命の優先順位

 病院の自動ドアが開き、陽子が息を切らして駆け込んできた。パート先からタクシーで駆けつけたのだろう、その顔はこわばっている。


「広太朗さん!大丈夫なの!? 春子は……!」


 陽子は、夫の頭に巻かれた包帯を見て息を呑んだ。電話で事情は聞いていたとはいえ、実際に怪我をした姿を目の当たりにする衝撃は大きかったのだろう。


「俺は大丈夫だ、ちゃんと検査もした。ちょっと縫っただけだ。春子も大事はなかった。今は個室で点滴して寝てるから、そっとしといてやろう」


 陽子は全身の力が抜けたように、その場に崩れ落ちそうになるのを堪えた。桃山は、無言で長椅子を指し示す。


「とりあえず座ろう。俺も、医者から色々聞いたとこだ」


 陽子は言われるまま、桃山の隣に力なく腰を下ろした。静かな待合室には、自動販売機が立てるかすかな音が響いている。


 何から伝えるべきか。何が間違っていたのか。そもそも自分に何ができたのか。包帯を巻かれた頭の鈍い痛みが、先程の悪夢を呼び起こす。だが、今は取り繕う言葉など見つからなかった。絞り出すように、重い口を開く。


「俺のせいだ」


 自分でも驚くほどかすれていた声だった。陽子が息を呑むのがわかる。


「全部、俺のせいなんだ。春子がネットで晒されて、笑いものにされてるなんて、知らなかった。春子と電話で話したとき、明らかに様子が違ったんだ。聞いたことないような泣き方だったのに」


「やめて!」


 陽子が叫ぶように言う。


「あなたまで自分を責めないで」


 その声が震え、涙があふれる。


「違う……私よ。私の方が春子とたくさん話していたのに、全然気づいてあげられなかった。母親なのに」


 陽子の声が、さらに震える。


「昨日も、塾のことでついきつく言っちゃって……あの子が一番辛いときに……」


 言葉が続かなくなる。陽子は顔を覆い、嗚咽を漏らした。言葉が出ない。二人の間に、重い沈黙が落ちる。


 どれくらい時間が経ったのか。桃山はようやく重い口を開いた。


「春子が昔描いた『ゲームをするパパ』の絵……覚えてるか」


「ええ、もちろん」


「あれが、例のまとめサイトに上がってたんだ」


「えっ……」


 陽子の顔が、驚きと悲しみに歪む。


「誰かがドラグーンゲームズから流出させたんだ。『桃D』なんてコメントまであった。春子が俺の娘だってことを知ってるやつの仕業だ」


 桃山が職場に持っていった絵がアップロードされたことの意味に、陽子は思い至ったのだろう。桃山に、そして家族に恨みを持った者の存在に。


「そのせいで、春子は……俺にまで裏切られたと思ったんだ」


 情けなさと後悔で、声が震える。


「結局俺は、仕事で見返してやるだとか、ディレクターの俺が踏ん張らなきゃだとか、そんなことに囚われてた。SNSだって、今の子には当たり前だっていうのに、会社の若いのに任せっきりで、ろくに知ろうともしなかった。スマホゲーム作っておきながらだ。知ってれば、もっと早めに気づけたかもしれないのに」


 少しの沈黙の後、陽子が静かに話し始めた。


「ずっと……辛そうなの、見てた」


 陽子の目から、涙が溢れる。


「いつ頃からかしら。あなたが部署移動してから、伊賀さんの話を全くしなくなって。あんなに仲が良かったのに。昔はあんなに楽しそうに仕事してたのに……」


 なんだ、全部お見通しだったのか。そうだ。功を焦り、誰より信じてくれた仲間に背を向けた。間違った人間の下につく致命的な間違いを犯した。思えば、そこから全ての歯車が狂い始めたのではないか――。


「春子に彼氏ができたって聞いたときは……私も一緒になって浮かれちゃってて。母親なのに、何も気づいてあげられなかった。あの子がどんな思いで学校に行ってたか……」


 少しの沈黙の後、陽子が続ける。


「今の仕事が決まった時は嬉しかった。南君がやってるし、信頼できるって思ってた。でも……小さいし新しい会社でしょう? もしゲームがヒットしなかったら、その時はどうなるかわからないじゃない」


「陽子……」


「怖かったの」


 陽子が顔を上げ、桃山を見つめる。その目には、溜まっていた不安と恐怖が浮かんでいた。


「お父さんも、仕事ばっかりして、お酒ばっかり飲んで……それで肝臓悪くして、気づいたら手遅れだった。だから、お酒の量が増えてるのが、本当に心配だったの」


 まだやり残したことも多かったであろう、黒柳の最期を思い返す。そして、妻がどれだけ不安を抱えていたかを、今更ながら思い知らされた。


 家族のためという同じ目的がありながら、二人の見ている方向はいつしかズレてしまっていた。陽子の震える肩をそっと抱き寄せて、桃山はゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。


