視力 作:西山太一


 都市駅に通じている繁華街から見上げる、脳天を冷やすような真っ青な空。煙草を咥えて深呼吸をしたときに、脳が急速冷凍されたように感じるあの気色悪い心地を思い出す。

 季節は夏。

 しかし覚醒していない身体はまだ、汗を掻かず、サラサラと乾いたままだ。歩きながら、駅の方角から増員される人の波を眺めつつ、右手を開いたり、グッと握ったり、力を抜いてぷらぷらと振ったり、特に意味もなくそんなことをしてみる。

 開いて、閉じて、力を抜いてぷらぷらと振って……。

そんなことをしている内に、とある時点でグッ、と一段階強く握ってみれば、握力を決定する腕の筋肉が、血の流れと共に膨張するのを感じる。意識はいま完全に、この右手にある。

 そこでこんな想像をしてみる。

 俺はいま、この右手に、刃物を持っている。

 行き交う人々は手元に視線を落として、最新の小さな機械に心を奪われながら、この騒々しい繁華街を歩いている。淡色系の服を着た若いカップルは、不細工な女神のロゴが入ったカップの飲み物を片手に、この繁華街を満喫している。

 道は平坦、天気は快晴、反社分子が溝から現れることを許さないこの暗黙の秩序の中で、人知れず想像の刃物をいま右手に握り締めている自分の狂気、これにほくそ笑む俺。

 ああ、調子が出てきた。

 起床して数分、誰が決めたわけでもなく皆が共有しているこの世界の中に、俺は着々と自分だけの世界を作り上げていく。

 あらよっと。

 車など入ってこないため、あって無いような車道から歩道を隔てるための石造りの段差に乗り上げ、猫のようにスラスラとその上を歩いて行く。他の誰も使わない、ここは俺だけの特別な道だ。

 身体がバランスを見失いそうなときに、どうにかこうにか身体をねじって、落ちないように、落ちないようにと奮闘する若年期の青年を、行き交う人々はさして興味もなさそうに素通りする。誰にも気づかれないでのらりくらりとそんな遊びをしている俺は、一人ではしゃいでいる道化師、まあ、いまはそんな気分だ。

 ……まずい。

 重心が身体からはぐれてしまう。おっとっとっと、と段差の角に足裏を合わせ、どうにかこうにか落ちないように頑張ってみる。しかし、やがてやむを得ずぴと、と地に足を着く。

 ああゲームオーバー。

 だがもう一度ひょい、と段差に乗り上げて、何事もなかったようにやり直す。何食わぬ顔で。いまのは、そう、誰も見ていなかった。

 時間を忘れて段差の上を歩いていると、さて、いつの間にか視野は狭くなっているものだ。 

 いかんいかん、と俺はパッと顔を上げて、そしてきょろきょろと周囲を見渡してみる。相変わらず吐き気のするような真夏の太陽が、人の多いこの繁華街をジリジリと照り付けている。起床後のぼけた感覚から目覚め、やっとまともな活動を始めたらしい身体は、ようやく、外界の情報を正確にキャッチし始める。全身の毛穴は徐々に弛緩して、そこからじわじわと汗が滲み出てくる。代謝はいい方だ。段差の上を猫みたく綱渡りをするという全身運動で、体温は知らぬ間に、上昇している。

 さすがに帽子が必要な時期だな、と思いつつ段差を降り、立ち並ぶ店の近くを歩くことにする。廂のおかげで少しだけ日陰になっていたり、中に充満している冷気が近くに漏れているのを身に浴びたりすると、炎天下のこの季節、少しだけでも救われた気持ちになる。

何かを買ったり、ということはしない。そもそも金が無いのだから。立ち並ぶ店の商品のそれぞれが、眠りから覚めて何も入れていない空っぽの胃袋に、はいはい! と我先に手を挙げて飛び込もうとしてくるよう。特に味の濃いものが湯気を上げて醸しだすあの匂いには、まるで磁石に引き付けられるようにしてフラーっと近づいていってしまうものだ。

 ……⁉

 衝撃的に立ち止まる。まず俺の目に飛び込んできたのは、木製の船盛に盛られた、タコの切り身の山だった。それはまさに、山と表現するにふさわしい迫力を持っていた。

 なんだこれは!

