第45話 檻

 後ろ手に扉を閉めると、目の前の項垂れたような背中に声を掛ける。

「ここのホテル、共同キッチンがあるみたいだから、夕食はインスタント・ラーメンでもつくるよ」

 肩が揺れて振り返り、少し低いところから目線が上がる。明るいホステルの部屋で、ウロの周りだけがぼんやりと暗く濁っているようだ。

「……すまない」

 何を謝っているのか分からないことが、一番歯痒いのにな、と秋人は溜め息を吐いて、コートをハンガーに掛ける。備え付けの電気ポットで湯を沸かし、コーヒーを淹れて、小さなデスクの上に置いてやると、思い出し笑いに頬が緩んだ。

「砂糖三杯入れといたから」

 壁際のスツールに腰掛けていたウロが、心外というように眉を顰める。秋人はツインベッドの片方に座り、斜めに向き合ってコーヒーを飲んだ。このくらいのこじんまりした部屋の方が落ち着くな、と秋人は思う。手が届く距離だ。

「目、どうしたらいいのかな」

 金環が嵌められて漆黒に染まってしまった瞳を覗くと、夜の淵にでも溺れるような感覚に陥る。秋人は指先でウロの目元に触れた。また振り払われるかと構えたが、ウロは黙って俯き、されるままになる。はらんだ熱が痛いくらいだ。とくとくと己れの脈拍かウロの脈拍か、膿んだ指先を伝わってくる。


「……お前の手、冷たくて気持ちいい」

 ウロが掠れた声で呟いた。秋人は目を見張ったが、ウロが身体を温めてくれたことを思い出す。そっと右の瞼全部を、手で覆った。掌が焼けそうだが、滑らかな肌を撫ぜてやる。

「少しは楽?」

「ああ」

「これってあれ?俺が気を使っているっていうこと?」

 秋人の手の下で、ウロは小首を傾げたようだった。

「そうなんだろうが、コントロールできているようでもないな」

 そりゃそうだろう、修煉を始めてもいないのだ。これはあれだ、熱を出した子どもの額を、親が撫ぜてやるようなものだ。治るわけではないが、慰めにくらいにはなる。ウロは目を瞑っているようだった。

「なあ、どうしてこうなるのか訊いてもいい?前回のことも含めてさ」

 ウロが震えた感触がしたが、尋ねずにはいられなかった。せめてできるだけ優しく撫ぜてみる。隠れた表情から、低く声が漏れ出した。

「術士の一部が“化石する“のは、石に同調し過ぎたためだ」

 無限の時間を内包しながら、無謬の力を持ちながら、何ものをも変えられない、それが彼らだ。見る者の気が強いほど、反響もまた強くなる、底無しのうろ

「うん……俺は多分、父親とのことで、“ムーンリバー”に引っ張られたんだと思う」

「父親?」

「中学生の時に亡くなってるんだ。水泳は故郷で父から習った」

 “ムーンリバー”は失われた家族を残された家族を、失われた故郷を変わっていく未来を、慈しむ石だと思う。ごめん、とウロが声を詰まらせた。覆われた目で泣いているのかと思って、秋人は慌てた。

「いいんだ、俺だって助けられたんだよ」

「俺は憎悪から逃れられない」

 何もかも憎かった。だから今でも怨嗟の記憶を見ると、捕えられてしまう。もう嫌だ、けれど逃れられない。救われたいなんて願う、資格すら無いのだから。

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