「すまなかった。俺が……お前の不安を、春子の苦しみも、真剣に受け止めることができなかったんだ、後回しにしてしまっていた。優先順位を、間違えたんだ。これからは、ちゃんと話そう。もう俺一人で何とかしようなんて思わない」


 もう言葉はなかった。二人は、失いかけたものの重さを確かめるように、冷え切った待合室で、ただ静かに互いの体温を感じていた。


 ◆◆◆


 自動ドアが開く音、廊下を歩く足音。病院特有の時間が、ゆっくりと流れていた。


 落ち着きを取り戻した陽子が、桃山の胸から顔を上げ、ふと数メートル先の別の長椅子に視線をやった。


「……え、誰、あの人?」


 そこには福田がM字開脚という無防備な格好で寝息を立てていた。


「やばい、すっかり忘れてた、そんなとこにいたのか……!」


 陽子は一瞬その姿に眉をひそめたが、何も言わず立ち上がるとそっとその両膝を閉じ、体を横向きにした。そして、自分が羽織っていたカーディガンをその肩に掛ける。ドラグーンゲームズ時代の経験からか、酔っぱらいの介抱には慣れているようだった。

 

「あの、これはだな、会社の若いのが無理やりついてきちまって。前に話したろ、文江先生だよ。春子に会いたいって言ってくれてたんだが、まあ、なんというか。見ての通りだ」


「ふふっ」


 何故か言い訳しなければいけないような気分になったが、陽子は気にしていないのだろう、思わず小さな笑いをこぼしていた。


「今日は文江先生に無理矢理に連れ出されたようなもんだ。感謝しなきゃな」


「そうなのね。本当に良かった。ふたりとも無事で」


 最悪な第一印象のはずなのに、その寝顔を見つめる陽子の目は、慈愛に満ちた優しいものだった。まるで彼女が家族の救世主であるとでもいうかのように。


 その時、長椅子で横になっていた福田が、うめき声を上げてむくりと起き上がった。


「えええっ!?ここ、どこ??」


 大音量の叫びが静かな病院に響き渡る。


「うっ……きもちわる!!」


 焦点の合わない目で宙を見つめているその顔は、血の気が引いて青白くなってしまっている。


「あら、大丈夫?」


 陽子が素早く反応し、福田の背中をさする。


「やば!トイレ……どこですか……おえっ」


「ちょっと、ここで吐かないの! トイレはあっちよ、ほら」


 陽子はそう言うと、ほとんどまともに歩けない福田の腕を自分の肩に回し、しっかりと支えて立ち上がらせた。


「ああ、頼む」


 こういったことは男である自分より、陽子に任せたほうがいいだろう。呂律の回らない声で何かを訴えている福田を引きずるようにして、陽子が待合室を後にしていく。福田も飲みすぎただけで、救急外来にかかるほどではないはずだ。


 二人の足音が遠ざかり、再び静寂が戻る。一人残された桃山は、長椅子に深く座り直し天井を見上げた。


 白い蛍光灯が、無機質な光を放っている。包帯を巻かれた頭に手をやると、鈍い痛みがまだ少し残っている。


 今夜、自分は何を失いかけたのか。春子の命。家族との絆。そして、自分が本当に守るべきものを見失っていた。


 目を閉じると、脳裏に黒柳の顔が浮かぶ。いつも豪快に笑っていた。


『桃山と伊賀がいればうちは安泰だな!』


 若い自分たちを信じて、任せてくれた。失敗しても責めることなく『次はもっとうまくやれる』と背中を押してくれた。


 すまない、おやっさん。


 ドラグーンゲームズを去り、黒柳の生きた証である陽子を悲しませ、もう少しで春子を失うところだった。


 それでもーー。ゆっくりと目を開ける。

 

 それでもまだ、自分にもやれることがある。


 連綿と続く時の流れで、受け継がれてきたものを、今度は自分が引き受ける。そう言えるほどには歳を重ねた。ただそれだけの話なのだ。次の世代にその背中を見せるのが、残された者の役目なのだと、確かな実感が湧き上がってくる。


 『イセワン』が大成功だとは言い難い。南とも話をしないとならない。家庭の問題も、まだ完全に解決してはいない。


 友人の遺志を継ぎ、不器用ながらも必死に前に進もうとしている男。そして、夢を諦めきれずに帰国し、伊賀に似たその目に情熱を秘めた男。


 お前らがいれば安泰だと、そう言い切るにはまだ頼りない二人の顔が浮かび上がった。


 だからこそ、自分が支え、導く。


 ネットを通じて悪意をぶつけてくる存在から、家族と会社を守り抜く。


 それがディレクターとして、父親としての俺の役割だ。もう優先順位は、間違えない。


 桃山は深く息を吐き、ゆっくりと拳を握りしめた。

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