カーテンコール

おもち

 

「今日はコンサートか」


 紳士はコンサートホール中央付近の観客席に腰を下ろし、帽子を取って膝元に置いた。

 招待されたのは、クラシックオーケストラのコンサートだった。パンフレットには、序曲・協奏曲・交響曲のプログラムが記されていた。平凡でありふれた構成。最初から最後まで波乱に満ちているようなものを何度も見届けてきた紳士にとっては、今日のこのコンサートは自身の精神を激しく揺れ動かさずに鑑賞できる日だと思えた。



 紳士が招待されるのは、コンサートばかりではない。この前は一心不乱に走り続けるマラソンランナーを見届けた。嵐の中を進む漁船に乗り合わせたこともある。誰かの人生を見届けるというのは、生半可な覚悟でできるものではないのだ。不特定多数の者達の波乱万丈が続いて疲れていた紳士は、今日のコンサートで一息つこうと考えていた。



 幕が上がった。指揮台に登ったのは、真白い髪を整えた上品な老人だった。深くお辞儀をしたあと、彼は奏者の方を向き指揮棒を上げた。序曲が始まると、コンサート会場には心地よい音が響いた。オーケストラによって奏でられる音はその一つ一つが生きているかのようで、それは紳士を微風のように包み込んだ。

 観客に背を向けている指揮者の顔は見えない。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、トランペット──。奏者は皆、浮かない表情であった。このオーケストラは、人なのだ。奏者の表情は、指揮者のそれと同じ筈だ。こちらに背を向けて指揮棒を振る彼は、少なくともこのコンサートを愉しんではいないようだ。



 人生は、何が起きるか分からない。だが、レールの敷かれた人生なんていうものもある。どんな子供時代を過ごして、大人になって、年老いて、どんな死に方をして。それが始めからある程度分かってしまう人生。指揮者である彼は、そんな人生のレールを歩む人であった。それを羨む人間もいるだろう。しかし彼は、それを望んでいない。人生とは、大凡そのようなものである。

 コンサート会場の客席は疎らだった。開始から着席している観客はごく僅かで、途中入場や退席が目立った。演奏を真面目に聴いている観客は、ほぼ皆無だった。最低限のマナーも守られぬこの会場で、コンサートは続いた。望まない演奏を、それでも続けるオーケストラ。演奏を最後まで聴かない観客。紳士は客席の雑音を少しばかり不快に思いながらも、協奏曲、そして交響曲まで聴き終えた。



 オーケストラの演奏が終わり、指揮者が観客席の方を向き、深々とお辞儀をした。彼に背を向けて会場を後にする観客の足音の中、虚しく幕が降りていく。

 ここまでかと思い席を立とうとした紳士の目に、一人の女性が映った。彼女はこの会場でただ一人、演奏を終えたオーケストラにスタンディングオベーションを送った。幕が降りても、彼女は拍手を止めなかった。その女性以外の観客がいなくなった頃、再び幕が上がった。たった一人の拍手を聞いた指揮者は、音もなく頬を濡らした。



 紳士は立ち上がり、会場に響く静かなカーテンコールにもう一つだけ、拍手を重ねた。


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カーテンコール おもち @mochin7

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