歌う悪魔と水槽の中の姫

@HighTaka

第1話 帰郷

 穏やかな風がさざなみをたてて通り過ぎて行く。

 夕刻の海辺にすえた机の上には書き上げたばかりの詩。

 彼は自分の喉の調子を確かめ、自分の詩を吟味した。

「いいだろう」

 独り言ちて喉をえへんとととのえ、茜色の空にむかって朗々と歌い始めるまえの一声をあげる。

 その歌は波をゆらし、水底にあり得ないものを見せた。

 いもしない人、起こりもしない出来事、彼は朗々と歌い続ける。

 天地が崩壊し、悪魔と呼ばれる日がくることを彼はまだ知らない。


 奥方様にはお子がいない。だが、それに触れてはいけない。

 ハイリはここに来たときまずそれを厳しく言われた。

 教えてくれたのは昨年、侍女をやめて遠いどこかの領国にとついでいった先輩の侍女。

 奥方様を怒らせてはいけない。怒ると恐ろしい人だ。それも教わった。強い魔力の持ち主で、彼女の逆鱗に触れて形ものこらないほどの殺され方をした亜人がいるという。亜人は人工的な奉仕種族だがそのときの奥方の怒りは相手が何者であろうとも関係がないと思われたという。

 夫であるこの領国の領主は彼女になんの関心も見せない。いつか、恐ろしいことが起こるのではないかと先輩侍女は恐れていた。ハイリも同じ気持ちだ。

 彼女ももうすぐここをやめ、実家に戻ることになっている。おそらく輿入れの話が決まっていることだろう。でなければあまり体裁のいい話ではないから。

 だから彼女は奥方の慰みに世界球をすすめた誰かに感謝している。

 世界球は閉じられた小さな世界を持ち主の魔力で育てていくもので、魔力の繊細な制御、そして絶対量で小さな世界がいかようにも育つという娯楽だ。ハイリの仕える奥方は優秀な魔法使いでもあったからこれに夢中になった。

 この世界球はまた、奥方がハイリたち侍女に魔法の手ほどきをするときにも役にたっていた。そうでなければありきたりな魔法の通り一遍な使い方しか学べなかっただろう。実際、領主階層は護身程度の魔法以外は不要でこれだけの使い手はなかなかいない。ハイリも魔力は並で領主階層に生まれたためきちんと教えてもらう機会はなかった。彼女の母親もまた非常に強力な魔法使いだったが、小さいときに事故によってなくなってしまったためなおさらだった。

「覗いてごらんなさい」

 奥方に言われるままハイリは世界球をのぞいた。

 こぽこぽと泡のたっているのだけが見える。

「海の中? 」

 彼女が首をかしげると、鈴をふるような笑い声が聞こえた。

「それは水中の世界よ。火の使えない環境で文明を育てるのに苦労したわ」

 奥方が前に出る。ハイリは作法通り一歩さがって軽く頭をたれた。奥方のまとう立派だが実用的ではない衣装の長いすそは少女のような姿の家妖精が二人でひきずらないよう持ち上げている。亜人の召使の一種だ。可憐な少女の姿を姿をしているが無表情で、額に所有する家の家紋が浮かび上がっている。この二人にはこのコルハウベ家の紋がはいっていて主は奥方の夫君であることがわかる。奥方の私室には彼女の育った家の家紋をつけた家妖精が二人いて近しく世話をしている。ハイリにも実家のニシトク家から二人つけられていた。

 侍女は領国の女主人の見習いである。もうすぐ嫁いでどこかの次期女主人となるはずの彼女は奥方の代行を多く任され、その指導よろしきを得ていた。故に自らのも奥方のも、この家の家妖精のすべてに指図を出す経験をしていた。

 最初、彼女は家妖精たちをあまり好きではなかった。無表情で怖かったし、少々耳年増であった彼女は、家妖精たちが主の求めにしたがって慰み者になることがあることを知ってしまったから。

 今では亜人というものがどういうものか彼女は理解していた。自己複製能力と知性はあるが彼らは欲望のない道具、ロボットのようなものなのだ。もちろんロボットという言葉は入りの語彙にはない。だが亜人がまさにその意味で用いられていた。

