そして、天才少女は大統領の娘になる

あかいかわ

1 NSC



 照明を落としたほの暗い部屋、火のついた11本のロウソクを見つめながらスミレは秘密をささやくように言う。〈素数〉ですね。

 ああ、そうだね。そんなことを言い出すスミレの意図をうまく解せないままあいまいに答え、素数の意味を思い起こしながら僕は言葉を足す。次の素数は、ええと、17?

 13がありますよ。無表情のままスミレは言う。13も素数です。再来年ですね。

 そうだったね。お粗末な間違いにきっとまた父の威厳のパラメータをいくぶん落としたことだろうと悔やみつつ、気を取り直して僕はお祝いの言葉を伝える。11歳の誕生日、おめでとう。さあ、火を消して。

 ありがとうございます。簡潔にお礼を述べたあとで息を吸い込み、スミレは頬を膨らませながら順番にろうそくに吹きかけていく。生み出された気流に身をくねらせた火影がひとつ、またひとつと消えていき、鎮火された灯芯からは灰色の煙が音もなく迅速に立ちのぼる。部屋は一段回ずつそのささやかな光源を失っていく。ひと息で全部消しきれるかな、というような、とりとめのないことをぼんやり思った、その瞬間、けたたましいブザー音が我々のささやかな静謐を破滅的にくつがえす。オフにしていた照明が強制的に点灯され、まばゆい人工的な光が圧倒的な激しさで仮借なく部屋の隅々までを満たす。


〈《国家安全保障に関する重大危機警報レベル3》が発令されました。《国家安全保障に関する重大危機警報レベル3》が発令されました。NSCが開催されます。関係職員はただちにお集まりください。繰り返します。《国家安全保障に関する重大危機警報レベル3》が〉


 消え残ったふたつのろうそくの火を、スミレは無感覚的にしばらく眺めていた。そのあとで、ふっと短く吹き消した。

 火明かりはすべて消されたが、部屋は漆黒とはほど遠かった。

 時計を見る。20:38。きっと2分もしないうちに〈主席補佐官〉がやってくるだろう。〈レベル3〉ということは、場合によっては日付が変わるまで会合は終わらないかもしれない。僕はちいさく首を振り、ケーキは明日の朝に食べようかと伝える。冷蔵庫にしまっておこう。

 そうですね。スミレは火の消えたろうそくをぼんやりと見つめながら、感情のない声でちいさくそうつぶやいた。

 ドアベルが鳴り、果たして若い〈首席補佐官〉が部屋にやってきた。時計を見ると、20:39。テーブルの上のケーキには目もくれず、電子音声アナウンスにも負けず劣らずの峻厳たる声で手短かに指示を下す。お休みのところ失礼いたします。ご承知の通りこのあとNSCが開催されますので、臨席を賜ります。わたくしがご案内いたします、どうかそのままのご格好で、すみやかにおいでください。

 あの、すみません。僕はおそるおそる尋ねてみる。今回の会合は、どれくらいかかりそうなんですか?

 彼女は僕を一瞥し、冷たい表情のまま、できの悪い年上の部下に教え諭すような口調で告げる。それは、わかりません。優先されるのは国家安全保障であって、タイムスケジュールではありませんから。

 スミレは席を立ち、取り次ぐようにちいさくうなずく。そして僕のほうを向き、すみませんと小声で言う。

 スミレのせいじゃないさ、と僕は答える。精一杯に父親らしい言葉を探して、声をかける。頑張って、でも、無理しすぎないようにね。

 はい、ありがとうございます。スミレは一礼して〈首席補佐官〉のもとへ行く。でも、途中で振り返ると僕のもとまで駆け寄って、無表情のままそっと尋ねる。お父さん、わたし頑張ってきますので、頑張ってこいよって、ハグをしてもらえるとうれしいのですが。

 ああ、いいよ、もちろん。慌ててそう答えて、言われるがままに娘のからだを抱きしめる。スミレも僕のからだを適度な強度で抱きしめ返す、律儀に、お義理のように。変なことを思う。まるで僕はスミレの手でのではないか、〈父親ごっこ〉をさせてもらっているのではないか、というような、そんなことを。


