2-6 地上の目

 爆弾から放出された熱波は地表の雪を融解させ、飛び散ったすすと泥が雪原に大きな黒点を残した。熱を帯びた着弾痕クレーターから立ち昇る陽炎の中で、重戦車の輪郭が揺らめく。


 動きを止めた二輌の戦車は沈黙をたたえて大地にたたずみ、小さな期待がハンナの中で徐々に大きくなり始めた、その時――



 戦車のエンジンが咆哮を上げた。



 寒烈な大気が打ち震え、雪白せっぱくの大地が鳴動する。

 息を吹き返した重戦車はその巨体で泥と雪を押し退け、履帯りたいは金属の擦れ合う錆声さびごえを響かせながら雪面に足跡を刻み付ける。


 大きな二基の砲塔と多数の機銃をたずさえた巨躯には暗緑色ダークグリーンの迷彩が施され、着弾痕を乗り越えた白銀の上でその身は一層禍々まがまがしく映った。






「ちきしょう!!」


 計器盤に拳が叩き込まれる。


 烈火のような憤激ふんげきが彼女の中で燃え上がり、無念と悔恨かいこんが混ざってぐらぐらと煮えたぎった。


「何が元教官よ!! この下手くそ!!」

 

 放った爆弾は戦車の数メートル横の地面をえぐっただけの徒労に終わり、ふんまんかたい思いが怒涛となって酸素マスクの中で唾棄だきされた。


「なにやってんのよ……私は……」


 戦車と対峙する事になる地上の将兵への申し訳なさと、ユモに重責を押し付けてしまった自責の念が心に重く圧し掛かった。


 力を失くした琥珀の瞳が伏せられ、目線の先で計器から流れ出たグリセリンが、ひびの入った燃料計に流れ着く。

 危機的な残量を示す計器の針も《早く帰投しろ》と暗に告げているようだった。


 機体をゆっくりと旋回させ、ハンナは戦場に背を向けた。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇


「クソ! なんてこった……!!」


 双眼鏡を覗き込んでいた男は小さな罵声に怒気を込め、土の壁を蹴り上げた。戦闘靴せんとうかが泥と雪を飛び散らし、これを浴びた隣の女兵士が顔をしかめる。


「ちょっと……! 何すんのよ!」


 吐息が白煙のように立ち昇り、女は慌てて口を押えた。


 ここは戦場を見下ろす緩やかな丘陵――その頂上に設けた掩体壕えんたいごうの中。

 バスタブを上から見たような形で掘られた穴に収まる二人は《地上観測班》である。


 白で統一された装備を全身にまとい、掩体壕の底には純白のキャンバス布を敷き詰め、穴の内壁は雪で覆うように押し固められて、黒い泥は一切見えない。

 

 男が蹴り上げた壁面も既に補修され、白い偽装網が地表の高さに合わせてゆるみなく広げられていた。


 二人が身を潜める掩体壕は最前線から大きく突出した位置に在る。そこは味方から離れているため支援も救援もなく、言い方を変えれば完全に孤立した場所でもあった。


 観測班はこの場から敵の位置や動向、味方から放たれる砲弾の着弾を観察し、司令部に伝える重要なとなる。

 彼らは部隊にとって欠かせない存在であり、ユモが所属する砲兵航空隊への攻撃要請も、観測班が掴んだ情報を基にしていた。


 観測班が重要な役割を担っているという事は敵も認識しており、最優先で叩き潰すべき対象とされていた。 

 事実、発見された観測班が生還した事例は少ない。


 徹底したカモフラージュを施すのは、彼らにとって必然であった。


「それにしても戦車は二輌とも健在だなんて、砲兵航空隊の奴ら……しくじったわね」


 女は潜望鏡を二つ束ねたような砲隊鏡ほうたいきょうを覗き込む。先端だけを僅かに地表に突き出して、進撃してくる重戦車に視線を注いだ。

 白く塗られた砲隊鏡の大きな対物レンズに被せられた薄手の白いストッキングが、光の反射を防いでいる。


「あんな近くに着弾したのに、損傷もしないなんてどういうコトよ……」

 

 忌々しそうに舌打ちして顔を歪める女を横目に、男は取り出した手帳に現況を手早く書き込んでいく。


「―—航空隊が使ってるのは爆弾だからな。外れた爆弾は地中深くで爆発するから、破片や衝撃波のダメージはほとんど期待できない。アレはきっちり命中させないと意味がないんだ」


 男はまくし立てるような早口で一息に語る。書き終えたのを見計らい、女が無線の受話器を差し出す。


「何だか知らないけど、急いでるんでしょ」ヘルメットの目庇まびさしの下で炎のような灼眼が光る。「報告、頼んだわよ」

 

「任せろ」

 

 男は受話器を掴み、無線のスイッチを押し込んだ。


「こちら地上観測班より司令部へ――」

 床に転がしてある弾薬箱から紙煙草を取り出し、口に咥えて応答を待つ。

(早く出ろ……!)手に力が籠り、受話器が小さく軋み声を上げる。


「―—こちら司令部、どうぞ」


 あでやかな声が男の耳に響く。声の主は司令部勤務の通信交換手である。彼女が奏でる優美なソプラノの調べは多くの将兵を魅了し、彼もまたその一人であったが、今は楽しむ余裕がない。急いで司令官を呼び出す。


 報告を待っていたように、間髪入れずしわがれ声が中耳を揺さぶる。


「私だ。良い報告か――それとも悪い報告か?」

 威圧するような司令官の声に普段なら気圧されているところだが、彼にはいて言うべき事があった。


「良くない報告です。砲兵航空隊は26機が攻撃を完了、敵戦車20輌を撃破。残りの爆撃機はだけです」


「……残った敵はか」司令官の声に失望の色が滲む。「防衛陣地には私から連絡しよう」


 司令官が言い終えるが否や、観測班の男が再び口火を切る。


「司令、意見具申があります」間を置かずに続ける男に司令官は小さく困惑するが、危機的な戦局である今は一つでも多くの策が必要だった。


「観測班からの声を拒む理由はない。言ってみろ」

 

「野砲による射撃再開を具申します。あと――」


 火の着いていない煙草を口から外し、男の瞳に決意と覚悟の焔が灯る。




「——砲兵部隊の指揮権を下さい」

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