「ほら」

 奥方が金魚鉢ほどの大きさの世界球に手をかざした。魔力を送って操作しているのだ。

 球体の中に人魚の美しい男女がうつった。水からあがった海草のしとねにしどけなく添い寝し、睦言をささやきあっている。

「どうかしら」

 素敵ですね、と答えるのは簡単だ。だが、そんな反応を求められていないことはわかっている。彼女は言葉を選んだ。

 以前に教わったことを必死に思い出して言及すべきことを導き出す。

「愛情のようなものを持ってるようですが、欲求だけから導出されましたか 」

 微笑みが向けられた。

「どうしてそう思ったのかしら」

 球体の中の男女はおたがいの体をからめあい始めた。

「あー、こういうところです。それと、以前おっしゃっていた実験に似た魔力パターンもここから感じますので」

「そうね」

 奥方の手が球体を撫でると男女の姿は消えてまた海の泡だけがときおり見える暗闇に戻った。

「魔力パターンを感じ取ったのはよろしい。魔法の研鑽にもなるし、あなたもやってみない? まだ使ってない世界球があるの。餞別にどうかしら」

「高価なものなのでしょう。よろしいのでしょうか」

「もう使わないしね。もらってくれると無駄にならないわ」

「ありがとうございます」

 彼女は礼を述べた。もうすぐ実家に帰ることになるし、そうなればどこに嫁ぐのかの話は聞かされるだろう。嫁入り道具はある程度かさがないと箔が付かない。使わないかもしれないがもらっておいて損はないだろう。それに奥方の機嫌は損ねたくはなかった。

 その時、ちりんと音がした。主である領主がはいってくる報せだ。彼女は手の空いている家妖精を並ばせ、頭をたれた。

 扉がお仕着せをきた警備用の亜人であるオーク二人によっておしあけられ、しどけない美女を従えた香水ぷんぷんの口ひげ男がはいってくる。これがこの家の男主人だ。

 気がつかないふりをしていた奥方はようやく振り向いて軽く頭をさげた。

 一言もかけるでなく、男主人は通り過ぎて奥にすがたを消した。美女だけが彼女に一礼した。

 夫妻の仲は冷え切っていた。ハイリは何も言わなかった。言えば奥方の機嫌がますます悪くなることがわかっている。

 不機嫌の理由はもちろん夫に見向きもされないこと。先程の世界球を見てハイリがいわなかったことが一つある。

 奥方はそれでも夫に愛されることを望んでいる。でなければあのように男女の愛に満ちた世界を生み出すわけがない。主の心をいくらかでも反映するのが世界球。それは奥方に教えられたことだが、指摘してはいけないことと彼女は心得ていた。

 そして不機嫌の理由はもう一つあった。

 あの愛妾が侍女の誰かに手をつけたり、領国にいる人の一族のどれかに連なる女ならここまで不機嫌にはならないだろう。

 コルハウベの当主の愛妾は亜人だった。亜人にもいろいろいる。家の下働きをする家妖精、警備担当のオーク、もろもろの技術担当のノーム、領国にとって大事な森の整備を行う森妖精、土木担当のドワーフ、記録と知識、そして魔法で補佐を行うエルフ、そしてもっとも新しく、遠い領国でおきている戦争で使われているゴブリン。

 当主の愛妾はそのどれでもなかった。

 亜人はどれも人間と見分けのつく特徴がつけられている。一番近い家妖精でも額の家紋は隠せない。だが、用途は作り手次第で、しばしば人に似せられて作られる亜人がいる。ホムンクルスだ。

 研究として作るのはそれほど責められない。実験が終われば処分するなら問題はない。だが、ホムンクルスを作ることは背徳的と思われている。なぜなら、彼らの大半は愛玩用だからだ。失った家族、果たせなかった思いを埋めるためのもの。当主もまた、愛玩用のあの妖艶なホムンクルスにおぼれている。

 奥方が激怒して跡形もなく殺したのはあのホムンクルスの一つ前のものではないかともいわれているし、もっと恐ろしい説ではあのホムンクルスとの子供として作られた成長するホムンクルスの赤子であったとも言われている。

 他の亜人は補充のために自己複製など数を増やすことができるが、ホムンクルスはそんなことができない。いくら人間に似せても子供を設けることはない。奥方の慰めになる点があるとしたらそこくらい。赤子説はそれを考えると奥方が凶行に出たのも納得のできる説だった。

 だが、当時の事情を知る領国の住人は一様に口を閉ざして語ろうとしない。ハイリも無理に知ろうとは思わなかった。ただ、これからどんな者のところに輿入れするかわからない彼女に世界球を進めたのは自分ほどでないにしろ、つらい結婚生活になった時に何か慰めがあればよいだろうという思いやりのように彼女には思えた。

「出発は明日でしたね。あとはコリンにまかせてあなたはもう下がりなさい」

 奥方の声には疲労があった。コリンとはハイリの少し後ろに控えている次席侍女で、彼女にかわって筆頭侍女となる少女だ。ハイリの仕事として、彼女の教育と引継ぎは完了している。気のあう相手ではないが義務を果たすという点ではお互い認め合うことはできている。

 うなずくコリンに微笑みを返してハイリは侍女としての仕事を終えた。









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