 たぶんそれほど間違ってはいない。


 きっちり〈5秒〉たったあと、スミレは僕のからだを離れ、いってきますとささやくように言う。いってらっしゃいと僕は返す。そして首席補佐官と連れ立って、スミレは部屋を出ていく。警報ブザーの音は鳴り止み、部屋はまた、先程の静謐に引き戻される。

 しかしいま、それを共有する相手は誰もいない。

 たったひとりの家族である娘はいま、政府機関に呼ばれて出かけてしまった。混乱を含むこの国は、まだ幼いからという理由で彼女を放っておいたりはしない。

 彼女は〈天才少女〉なのだ。


 *   *   *


 早くに母親を亡くし、僕らはいわゆる父子家庭だった。


 地方の下級公務員としての仕事はそれなりに忙しかったものの激務と言うほどではなかったし、ありがたいことに周囲も僕たちふたりを親身にサポートしてくれたため、生活が苦しくなるということはなかった。何かしらの不安は常につきまとっていたものの、けっきょくは大抵のことに対処できた。スミレは順調に育っていった。

 ただしひとつだけ、拭いきれない気がかりがあった。


 スミレはなかなか言葉を発さなかったのだ。


 もうじき2歳になろうという頃になっても、スミレはいまだに意味のある単語のひとつも口にしなかった。人懐っこく、笑ったり泣いたりの感情表現は十分にできたし、身体的な成長もおおよそ平均的だったものの、言葉だけがなかなか出てこなかったのだ。自分の育て方、接し方に何か致命的な問題があるのではと不安にかられ、診察を受けてみたこともあった。でも特に、何か問題が見つかるということはなかった。大丈夫、確かに多少平均よりは遅いかもしれませんが、そんなこともあります。そのうちにきっとしゃべるようになりますよ、というのが受診した医師の答えだった。それを聞き、ほっと胸をなでおろすというわけではなかったけれど。


 ある日事件が起こる。


 普段あまり大泣きをしないスミレがいつになく激しい癇癪かんしゃくを起こし、一向に泣き止む気配を見せなかった。仕事終わりでくたくたに疲れていたからだに鞭打って、辛抱強くあやし続けてみたけれど、スミレはいつまでも泣き続けた。その泣き方はあまりに激しかった、まるでこの世の終わりのようにスミレは泣いた。僕はだんだん怖くなった。スミレは僕のことを完全に否定しようとしているのではないか。僕を責めているのではないか。僕の子育てに何か致命的な問題があって、スミレはついにそれに耐えきれなくなったのではないか。そんなことが、頭をよぎった。


 意図したわけではないと思う。

 あるいはそう、信じたい。

 スミレを抱きかかえ、リズムを付けてあやしていた、その手を僕はすべらせてしまった。


 テーブルの角に、娘はごんと頭を打ち付けてしまった。

 慌てふためきながらスミレのからだを抱き起こし、大きな怪我になっていないかをすぐに確認した。ひとまず出血はしていないようだった。僕はスミレの顔を覗き込む。突然の痛みにさぞや大泣きの度合いを強めていると思っていたスミレの表情は、アーモンド形に大きく目を見開いてじっと天井を見つめ、静かな無表情へと変わっていた。目の端に残る涙の粒だけが、その表情に場違いな印象を添えていた。

 急いで病院へ行き、検査を受けさせた。

 丁寧に精密検査をしてもらったが、脳へのダメージは見受けられないとのことだった。

 大丈夫、心配しなくてもこれくらいよくあることですよと医師は言った。子供は案外頑丈なものです。

 でも、全然泣かないんですよ? 不安は収まらず僕は尋ねる。全然泣かないんです、もっと痛がっていいはずなのに。

 びっくりしちゃったんですよ、初めてのことだから。医師はどこかおどけたように、それでいてやさしく諭すように言う。そしてお父さんも、初めてのことなのでびっくりしすぎているんです。大丈夫、これくらいのことはよくあることですから。

 納得行かない気分のまま、僕は診察台に寝かされたスミレの様子を見る。いつの間にかスミレは、僕のほうをじっと見ていた。頭を打ち付けたあとじっと天井を見つめていたときと同じ視線を、今度は僕に向けている。無表情のまま、感情もなく。僕は困ったように笑みを作り、そんなスミレに尋ねてみる。大丈夫、痛くない?

