第12話 夜になくもの
十時を過ぎると、モーテルの部屋はほとんど消灯している。月明かりに静まり返り、蔦の絡まる古ぼけた建物のにおいと車のオイルのにおいが、自分が何処にいるのか覚束なくさせる。
「シャワー先に使って」
昼過ぎにオーバリーに着き、このモーテルにチェックインを済ませてから、市中のギャラリーを見て回ったのだが、どうもそれらしきものに行き当たらない。地図のアプリを見ながら先頭をいくマリーはますます辛辣だし、付いてくるウロは本来無口だし、とにかく歩きに歩いて秋人はぐったりである。オーバリーは街の歴史からか、レトロで瀟洒な建物が多く、ゆかしく整備された区画に街路樹と花々も可憐で、自由に散策できたら楽しいだろうにと思うと残念でまたどっと疲れる。マリーは別のホテルに宿泊しているが、なんだかんだ言って夕食はご馳走してくれた。どこの地方都市にも大概チャイニーズ・レストランがある。軽くアルコールも飲んだので、頭がふわふわする。
「ウロ、……それ何? チョーカー?」
ツインの部屋を男二人で使うことに別に抵抗はないのだが、自分とウロは傍目からどういう関係に見えるのだろうか、と秋人は溜め息がつきたくなる。同い年には見えない、兄弟にしては似ていなさすぎる。友人にしては距離感が微妙だ。シャワーを浴びるためか、ウロはコートを壁に掛け、ハイネックの下から組紐に八日月のようなトップが着いたチョーカーを外して、ティーテーブルに置いた。そもそも、チョーカーを着けていたことすら知らなかった。アクセサリーに気を使うタイプにはとても思えない。ウロはどこかぼんやりとしていた面持ちを上げた。
「うん、オレの石。見るか?」
別に特別な意味は無かったのだが、手渡されて間近に見る。見た目よりも重いトップは、不思議な輝きをしている。
「綺麗だね。夜の獣の毛並みみたいだ」
秋人の言葉に、ウロは一瞬驚いたようだったが、直ぐに視線を逸らしてしまった。シャワー借りる、と踵を返す。水音が聞こえ始めて、秋人は改めて月光を鈍く返す石を撫ぜる。変なこと言ったかな、でも本当に生き物の手触りのような石だ。不意にばちりと指先に火花が走ったような気がして、秋人は石を落としかけた。危ない、と握った手に力を込めようとすると、石が牙の並ぶ大口をあんぐりと開いて、秋人の拳を呑み込んだ。
「うわっ! 食われる」
ように見えた。大声を聞きつけて、ウロがタオルを引っ掛けたままバスルームから身を乗り出す。
「どうした」
「いや……? ごめん、何でもない」
瞬きすれば何も変わらないモーテルの部屋に、カーテンが揺れている。しかし秋人は冷や汗と動悸で動けない。びっしりと尖った歯の並んだ洞窟のように大きい嘴で、骨ごと噛み砕かれるかと思った。ウロは一旦引き返すと、シャツに着替えて出てきた。窓際に座って手を握りしめたままの秋人に近付くと、凍ったように震える指を開かせて、チョーカーを取り戻す。
「……何が見えた?」
深淵の瞳。あの怪物に目があるのなら、こんな、と想像して、秋人は嗚咽が漏れそうになる。ウロの手を遠慮がちに振り解き、俺もシャワー借りる、とバスルームへ逃げ込んだ。
熱いシャワーを浴びて頭を冷やす。きちんと清掃されてはいるが、色褪せたタイルが湯気で曇る。烟った鏡には、日本を離れてから日には焼けたが容色は削げてしまった自分が映っている。まだ若干鼓動は速いまま、秋人はバスルームを出た。ウロはまだ起きていた。サイドのランプだけをつけ、薄暗い部屋でベッドに腰掛けて、音量を絞ったテレビを見ているのか、ただ流しているだけなのか、視線が浮遊している。秋人は一瞬その得体の知れないものが、檻にうずくまっている様子に身が竦んだが、そろりそろりと近付いた。
「……オレには、“ムーンリバー”の記憶が見えない」
秋人が隣りのベッドまでやってきて、ボトルから水を飲む音に、ウロがぼそりと呟いた。
「相性が悪い。インシャなら見えるだろう。オレが本来、手を出していいものじゃない。だけど、趙ファミリーに返してやりたい」
うん、と秋人はウロのどこを見ているのか分からない横顔に頷いた。ぶっきらぼうで優しい、このウロなら知っている。おそらく彼の一面でしかないのだろうけれど。
「……墓に入れたいんだと、妹が言っていた」
趙家の先代はオーストラリアで一家の基財を築いたが、晩年は会社の経営方針や技術導入について次世代との折り合いが上手くいかなくなった。権威的で利益優先だと批判もされたが、孫たちをかわいがり、“ムーンリバー”を愛しんだ。生涯多忙で、遂に戻れなかった故郷の地に、慎ましい墓所を構えた。だから、私たち家族が祖父を想っていた証に、オーストラリアの思い出と共に、“ムーンリバー”のかけらがあるならば、一緒に眠らせてあげたい。趙家の妹はそう言った。
「オレは家族がいないから、よく分かっていないのかもしれないけど」
あの重い牙を、ウロは自分の石だと言っていた。いつも身に付けているのなら、あれはウロの記憶なのだろうか。マリーのペリドットのように、精巧な画像としては見えなかった。むしろあれは、石自体の魔性だ。
「ウロの石、俺のこと食おうとしたぞ」
テレビを消し、まだ濡れているウロの頭髪を小突く。髪乾かして寝ろよ、おやすみ、と言うと、見た目の年齢に不相応な痩けて抉れた大きな眼孔がこちらをぱちくりと見上げた。
「やっぱり見えるんだな」
「ホラーなのは見たくないね」
「……この石は鎢だ。ウォルフラム」
貪るもの、重く硬く熱く変幻して人類を共食いさせるバケモノの石。『魅せられすぎないほうがいい』
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