 如何せん目が悪い性分のため、いつも歩いているはずの通りにこんなものがあったなどとは、これまで気づかなかった。

 あっけにとられていると、そのタコの切り身の山を、向こうから伸びてきた手がワシッ! と掴んだ。視野を広げて改めて全体を見てみると、ここではどうやら、店頭でたこ焼きを焼いているようだ。焼いている人間は、白地のタオルを頭に巻いた、丸い顔の中年の男。

 中年男の手元を、血眼にじーっと、真向かいから見つめる俺。別に買う気などないが、興味の赴くままに、ただじーっと。

 まずその中年の手さばきは見事としか言いようのないもので、これは何年も、いや、下手したら何十年 も極めてきた上に手に沁みついた技術なのだろうな、と思わせるものだった。鉄製の専用の串を両手に一本ずつ持ち、カッカッカッカクル、と、二本の串が鉄板に当たる音がリズミカルにしていると思えば、いつの間にか丸いたこ焼きの形が出来上がっている。いつの間にか、とそう思っている間にも、二個、三個、と次々にたこ焼きは出来ていく。まるでそれは一つの、スピードを生かしたマジックショーのように。

 俺はポケットの中にあるものを脳内に思い描く。ぼろぼろの財布にはせいぜい二百円しか入っていない。仕送りの月末まで、たったこれであと三日も過ごさなければならないと考えると、いま目の前で焼かれているそれがどんなに俺の目と鼻と口の先に媚を売って来たとしても、買う気にはならない。なれない。

 ああっ、でも、食べたい。

 と思いつつ、しかししょんぼりとした面持ちであえなくその場を去っていく。そうやって、手の届く距離にある、手の届かない美味に打ち負かされるこの本能的な心の挙動を、しかし、実は俺は愉しんでいるのかもしれない。

 次だ次。

 と歩き始めようとして進行方向を向くと、今度はショーケースに山盛りになった唐揚げが目に映る。無駄に電気を食いそうな照明で、それは暖色に照らされている。

 ああ、一個だけでも貰えねえかな。

 傍を通り過ぎる際にその山盛りの唐揚げを見つめ、「一個くれ」というテレパシーを中にいる店員に送ってみたが、もちろん、気づかれることなどなかった。

 ケチだな。

 割と真面目にそんな馬鹿を思って不貞腐れながら、特に当てもなく歩いて行く。

 ウィーン——いらっしゃいませー。

 これから何かを買う顔、をしてコンビニの自動ドアをくぐる。添加物がたっぷりと使われている商品のパッケージを、どれにしようかな、などと見つめて、時にはそれを手に取って成分表示なんかを顔を近づけて見て、悩んでいる風なこの俺はただ、ここに涼みに来ているだけなのだが。

なんとなくぐるっと店内を一周してみて、そしてレジの前を通り過ぎて、またウィーン、と自動ドアから出て行く。レジの前を通るときは、ポケットに手を突っ込んで、ああ、今日はいいものが無かったんだよすまないね、などと思っていそうな顔をする。

 自動ドアを抜けるときに、ありがとうございまし——という声を耳の裏に聞きながら、さっき感じていたよりもなお激しい暑さが、前半身からやがて全身を包んでくるように思えた。涼しい空気に慣れていた肌が、表面だけ急速に熱くなっていく。既に身体は覚醒し、感覚は鋭くなっているようだ。

 もう帰るか。

 現れた太陽の光と熱が、額にピシャ、と照り付ける。金に余裕のある日は、コンビニや自販機なんかで冷えた飲み物を買って、それを飲みながらのんびり帰るのだが。せいぜい二百円しか持っていないのだから、いまはもちろん、そんなことはできない。

 ポケットに手を突っ込んだそのまま、家路に乗る。いつものように、車道と歩道を隔てる段差に乗らなかったのは、今回は、ポケットに突っ込んだ手に、拳銃を握らせてみたからだ。もちろん、想像のものを。正確には、親指と人差し指で拳銃の形を簡易に作っているだけで、握っている、というわけではないのだが。

 スッスッス。

 まるで殺し屋。闇に紛れる殺し屋のように、俺は繁華街の隅をこっそり歩いて行く。段差の上を遊ぶように歩いて行くようでは、目立ちすぎる。殺し屋失格だ。

 顎を引いて、目は睨みつけるように、真っ直ぐと。視界の端にこれまた旨そうな何かが焼かれていたり、山盛りになっていたりするのは気にしない、気にしない。

 さて、一通りその妄想を味わい尽くすと、数秒前まで自分が殺し屋であったことなど忘れ去って、あとは空いたお腹をこれからどう満たそうかという思考にほとんどのエネルギーを使い始める。起床しておよそ三十分、本能として、胃袋が「何かくれ!」と脳に主張し始める頃だ。

