立てる。商人の荒い息よりも、ベアが背中を抉る柔らかい音の方が大きくなっていた。


 僕はご主人の傍に戻る。片手で優しく肩を抱いてくれたご主人は、二本目の指を立てていた。


「もう一つは、人を罰する天誅の子」


 商人の顔から完全に血の気が失せる。思い切り口角を上げたご主人は、ベアの頬を慈しんで撫でた。


「ベア、この商人の不要な部分を考えてみよう。暴言を吐く口。獲物を選別する鼻。加虐を映す目。悲鳴を無視する耳。さて、どこが一番不要だろう」


 ベアの体が大きく震える。舌は波打ち、眼球は即座に商人を見下ろした。


 血だらけの綿の爪が動く。ベアの綿は商人の耳の付け根に触れ、ゆっくりじっくり掻き始めた。赤い線が爪の往復に比例して濃く浮かび、皮膚は薄まり血が滲む。


 背中の爪痕はベアの舌が雑に舐め、過呼吸を起こした商人は痙攣していた。


 妖艶なご主人は微笑を浮かべ、裁ち鋏を握っている。


「あとは頼むよ、ベア。この館の汚れは頑固そうだから、徹底的にね」


 ベアの眼球だけが勢いよく動く。頷く仕草を見せたベアの手元で、商人の耳がゆっくり裂けた。


 僕は宙の切れ間に入ったご主人に続く。次はまた、違う館の広い廊下に出た。


「レディは踊りが大好きだからね」


 呟いたご主人は微かに音のする方向へ進む。ご主人の隣に並んだ僕もオルゴールのような音を拾った。


 僕とご主人が入ったのはダンスホール。大きな窓から月明かりが射し込む円形の広間で、中央にはレディとご令嬢がいる。


 レディは金色の髪に空色の瞳の人形だ。豪奢なドレスはやっぱりご主人の手製で、丸い関節のおかげで手足も自由自在に動く子である。抱えなければ運べない大きさも相まって、遠くから見れば本当に生きた女の子のようだろう。


 レディはご令嬢と共に踊っていた。金色の睫毛を揺らし、スカートを重力に遊ばせながら。ドレスに似合うパンプスが優雅に床を滑り、裸足に寝巻のご令嬢を引き連れている。


「もう、もうやめて……ゃすませて……」


 ご令嬢の足が絡まってレディの動きについていけなくなる。それでもレディは少女を離さず、金の毛先をご令嬢の腹部や関節に絡め、引き上げるように踊り続けた。


 擦り切れたご令嬢の足の裏。色の悪くなった指先に、目の下には黒い隈が浮いている。既に何日も眠っていない風貌だ。今のダンスだって、レディがご令嬢を引きずっているのと大差ない。


 レディはオルゴールの音色に合わせて踊り続ける。自由に伸びる金の髪はオルゴールの螺子を巻き続け、無尽蔵の体力でご令嬢を振り回した。対して、気力も体力もつきかけているご令嬢は、全て夢であれとでも願っている表情だ。


「ご令嬢は同年代の子どもの中でも裕福らしい。欲しいものは何でも買う。他人が持っていれば奪い取る。自分以外の者が輝くことに嫉妬して、笑うことに顔を顰めてしまうらしい」


 微笑むご主人の言葉に相槌をうち、レディの髪が伸びた先を見る。そこではご令嬢の両親が腕を組み、レディの髪で踊らされていた。

 全員揃って足が覚束ない。時間が経つにつれて足は動かなくなり、糸の切れた操り人形のように引きずられている。


 三人が気絶してもレディは踊り続け、朝方にはご令嬢たちをベッドに戻すのだろう。


 レディは捨てられたって戻ってくる。譲られたって帰ってくる。レディの気が済むまで、夜のダンスは終わらない。


 僕はご令嬢の爪が剥げたのを見て、ちょっとだけお腹を鳴らした。


「とある少女は、ご令嬢に大事な指輪を盗られたそうだ。またある少年は、家族同然の愛馬を殺されたそうだ。お母さんの形見の指輪。ご令嬢の馬より美しかった白馬。どちらも、何もしていないのにね」


