1-5 空中観測班
紙に垂らされた一滴のインクのように、空を
針先ほどの小さな輪郭はゆっくりと、しかし着実にその
「……! 前方に敵機!!」
通信規定に則ってコールサインを省いた通信の発信源は――
三十五機の編隊に鉄のように重く、冷たい緊張が圧し掛るが、幸いにも長くは続かなかった。
無線機の
いち早く異常を発見し、
「こちら大隊長。素早い報告は褒めておこう。教官の教えが良かったのだな、ハンナ軍曹に感謝しろ。だが、あれは――味方だ」
《飛行中に異常を発見した際には、迷わず直ちに報告すること》
全てのパイロットに叩き込まれるこの鉄則を新米は電波を
その判断は正しいものであった。
僅か一秒で空中を100m近く進む彼らにとって、同じ速度で向かい合った敵機ならば毎秒200mの速さで互いの距離を詰める事になる。
急を要する《発見報告》にコールサインを付けないのは
「新米、貴様は良い眼をしているな」
「こちらユモ—―。あ、ありがとうございます……」
彼女が複雑な
大隊長がここで言う《味方》は
それは丸みを
「こちらハンナ。あれは気球ね。大隊長に通信を送ってきた《空中観測班》が乗り込んでるわ」
緩やかな起伏が続く雲海の上に、
「まん丸で、大きいボールみたい……」
浮力を生み出す球状の
どれだけ近づいてもその輪郭がはっきりしないのは、
その網には、ぐにゃぐにゃに
カモフラージュネットの隙間から
雲に溶け込むような気球も、彼らが
冬を運んでくる広大な雲海は、何ヵ月にも渡って大陸の空に漂泊して大地に雪を降らせ続ける。この雲を味方にするか、敵にするかで戦いは大きく異なる。
そして、この国が選んだ
「観測気球はワイヤーと有線電話で地上の通信班へ繋がってるの。……この高度はとても寒いし、風を
ハンナの説明を聞きながら編隊が空中観測班の頭上にさしかかろうとした、その時だった。
「こちら大隊長よりユモへ。貴様は陣形の最右翼だ。彼らにも良く見える。お前が代表して
「こちらユモ――敬礼ですか?! 飛行機の中で……ですかっ!?」
突然の指示に慌て、狭いコックピットの中で敬礼を繰り返すユモに呆れ果てた小隊長から、ぶっきらぼうなアドバイスが飛んでくる。
「こちらカール……バンクだ。翼を振れ……」
「はっ、はい!」
「こちらハンナ。ユモ、操縦
「はい! 了解しました!」
抜けるような
空中観測班は、ユモの敬礼を受け取ったのだ。
「こちら大隊長。《貴隊の幸運を祈る》と通信が来たぞ。敬礼止め!」
バンクを止めたユモは、身体を締め付けるシートベルトの中で身を捩り、座席の上でぐっと背を伸ばして眼下を望んだ。
空中観測班は一様に、手を振っていた。
全員がヘルメットを外し、それを大きく、大きく振っているのが見える。
ユモも狭い機内が許す限りに目一杯大きく手を振り返すと、やがて彼らは
静かに役目を終えた彼らは、雲海に音もなく没していく。ワイヤーを巻き取り、その先に繋がっている地上を目指して行くのだ。
砲兵航空隊はエンジンの音を
直接的な戦闘に向かない通信隊が浮かべる観測気球。そこは常に戦場の
空中観測班は地上からの情報だけではなく、もう一つ重要な事を、彼ら砲兵航空隊に伝えていた。
この先に在るのは《作戦空域》である、と無言のままに示していた。
作戦空域――それは航空地図にしか存在しない、戦場の空。
肉眼で見ることが出来ない空の国境は、人の手が空を
彼らは今、
空も、雲も《我関せず》と言わんばかりの表情は、ついに変わる事はなかった――。
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