 何があるだろうか。ボロいアパートに帰っても、あるのはパスタといくつかの調味料くらい。今日も、何度目になるのか分からない不味いペペロンチーノでも作るか。茹でたパスタに塩と胡椒を振っただけの。

 チラ、と斜め前を見てみると、そこは精肉店。店頭では手作りのコロッケが売ってあり、買い物中の幸せそうな親子が、割と多くを購入しているよう。一つ百円。この前食べて、美味しかったやつだ。今日のあの幸せそうな親子の食卓には、あのコロッケがずらりと並ぶのだろうか。

 ……。

 思考が一瞬だけそのコロッケにまとわりつくが、いかんいかん、とそこから引き剥がす。無意識に空いてしまっていた口をパク、と閉じる。溜まっていたよだれをゴク、と飲み込む。ポケットの中にある二百円と「あと三日生き延びる」という命題をかけ合わせて、コロッケへの執着心を弱める。

 ——そのまま惰性として 横を向いて歩いて行き、後ろにスクロールしていく視界にやがて映りこんだ小道に、俺は妙に惹かれた。

 おっと?

 急なことだった。

 精肉店とインドカレー屋の間にある小道。冷房の室外機や、くたびれた花壇、動くかどうか分からない原付バイクなど、そこだけは、この賑やかな繁華街からは世界を隔てているように感じる。窓には銀色の鉄格子、その横には汚い空気を吐き出すダクト、その下には……乾いた何かの死骸。ぼやけてよく見えないが。

ここが動なら、そこは静。ここが生なら、そこは死。建物と建物の間に挟まれて、昼間であるというのに夜のように真っ暗で、そして、向こう側の明るい通りに繋がっている。光と光の間にある闇。現実と現実の間にある虚構。

 きょろ、きょろ、と左右を見る。

 表の繁華街とは全く異なる、くたびれた裏の狭い小道。誰もそこに入って行く人間はいない、秘密の道。


 誰かいるな、とは思っていた。小道を突き進むにつれ、その予想がついに真実であると認めざるを得なくなったとき、俺はそこにアクションをかけることに決めた。誰もが見て見ぬふりをするであろう対象に対して、あえてじっと観察するというアクションを。そうしている酔狂な自分の姿を俯瞰してみて、心の中の俺はまたほくそ笑んでいるのだが。

 ……。

 黒装束のその何者かは、一見して占い師のようだった。椅子に座り、前には机と椅子が置かれている。被りは鼻の下にまで垂れていて、見えるのはうっすらとした口元だけ。その、僅かに見える口元の肌の部分は、血が通っているのか、どうか。唇と肌の赤と白には、絵の具で色を塗り分けたかのような不自然さがある。

 一見して占い師、だが占い師のアイコンとして典型的な水晶などはどこにも見当たらないし、そういう看板もない。というかそもそも、この黒装束が「そういうこと」をやっている者かどうかさえ、いまのところ分からない。見た目だけの判断だ。いまのところ。ただ、目の前に空けてあるその椅子は、どう見ても、誰か客みたいな人がそこに座ることを意図して置かれているものとしか考えられない。

 誰も通らない、繁華街から離れた世界にあるこの暗い小道で黒装束に身を包んだ人、を眺めている自分、をほくそ笑む俺。

「座りなさい」

 おそらく寝ているのだろうな、と思い始めた矢先に黒装束の口元が動き、そう言ったものだから、俺は驚いた。死んでいたものが動いた、みたいなことだった。

「何やってるんですかこんなとこで」

 なに平然と喋りかけているのだろう、と思った。自分に対して。不審者がいると言って警察に通報してもよいレベルの人間に、いま自分は、平然と喋りかけている。生態学的には「青年期における若気の至り」だ。たぶん。

「何をやっているのか。何でしょう。やっている、と問われれば、現状わたしは何もやっていないことになります。ただ、あなたがそこに座ることによって、きっとわたしは、何かをすることになるとは思いますがね。そういう商売ですから」

 黒装束は、袖から出てきた右手の人差し指で、突くように、前にある空の椅子を示した。その肌の白さ、動きが、なんとも不気味な匂いのするもので、血の通っていない、操り人形のような雰囲気がしていた。