 スミレは二度まばたきをして、無表情のまま、感情も込めず、ゆっくりと機械的に口を開いた。そして〈おとうさん〉と、スミレははっきり発音したのだ。


 その日以来堰を切ったように、スミレは言葉を喋り始めた。


 スミレの天才少女ぶりは、まもなく明らかになっていく。

 最初に言葉を発してからわずか数ヶ月のうちに素朴な会話がこなせるようになり、2歳半を迎える頃には独りでに読み書きを始めていた。3歳になると活字の本を読み通すようになっていたし、どうやら一般的な関数の概念まで理解し始めているようだった。図書館を好むようになり、借りられるだけの本を借りては一週間もしないうちに読み終えて、次の訪問を心待ちにするようになった。4歳のとき、その神童ぶりに興味を持ったまわりの大人から学力検査を受けてみることを勧められ、その結果スミレはすでに高校進学に十分な学力に達していると報告された。地元の新聞社が取材に来て、すぐに全国紙にも取り上げられた。

 素晴らしい父親だと評価された。子供の隠された潜在能力を引き出して、伸ばすことを実現した、見習うべき理想の父親だと絶賛された。

 でも僕は、ずっと不安と戦っていた。

 スミレの成長は喜ばしいものだったけれど、それを手放しでは喜べなかった。


 あの日以来、スミレが〈感情〉を表に出す機会がなくなったのだ。


 スミレは泣かないし、怒らないし、笑わない。興奮もなければ絶望もなく、切り裂くような切望もなければ耐え難い嫌悪もない。少なくとも、それらの感情が目に見える形で表現されることがスミレにはなくなった。もちろん食欲はあるし、睡眠欲もある。所有欲もあれば、承認欲求だってあるのだろう。でも、それらの欲が子供らしく無遠慮に外部へ向けられることはなかった。表現されるとしても、それはごく控えめに、ごく穏当な範囲内で表明された。

 あの日頭を打ち付けて、激しい癇癪がぴたりと止まって以来、スミレはまるで感情を失ってしまったように見えた。

 そしてスミレはいつも〈丁寧語〉で話をした。誰に対しても、父親に対してさえも。

 やめさせようとしたが無駄だった。丁寧語を使わないことがむしろひどく窮屈なように感じられた。たぶんスミレのなかに、僕が十分理解できないたぐいのある種のルールが厳然として存在するのだろう、丁寧語の他にもそれを感じさせる状況はいくつもあった。だから僕は、けっきょくは無理強いをしなかった。スミレは丁寧語で僕に話しかける、そしてその表情はいつも変化しない。僕はそれを受け入れることにした。

 でもそれで、不安にならないで済むというわけではないのだ。


 *   *   *


 日付をまたいでも、スミレは帰ってこなかった。


 1時、2時を回っても、何の音沙汰もない。

 窓を開けてベランダに出る。生ぬるい風、実質的な灯火管制である〈節電要請〉に従う暗い首都の眺望が遠方まで単調に広がっている。国家安全保障的な危機が迫っているそうだが、少なくともこの夜は、市井的には弾道ミサイルの飛来もなければ防空サイレンの響きもない。銃声ひとつ聞こえない。他の大多数の一般国民と同様、この国にいま具体的に何が迫ってるのかを僕は知らない。おそらくそれは〈国家機密〉に属する物事なのだろう。

 そして、スミレはそれにアクセスする立場にある。


 スミレが8歳の頃開発したとある化学素材が軍事的な転用において多大な効果を発揮することが判明し、最初に彼女に興味を示してアプローチをかけたのは国防省のテクノクラートたちだった。だから当初、スミレは軍需産業研究員としての特別な地位を割り当てられた形にすぎなかった。けれども彼女の発表するさまざまな分野の論文や、各種官僚および政策担当者とのブリーフィングで見せる鋭い知性は広く政界にも知られるようになり、いつしかさまざまな省庁から多岐にわたる要件でスミレの意見が求められるまでになった。いま現在、スミレの正確な行政府内での肩書を知るものはおそらくいない。臨時で与えられた役職名は無数にあってとてもひとつに並びきれないし、日を追うごとにそれも増える。行政府内で彼女を呼称するときは、単純に〈スミレ〉とか、〈天才少女〉などと呼ぶそうだ。ある種の陰口として、四半世紀も前の流行り言葉である〈ディープ・ステート〉などという呼び名が使われることさえあると聞いたことがあるが、真偽の程は、わからない。