 レディの髪が一つの指輪を投げる。ご主人は装飾品を大切に受け取ると、緩やかに踵を返した。


「帰ろうか、ビル。レディはまだまだ踊るらしい」


「はい、ご主人」


 涎を飲んだ僕はご主人と手を繋ぐ。裁ち鋏で森へと帰った僕に、ご主人は優しい表情をくれた。


 ***


「ぁ、あの……」


「こんにちは、いらっしゃい」


 数日後、やって来たのは牛飼いの女の子。キツネのパペットを抱いた子の目は、もう腫れてはいなかった。


 僕はあの日と同じように女の子を入れる。ご主人と僕用の紅茶を淹れて、女の子にはあったかいミルクを。今日も微笑んでいるご主人は女の子とパペットを見つめていた。


「商人が教会に連れて行かれたそうだね」


「は、はぃ。悪魔が憑いてるって噂を聞いて……御屋敷も、どんどん暗くなっていって、」


「君が働きに行かなくてもよくなった」


 ご主人の言葉に女の子は何度も頷く。安堵の雰囲気に包まれている彼女は、キツネのパペットを大事そうに机へ置いた。


「その、だから、この子を返しに、」


 女の子の手がパペットから離れる。かと思ったが、キツネの前足が女の子の指を握ってしまった。誰の手にもはまっていないのに、だ。


 女の子は目を丸くして、ご主人は優雅に紅茶を飲んでいた。


「おやおや、どうやらその子は、君をとても気に入ったらしい」


 キツネのパペットは女の子の手にすり寄っている。動く人形を見つめる少女は、大事そうにパペットを抱いた。目尻にちょっとだけ滴を溜めて。


「もしも君がその子を怖がらないなら、これからも話し相手になってあげてくれるかな?」


「……はい」


 笑った女の子の胸で、キツネのパペットも揺れている。この子たちがどんな話をしていたかは知らないが、救済の子はだいたいご主人の元へは帰ってこないんだよな。ご主人はそれを分かっていながら一度は帰しに来るよう言うのだから、いい性格をしている。


 パペットと一緒に帰っていった女の子には、嬉しそうな笑顔が咲いていた。


「よかったね、ご主人」


「そうだね」


「ねぇ、ベアの汚れはいつ落ちるかな」


「うーん、予想以上にこびりついていたからね、暫くは浸け置きだよ」


 苦笑したご主人を見て、僕は桶に浸けられたベアを思い出す。中の綿から血やら汗やら色んな匂いがしてたから、今日一日は洗剤と一緒だろうな。


「ビルのご飯は今夜だよ。レディを貸したご令嬢たち、衰弱してるみたいだから」


 不意に、ご主人が教えてくれる。その言葉に僕の口角が上がった。


 反射的にむず痒くなった背中からは黒い翼が生える。トゲトゲした翼は、僕を嫌った仲間のものと同じ形をしていた。


「あぁ、そっか、そうか、そうなんだぁ」


 想像するのは衰弱した魂の香り。生きる気力の薄れた命、死が近づいた灯の匂い。


 僕が何よりも、大好きな香り。


「早く、食べたいなぁ」


 頬が火照ってご主人と同じ目線に飛んでしまう。微笑むご主人は僕の角を撫でて、ゆっくりと僕の唇をつついていた。


「夜までは落ち着いて。可愛い可愛い私の妖精。真っ白な魂喰らいビル


 ご主人の赤い瞳が細められる。僕は口角を目一杯上げて、弾んだ声で返事をした。


「はぁい」


――――――――――――――――――――


真綿で首を絞めるように、ゆっくりゆっくり鉄槌を。

一瞬の激痛なんて易いだろと、人形師は笑うのだ。


霧の奥にいる人形師と、彼女の使いであるビル。


隠れ上手な二人を見つけて下さって、ありがとうございました。


藍ねず

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君が作る柔の鉄槌 藍ねず @oreta-sin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