「そこに座ればいいんですか?」

 傍からすればいま自分はとんでもない種類の人間とまともに対峙していると思われるのだろうが、俺の嗅覚はビンビンに、この危ない香りを愉しんでいた。商売、と聞いて財布の二百円を思い出すが、払えないのなら断ればいいだけではないか。簡単な話だ。

 黒装束は何も答えない。たった一つ見える口元は、まるで真横に描いた直線のように、笑っているのか、怒っているのか、泣いているのか、読めない。


「商売と言いましたが、何も、多くを支払ってもらう必要はありません。わたしの施術の価値に見合ったものを、お金という形でなくとも、支払ってもらえればそれでよいのです。そうですね、初めにこう注意しているというのに、この前は一千万という大金を支払おうとする方もいらっしゃいましたね。ええ、反対に、ポケットに入っていた煙草一本を支払ったという方もいらっしゃいます。それに対してわたしは優劣をつけたりすることはありませんから、たとえ煙草一本でも、わたしはありがたくそれを頂戴するだけです。どうぞご自由にお支払いください」

 俺が椅子に座ると、途端にスラスラと喋り始めた黒装束。コインを入れて動き出す路上パフォーマーのように、それで命が吹き込まれた気がした。

「……施術」

 目の前に居る黒装束の、その中にいる人が、割とまともそうな人であるということに、なんだか俺はがっかりしてしまったみたいだ。もっとこう、教祖様みたいな人かと思えば、普通の日本語をペラペラと喋る人だ。相変わらず、口元しか見えないのは不気味だが。

「施術の内容は各個人によって異なります。何十年も悩まされる腰痛を治したり、コカイン中毒を直したり。医者に行っても分からないと言われた原因不明の痛みを取り去ったり。先天的な病でなければ、基本的に出来ない治療はないものと思ってください。わたしもそれなりに修行してきた身ですから。但し、無くなった腕を再生させたり、第三の目を額に開眼させたりするような、もともとないもの、明らかに再生不可能なものを治療するのは、察しも付くかと思いますが、出来ません。わたしの持っている力というのは、ただ、あなたの持っていた元々のモノを引き出す、ということだと認識してくだされば、多くは違わないと思います」

 これを闇医者、と言うのだろうか。言っていることの筋は通っているように感じるが、それが現実にあり得る話なのかどうか。腰痛を治した、コカイン中毒を治した……それらは確かに凄いことなのかもしれないが、あまりに淡々と説明されるものだから、どこか嘘くさく聞こえてきてしまう。

「では少し……失礼」

 そう言うと、黒装束はあっけなく被りをめくり、そして、顔の全体を露わにした。

「何も遮るものがないと、普段は見え過ぎてしまうのでね。それじゃあこの世の中を生きていくには不自由なものです」

 少々驚く。これを年齢不詳というのだな、と思った。男は十代、つまり自分と同じくらいの歳にも見えるし、自分の父親世代の、五十代、六十代にも、なぜか見える。年齢不詳、その要因は、男のその瞳にあると思った。特に輝いているわけでもなく、かと言ってくすんでいるわけでもなく。大きくもなく、どちらかというと小さい方。髪の毛は生えておらず、眉毛もない。何となく、中国の修行僧を感じさせる。

 男は、椅子に座った俺の全身を精査するように視線を動かし、そして最後に、俺とはっきり目を合わせて言った。

「見ればわかることは多々あるものです。予測の範囲でしかありませんが。きっとあなたはいま、生活習慣が乱れ、朝起きるのが辛くなっていることでしょう。目の下の微妙な隈を見ればわかることです。食事は一日に一回か二回、食べない日もある。体重は落ちかけている。昔、何か運動をしていたのでしょう。筋肉は割とついている方ですが、しかし、それも最近は落ちる一方。きっと大学生となって、運動することも減ったからでしょう。ええ、予測に過ぎませんがね。一人暮らしのアパートには、椅子やソファもない。久しぶりに椅子に座っている感覚でしょう、いま、きっと」

