1-5 空中観測班

 紙に垂らされた一滴のインクのように、空をわずかににじませる一つの点。

 針先ほどの小さな輪郭はゆっくりと、しかし着実にその孤影こえい肥大ひだいさせていった――。





「……! 前方に敵機!!」

 

 硝子ガラスが割れたような高声こうせいが全機の無線に甲走かんばしり、一瞬にして編隊の空気が張り詰める。


 通信規定に則ってコールサインを通信の発信源は――ユモ新米である。 

  

 三十五機の編隊に鉄のように重く、冷たい緊張が圧し掛るが、幸いにも長くは続かなかった。

 無線機の筐体きょうたいごと震わせるような豪快な笑い声が、取り巻く雰囲気を文字通り破壊したからだ。


 いち早く異常を発見し、毛羽立けばだった神経と持ち前の銀髪を針のように尖らせていた彼女は、頭上いっぱいに疑問符を浮かべて当惑する。


「こちら大隊長。素早い報告は褒めておこう。教官の教えが良かったのだな、ハンナ軍曹に感謝しろ。だが、あれは――だ」


 《飛行中に異常を発見した際には、迷わず直ちに報告すること》

 全てのパイロットに叩き込まれるこの鉄則を新米は電波をかいして警鐘けいしょうへと変え、激しく打ち鳴らしたのだ。


 その判断は正しいものであった。 


 僅か一秒で空中を100m近く進む彼らにとって、同じ速度で向かい合った敵機ならば毎秒200mの速さで互いの距離を詰める事になる。

 急を要する《発見報告》にコールサインを付けないのは規則ルールと呼ぶより、皆で生き残るために自然と根付いた慣習マナーという表現が近い。


「新米、貴様は良い眼をしているな」

「こちらユモ—―。あ、ありがとうございます……」


 彼女が複雑な面持おももちで返答した頃、他のパイロット達の眼もその対象を捕捉ほそくし始めた。


 大隊長がここで言う《味方》は突入隊形斜線陣を組んだ砲兵航空隊の針路上に在った。目を凝らしてようやく視認できる程に小さかった点は、たちまちに大きくなっていく。


 それは丸みをたたえた球体であった。ふわふわとした柔らかな外見は、おおよそ戦闘のために作られたとは思えない――そんな印象を与えてくる。


「こちらハンナ。あれはね。大隊長に通信を送ってきた《空中観測班》が乗り込んでるわ」


 緩やかな起伏が続く雲海の上に、輪郭りんかくにじませるように佇立ちょりつする観測気球をユモは物珍しげに眺め、蒼い硝子ガラスのような眼を大きくさせた。


「まん丸で、大きいボールみたい……」


 浮力を生み出す球状の気嚢きのうは直径は15mにも及び、その下に吊られているのは無骨なおりだ。軽金属で出来た床板を金網で囲んだバケットが見える。


 どれだけ近づいてもその輪郭がはっきりしないのは、気嚢の上頭の上からバケットの下足の先まで真っ白な網―—偽装網カモフラージュネット―—をまとっているからか。

 その網には、ぐにゃぐにゃにじれた海藻を思わせる、細く白い布切れがびっしりと縫い付けられ、見る者の距離感と焦点を巧みに狂わせている。


 カモフラージュネットの隙間からかろうじて見えるバケットの中には、ぶくぶくに着ぶくれした厚着姿の人影が見える。そこには地上の兵と同様、重たげなヘルメットを被り、寒そうにえりを立てた外套がいとうと大きな双眼鏡を身に着けた兵士達の姿が在った。


 雲に溶け込むような気球も、彼らがまとって手にする装備も、その何もかもが真っ白であった。

 

 冬を運んでくる広大な雲海は、何ヵ月にも渡って大陸の空に漂泊して大地に雪を降らせ続ける。この雲を味方にするか、敵にするかで戦いは大きく異なる。

 そして、この国が選んだ戦い方ドクトリンは、航空機にも気球にも見られる白を基調にした塗装という形となって、如実にょじつに現わされた。


「観測気球はワイヤーと有線電話で地上の通信班へ繋がってるの。……この高度はとても寒いし、風をさえぎるものもない。吹きさらしの中で私たちに色々な情報をくれる重要な《目》よ。――とても大切な仲間ね」


 ハンナの説明を聞きながら編隊が空中観測班の頭上にさしかかろうとした、その時だった。


「こちら大隊長よりユモへ。貴様は陣形の最右翼だ。彼らにも良く見える。お前が代表して敬礼挨拶しろ」

「こちらユモ――敬礼ですか?! 飛行機の中で……ですかっ!?」


 突然の指示に慌て、狭いコックピットの中で敬礼を繰り返すユモに呆れ果てた小隊長から、ぶっきらぼうなアドバイスが飛んでくる。


「こちらカール……だ。翼を振れ……」

「はっ、はい!」

「こちらハンナ。ユモ、操縦かんを右に倒したら機体が旋回しちゃうからラダーを左に蹴ってね? 反対の時も同じよ。訓練を思い出して」

「はい! 了解しました!」


 抜けるような蒼天そうてんを背景にゆるゆると三番機の翼が降られると、観測班からの通信を唯一受信できる大隊長の無線機に、三度の短い通信波搬送波が届いた。

 

 空中観測班は、ユモの敬礼を受け取ったのだ。


「こちら大隊長。《貴隊の幸運を祈る》と通信が来たぞ。敬礼止め!」

 

 バンクを止めたユモは、身体を締め付けるシートベルトの中で身を捩り、座席の上でぐっと背を伸ばして眼下を望んだ。


 空中観測班は一様に、手を振っていた。

 全員がヘルメットを外し、それを大きく、大きく振っているのが見える。


 ユモも狭い機内が許す限りに目一杯大きく手を振り返すと、やがて彼らは主翼下しゅよくしたの死角に消えていった。


 静かに役目を終えた彼らは、雲海に音もなく没していく。ワイヤーを巻き取り、その先に繋がっている地上を目指して行くのだ。




 砲兵航空隊はエンジンの音を轟々ごうごうと響かせて、観測気球が浮かんでいた地点をたった今―—通過した。


 直接的な戦闘に向かない通信隊が浮かべる観測気球。そこは常に戦場の最果さいはて、作戦空域の末端にあたる。

 空中観測班は地上からの情報だけではなく、もう一つ重要な事を、彼ら砲兵航空隊に伝えていた。


 この先に在るのは《作戦空域》である、と無言のままに示していた。




 作戦空域――それは航空地図にしか存在しない、戦場の空。


 肉眼で見ることが出来ない空の国境は、人の手が空をえぐって切り裂いた、戦争への入り口でもあった。

 

 彼らは今、安寧あんねいの空間から戦争の空へとその身を投じたのだ。


 空も、雲も《我関せず》と言わんばかりの表情は、ついに変わる事はなかった――。

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