これまでについて

 最初の異変はバイト先で起こった。素肌も凍る真冬に事は起き始めた。

 今日は何故か赤木の顔色が悪かった。最初はは彼氏に振られたとか体調が悪いとかそんなもんだと思っていた。

 しかしバックヤードで話す赤木の声が薄らと聞こえた今その説は簡単に打ち砕かれた。

 どうやらここ数日何件も殺害予告を受けているらしい。

 こいつは俺以外にも恨みを買っているのだと変に安心した。


 特に気にすることなく業務を続けているとこんな日でさえ俺への虐めは行われた。

 仕事の押し付け、陰気な嫌味、ヘルプの無視。

 そのどれもにいつもの覇気は感じずこちらが笑いものにするレベルだった。

 俺はその殺害予告を送った英雄を『盟友X』と勝手に呼ぶことにした。


 俺はいつも通りの異常な仕事量に疲れ帰り道こみ上げる涙を抑えながら母親の待つ家に帰宅した。

「ただいま」

 おかえりと返事をする母親に違和感を感じた。そこにはいつもの陽気さはなくどこか怯えている様に感じた。その違和感は食事の時にも訪れた。


「私になんか不満ある?何でも言うて。何言うても晴希のこと嫌いにならんから」

「急に何?特にない」

「そう。それならええんやけど」


 どこかぎこちない母親の言葉は彼女のヒステリックな部分だと感じた。

 これまでにもそんな母親を何度も見てきた。これもきっとその一つなのだろう。


 特にそれ以上詮索することもなく食事を済ませた。

 洗面所へ向かい制服を洗濯機へ放り投げ着ていた衣服を脱ぎそれも放り投げた。

 浴室の電気をつけて中へ入った。人一人分のスペースと隣に浴槽。広くはないが不自由もしない一面が白い浴室だ。

 壁に取り付けられた鏡に俺の顔が映る。こんな顔だったっけと毎回の様に思うのは外見への関心のなさの表れだろう。


 太めの眉に大きめのつり目、ひどいくまに形の悪い鼻、皮がボロボロの唇、酷い容姿だ。小さい頃俺は少しイケテル部類かもなんて思っていたことがどうしようもなく恥ずかしい。

 シャワーヘッドを手に取り、お湯を鏡に映る自分にかけ続けた。


 シャワーヘッドをフックに戻しバスチェアに腰を掛けた。

 しばらくお湯当たりながらぼーっと時を浪費して一つの欲求に気づく。陰部が俺の力を吸い取り続けていた。硬く大きくなったそれを握りしめ体は小さく丸く縮こまって自慰行為を始めた。


 醜い妄想を頭に描いた。赤木からの虐めを性的にデフォルメされた色付き音声付きの映像が脳内に根を張り続けた。

 俺は強烈な興奮に包まれた。白いものが出てしばらくして酷い自己嫌悪に襲われた。


 俺はミソジニーでマゾヒストだ。対立する自意識と性欲が俺を窮屈に縛りつけた。

 射精後不応期の今は余計にその矛盾を許せなかった。


 かなりの時間をその苦しみに費やした。今日一日の汚れを落とし浴室を出た頃には一時間半以上の時間が経過していた。

 リビングで過ごす母親の様子はやはり変だったがあまり関心を向ける気にはなれなかった。


 それから特に会話はなく自分の部屋のパソコンでネットサーフィンに浸っていた。

 バイトの給料を貯めて買ったこのデスクトップパソコン。随分と安物を買ったせいで性能にストレスを抱えていた。

 そんなちょっとのストレスも嫌になってネットサーフィンを中断した。

 何だかむしゃくしゃして飛び出すように外に出た。


 やはり真冬の夜は凍える風が車のように走り抜けていた。それは寒さではなく痛みと表現するのが適切だった。

 しかしそんな痛みも忘れ夜風に乗せられた足取りは非常に軽かった。街灯に照らされた夜の街はいつでも心の靄を洗い流してくれた。

 決して華やかな街並みではないが大衆が想像する田舎というほどでもない。それがこの街の良いところだった。


 大通りに出ると夜勤に勤しむ大型のトラックがかなりの勢いで横切った。置き土産に突風と悪臭を残していったがそれでも気分は良かった。

 この通りで目にする景色は実にカオスだ。図書館の隣に消防署がありその隣にはあまり大きくはない田んぼがあった。

 混沌はしばらく続くのだが気分が変わったので住宅街を歩くことにした。


 大通りとは違い規則正しく誰かの家が並び秩序が保たれていた。少ない街灯の白光りを頼りに暗い住宅街を歩いた。

 今は二十三時くらいだろうか。真っ暗で人の気配を消した家がチラホラ見え始めた。

 ズボンのポケットに入れていたスマホが震えた。

 スマホを取り出しどうせ母親からの心配の連絡だろうと薄い関心でホームボタンを押すと親友からの連絡だった。


「明日駅の前でいい?」

 明日の夜は俺の唯一の楽しみがあった。親友の多田健人ただけんとと飲みに行く約束だ。

 健人とは小学校からの付き合いで俺の最も気の許せる相手だった。「おけ」なんて淡白な返事を選んだのもそのためだ。


 しばらく夜の散歩を楽しんでから家に帰ると母親は眠りについていた。

 帰るなり寝る支度をして布団に入り真っ暗な天井を見つめながら考え事をしていた。

 そんな時だった。充電器を刺し横に置いていたスマホが継続的に震え出した。

 こんな時間に何だとスマホを手に取ると非通知設定の着信だった。

 頭が真っ白になるほど恐怖した。得体の知れない、不気味。そんな気持ちが不安を煽った。

 だからだろう。拒否を押すはずの指が応答を押してしまったのは。


 最初は無音だった。環境音の一つもしないのが気色悪くてすぐに切ろうとした。

 しかし突然音が鳴り出した。断片的に切った音を無理矢理くっつけて再生したような、一音一音別の声で聞こえてきた。

「わ、た、し、ぱ、ら、さ、い、と」

 性別も声の高さも声色もそれぞれバラバラな音声で名乗る相手に恐怖以上の何かを感じすぐに通話を終了した。

 何年ぶりの悲鳴をあげたいところだったが声すら出ないほどに心を抉られていた。

 全身鳥肌が立ち息は荒くなり頭の整理もつかなかった。


 今すぐにでも忘れるために目をつむり眠りにつこうとしたが一睡たりとも出来やしなかった。

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