 男はそれまで言うと、黒い被りをまた深く被って、うっすらとした口元だけを俺の視界に残す。

 まあ、その通りではあるが。

 口元だけをうっすらと見せて、さあどうでしょう、とでも言いたげな黒装束。

「……ああ、はい」

 とりあえずうやむやに返す。凄いです! そうですそうです! とも言えまい、この状況で。いや、俺の感性が驚きに欠けているだけか。

「それと、目が悪い」

「ああ、そうです。はい」

 目が悪いのは事実。中学生辺りからもう長い間、視力は低下するばかり。

「目の動きや視線の合わせ方を見ればわかることです。目が悪い、かと言って眼鏡もコンタクトもしていないのは、あなたにはきっと、何かこだわりがあるのでしょう」

 こだわり、などは特にないが、ただ単に、何かを耳にかけたり装着したりしてまで視力を良くしようなどとは、まだ考え至っていないだけだ。まあそれをこだわりと言うのかもしれないが。

「ああ、まあ、そう、ですね」

 相変わらず口元だけ見えている黒装束。ちら、と左右の景色を見てみると、縦に見える明るい世界の隙間には、こちらの世界にこの二人がいるなんてことは気づきもしないで、次々に人が通っていく。

「そうですね。とくれば施術のオーダーは、快眠できるようになる、食欲を上げる、視力を上げる、といった ところとなりますがいかがでしょう」

 提案された三つの中で、「視力を上げる」だけしれっと異彩を放っているな、と思った。それを、さも当然かのように黒装束はいま言ったが、そんなことは、果たして現実としてできるものなのだろうか。視力というのは、一度悪くすればもう元には戻らない、と子供のころから呪文のように再三言われてきたことだと思うのだが。

「じゃあ、視力を上げる、で」

「かしこまりました。厳密に言えば、あなたのもともと持っていた視力を取り戻す、ということになりますがね。ただ、特に視力に関する病もなく生まれてきた人間の目はもとから良いものですから、施術のあとは単純に視力が向上し、おそらくこれまでより世界は明るく、鮮明に、色彩を放って見えることになるでしょう」

 本当に視力が上がるかどうかよりも、未だにこの黒装束に興味が魅かれている。そしてこの黒装束に興味が魅かれている自分を俯瞰して、俺はやっぱりちょっと、それを愉しんでいる。

「最後に、施術をかける前に注意をしておきます。もちろん身体の不調や、思ったような施術結果が得られなかった場合にはクレームの対応をさせてもらいますが、それ以外の問い合わせには、一切の責任を負いませんので、よく確認しておいてください。まあ、施術の失敗をしたことはこれまで一度もありませんので、そこは心配なさることなく。それともう一つ、わたしの施術はそれぞれの方にとって、人生で一回きりしか効果を得ません。つまり、一度、あなたがわたしの施術によって視力を上げてしまえば、他に、快眠できるようになる、といった施術はもうできなくなるというわけです。視力が良くなった後でまた目を悪くしてしまったとしたら、もう私の力ではどうにも、それを回復させていただくことはできません。簡単な話ですよ。欲を掻いた人間は、いずれ業火の炎に身を焼くものです。たとえ話ではありますが、いま言った意味も、後で説明しましょう。それと、わたしはいつでもここに居ますので、何かあればいつでもいらっしゃって下さい」

「はい」

 いま自分は、淡々と返事をしたな、と思った。施術うんぬんに、その時点でさえさほど興味が無かったからなのだろう。今回でなくとも自分がそういう、他への興味に欠落した人間であるということは、重々承知していることなのだが。

「では、失礼——」

 男はまた、被りをめくる。


 手を何かで濡らしてそこに青い火を点けた黒装束は、その炎をお手玉のようにして自由自在に操り始めた。炎が命を持って、生きているかのようだった。

 ボボボボ、と炎の躍動する音を上げながら何かの儀式みたいなことを黙ってしているかと思うと、黒装束は、青い炎が上がる両手をゆっくりとその口元に持って来て、そして急に勢いよく「フッ」と息をかけた。

 俺が見ていたのはそれが最後で、その瞬間、俺は反射的に目を閉じなければならなかった。黒装束がフッと息を吹きかけた青い炎が、俺の目に飛び込んできたからだ。それは目の奥にまで浸透してきて、決して熱くない温度で広がり、そこで何か、長いあいだ凝り固まっていたものが、明らかに解かれていくという、不思議な感覚がしていた。

「目を開けてください。終わりです。さっきわたしが言った意味が分かったでしょう。わたしが吹きかけた炎は、いま、あなたの目に入って、あなたの目を治療した。実は今もずっと、あなたの目の中では、さっきの炎が煌々と燃え続けているのです。ええ、それは有機物が燃焼反応する、というような化学的な意味ではありませんがね。もうお判りでしょう。二度も炎を吹きかけられれば、あなたの目の中にある炎は温度を上げて、やがて内側から目を焼き尽くす結果になると。簡単な話です。欲を掻けば身を焼き尽くす。いつの時代もそういうものです。さて、支払いは一週間以内、形はなんでも結構です。これは商売ですので、必ず守るようにお願いします」