 はっきり言って、そのすべてに僕はよく実感がわいていない。


 もちろんいま、こうして政府内の官舎に暮らしているわけなのだが、僕自身が政権内で働いているわけではない、あくまで僕はいまもいち下級公務員の立場にすぎない。形だけ与えられる公文書管理の仕事は些末なものにすぎず、言ってしまえば僕はここで幼いスミレのスタビライザーとして扱われているだけなのだ。スミレが実際にどんな仕事をしているのか、それは国家機密に多分に関わる事項だから、それを知ることは僕にはできない。

 スミレの仕事に僕が関わることはない。

 権限がないのだ。

 この数年の出来事は、そのすべてがあまりに浮世離れをしすぎていて、僕の理解を超えている。

 始まりはいつだろう、スミレが頭を打ち付けたあのときから? あるいは彼女の母親が、僕らを残して不慮の死を遂げたときから?

 あるいは彼女の母親と僕が、出会ったあのときから?


 リビングに戻り、ソファに腰を下ろしてウトウトしかけていると、そのうちにカチャリとちいさな音が聞こえた。

 そっと足音を忍ばせて、スミレが部屋に帰ってきた。時刻は、02:42。

 おかえり。僕は目をこすりながら声をかける。お疲れさま、大変だったね。

 ただいま帰りました。無表情のまま、でもさすがにその声音にはいくぶんかの疲労感をにじませてスミレは答えた。はい、とても疲れてしまいました。ものすごく眠いです。きょうはもう、お風呂に入らなくてもいいですか?

 いいよ、歯磨きだけしておこうか。そう答えて、連れ立って洗面室に向かう。口をゆすぎ、パジャマに着替え、おやすみと言おうとしかけたところでスミレが尋ねた。お父さん、きょうはいっしょの布団で寝てはダメですか?

 いいよ、じゃあいっしょに寝ようか。内心驚きつつも、そう答える。

 はい、そうします。ちいさくうなずいたあと、無表情のままで僕を見上げ、スミレは言う。あの、わたしきょうはお風呂に入っていないので、臭くないですか?

 臭くないよ、大丈夫。笑いながら僕は答える。

 それほど広いベッドではないものの、小柄なスミレがひとり加わったところで狭いと言うほどではない。一緒の布団で眠るのはいつ以来だろう。はっきりとは思い出せない、ずいぶん久しぶりであることは間違いない。お父さん、昨日はすみませんでしたと布団のなかでスミレはちいさくつぶやく。せっかく用意してもらったケーキを、誕生日のうちに、食べられなくて。

 そんなこと、気にすることじゃないよ。そう言って、僕はスミレの頭をなでる。そういえば、娘の頭をなでるというのもいつ以来のことなのだろう? 相変わらず無表情のままのスミレに、冗談めかして僕は言う。それにスミレの誕生日は、実はきょうかもしれないよ。スミレの誕生日については、諸説あるんだ。

 なんですかそれは。無表情のままでスミレは言う。苦笑なのか、抗議なのか、疑問なのか、呆れなのか、あるいはそのいずれでもなくただただ〈無感情〉なのか、はっきり見定めることは僕にはできない。

 きょうもきっといい誕生日になるってことだよ、と僕は言う。きょうは仕事はないんだろう?

 その予定ですとスミレは答える。

 じゃあ、目が覚めたあとに備えてもう寝よう。スミレの肩に布団をかけ直し、ささやくように僕は言う。おやすみ。

 おやすみなさい、とスミレも言う。そして静かに目を閉じると、すぐに寝息を立て始める。本当に疲れきっていたんだな、と僕は思う。それも当然だ。いくら〈天才〉と崇められようと、少なくとも肉体的にはスミレは、ただの少女なのだから。

 間近で眠るスミレの姿は確かに、得体のしれない〈天才少女〉などではなく、やっと11歳を迎えたばかりの、ただの小柄な少女に見えた。



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