「は……はあ」

何が起こったのか分からぬまま施術は終わり、果たしてこれで自分は目がよく見えるようになったのか、どうか。いやそれよりも、この黒装束について消化しきれないものが残る。不完全燃焼を後ろに残したまま暗闇の世界から繁華街へ出ると、

 ——そこには全く自分の知っていない、自分が生きている場所とは思えない、煌びやかな世界があった。


 ……⁉


 きょろ、きょろ、と辺りを見回す。看板の色、文字、お店の奥行き、そして中の様子。

 俺は後ろを振り返り、黒装束を見る。闇に紛れて普通なら気づかないが、ここからでも十分、その姿、輪郭は確認できる。黒装束は「どうぞ」とでも言うように、手で促す。

左右を見てみる。さっきの精肉店は「木下精肉店」、インドカレー屋は「ガネーシャ」という屋号だった。さっきは見えていないことだった。

 見えていなかったものが見えている。目に映るものすべてを夢中で追いかけていく。

 電柱に貼られている緑色の「M二丁目」という札。道路のあちこちに落ちている黒いガム汚れ、白い鳥の糞、カビみたいな黒い汚れ。洋菓子屋「Déesse」の、二階の薄汚れた賃貸アパートの暗いベランダに干してある干乾びた洗濯物。

 全てが確かな輪郭を持っている。全ての光を正常にこの目が写し取って、俺はそれを見ている。

 ふいに、あの黒装束に一千万円を支払おうとした人がいたことを思い出す。その気持ちは、確かに、分からないでもないことだな、と思った。

 凄い、凄い。

 ただ、視界に映るものが全てくっきり見えているというただそれだけのことが、凄い。目を向けた先にある何かを、はっきりと見ることが出来るという、ただそれだけのことが。

 目に映るものを夢中で追いかけていると、さっきのたこ焼きを焼いているところへ来た。屋号は「たこ焼きまるちゃん」とある。これも初めて知ることだ。見て知るということはこんなにも面白いことなのだな、と思った。

 カッカッカッカクル。中年男の熟練の手さばきを、さっきみたいに目の前でまたじーっと眺める。よく見えるようになった世界の中でも、相変わらず、凄い技術だな、と思う。さっきよりも、鮮やかな色彩を持って見えている。

 ……。

 視線がちらつくな、と思った。でも実はさっきこの繁華街にまた出てきたときにも、それは思ったことだった。如何せん、ここは人の多い繁華街。十秒に十人とすれ違うほどの、賑やかな通りである。もちろん、人の多さは最初にここに来た時から承知していたことなのだが、目がよく見えるようになったことで、それをより印象深く感じてしまう。特に、人の視線というものを。

 いま一番ちらついている視線は、この、目の前でたこ焼きをひっくり返している中年男が、俺を見る視線だ。中年はもちろん手元の作業に集中しているのだが、目の前でそれをじーっと見ている十九の青年、つまり俺に対して、「なんだコイツ」みたいな注意を払った視線を、俺にチラチラと向けている。

 ……。

 なんだかいたたまれなくなって、俺はその場を離れる。

 ……なんだろう。この居心地の悪さは。

 目がよく見えるようになって数分、俺は俺の中にある狂気的だと自負している自分が、まるで呪文をかけられて封印させられているかのように感じた。いつもならば歩道と車道とを隔てる段差に乗り上げてそこを歩こうとほとんど無意識的にやっている行動が、いまはなんだか、とても場違いなことのように思える。

 違和感。

 誰が決めたわけでもなく皆が共有しているこの世界を、目がよく見えるようになったことで、無理やり認識させられている気分。嫌でも、皆と同じ世界を認識して、共有しなければならないなんて。

 ああ、気持ち悪い。

 目が悪くなりたい。

 思いつつ、黒装束に「目を悪くしてほしい」と頼みたいと思った。

 ああ、でも二度目はダメだったんだよな。もう、どうにかして自分で目を悪くしていくしかないわけだ。

 一体あの黒装束に何を支払おうか。

 俺はそれを考えながら、出来るだけ人々の視線を感じないよう下を向いて、帰路に就いた 。

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