10
死ぬか。
祖母が気に入っていた、地元製造の辛口の日本酒、一升瓶を空けたところだった。心の中に住み着いた蛇に囁かれて、私は甘い毒を欲した。
ポキリと、まるで祖母の骨の様に脆く折れた心。
度数の高い辛口で、さらさらとした喉越し。一升瓶は一、八リットル。全てを飲み終えたのは、成人してから生まれて初めての事で、酒酔い独特のふわふわと宙に浮かんでいるような感覚に溺れていた。
こんな世界なんて生きている意味がない。もう私、生きる意味がないんだもん。
大切な人を亡くした人はかわいそうなんでしょう? それじゃあ、私が死んでも理由にはなるよね。だってかわいそうな子なんだもん。
唯一、生きていられる世界がなくなっちゃったってことは、私にはもう居場所がないってことだ。そうだ。そうだよ。
空の瓶を床に置いて、ごろりと天井を見上げるように寝転がった。御猪口でちまちまと飲むのが嫌で、至って普通のコップで、水のように飲んだから悪酔いしたのだ。
天井に見える蛍光灯がゆらゆらと揺れて、歪んで見える。少し首を傾げれば、本棚が目に入るけれど、一冊一冊のタイトルも碌に読めやしない。
あまりの自分の酔っ払い具合が可笑しく愉快になってきて、あははと笑い声を飛ばせば、天井から跳ね返ってきた。
せっかく自分で死の瞬間を選べるんだ。そうと決まったら準備をしなくちゃならない。心底、つまらない人生だったし、沢山、沢山頑張っていたでしょう? だから、死に方くらいは選びたい。
リストカット、首吊り、転落死、一酸化ガス中毒死、今どきネットで調べてみれば幾らでも手段はある。いくつかの手段は必要な道具を揃えないといけないものがある。さて、どうするか。
服薬自殺。運が良いことに、私は医者に通っているから、睡眠薬は勿論の事、眠気を促してしまう他の薬も大量に残っている。
だが、睡眠薬を一気に摂取すれば眠る様に死ねるというのは幻想だ。今どきの睡眠薬は安易に死なせてはくれない。ただ気持ち悪くなって吐くだけ。上手く死ねなくって、後遺症を残す可能性の方が大きいだけ。それは勘弁願いたい。後遺症を残して生き残るなんて、一番望まないことだ。体に優しい薬を開発してくれる研究員さんが居る世界、一方で余計な事をしてくれると感じ、愚痴ている自分も居た。
そうだ、と思いついた。道具も特に必要ない、簡単にできる方法だ。決行は、いつ? 今すぐ、やってやろう。
体を起き上がらせる。酒が全身に回って、ふらりふらりと身体が思う様に言う事を聞かない。
祖母が入っているメモリアルペンダントを首にかけて、残っていた睡眠薬と他の薬と酔い止めを、コップに残っていたお酒で飲み干した。さっき調べた時に、酔い止めも中々の睡眠効果があるらしいと知った。だから、運転する人達にこの薬の投与が禁止されているのか。私はゆっくりと、寝静まった家の中を、足音を立てない様にと歩いた。見事なまでの千鳥足だった。
胸元に、手を添える。ペンダントに入っている祖母と、呑み込んだ祖母へ声をかける。
いま、そっちへいくからね。
仏前に供えられていた大きくて存在感のある、においも見た目も完璧な白い百合が目に入る。持ち出した鋏で、パチン、パチン、と音を立てて二つ切り落とした。
土から離れても、栄養を断たれても、首だけのような存在となってしまっても、己の存在を主張してくる。なんてかっこいい花なんだろう。
思わず百合を顔に近付けて、深く呼吸をした。この香りに包まれれば、私は幸せに眠れるような気がした。
花を手に家のお風呂場に向かって歩く。数ある選択肢の中から、私は溺死を選んだ。
これから大好きな祖母に会えることに期待をしながら、周りを気にすることも無く、再び百合の香りを楽しむ。なんという、ユートピア。私は世界一の幸せ者。
服を着たまま、湯船に浸かるのだ。酒に酔ってこんなことをしたんだろう、と思われるかもしれない。馬鹿な奴だったなと思われるかもしれない。
それでも良い。誰も悪くない。私が自分で選んだ逃げ道だから。誰も悪くない。気付けなかったとかそんなのは関係ない。だから、大丈夫。
今まで感じたことのない高揚と開放感を全身に受けていた。
「おや、もとちゃんこんな時間にどうしたんだい」
突然、誰も居ないはずの居間で聞き覚えのある声が響いた。ばくん、と心臓が飛び跳ねた。身体を大きく揺らしてしまったから、手で抱えていた百合がぽとりと一つ落ちていく。ゆっくりと、声のした方へ顔を向けた。
そこには、生前と何ら変わらない姿で、居間に置いてある座卓に腕を乗せて、此方に顔を向けて笑みを見せる祖母の姿があった。
「……お風呂」
度肝を抜かれて、私はようやく返事をする。
いつも通りの返事だった。真夜中に自室のある二階から一階に降りてくると、祖母はどうしたのかと寝室から顔を覗かせて、心配そうに私に問う。その問いかけに、私は至って普通に、イヤホンとか充電器を置いてきたなどの、返事をする。そうすれば、祖母は安心して寝室へと戻っていく、ということがあったりした。
だから、祖母が最初から居間にいたことが不思議だった。
祖母は、空いている座布団を指し示した。
祖母の隣は、私の定位置。座りなさい、と言われている。
落としてしまった百合を拾って、言われた通りに座布団に腰かけてみれば、祖母は私を優しい目で見つめていた。
「お風呂に入るの?」
「……うん、そう」
「百合を浮かべるの?」
「うん、そう……お洒落でしょう?」
私は、祖母が死んだとちゃんと理解している。
だから、これは夢か、それとも酒をたらふく飲んでしまった末の幻覚か。
そうでなきゃ、死んだ祖母がこの家に居るわけがないのだから。
「そうかな。百合に囲まれると悲しくなるわ。私はコスモスとか百日草が良いなあ」
「ああ、やっぱり。好きだったもんね」
久しぶりに、私の知っているばあちゃんと話をしているような気がした。
私が最後に目にした祖母は、身体が硬直し、息もしていなかった。声も発しなければ心臓も動いていないし、表情も変えない。そんな祖母の姿で記憶が止まってしまったから。だけどこうして、生前と変わらない姿の祖母を目の当たりにして、彼女はちゃんと意思や感情を持った一人の人間だったことを思いだした。
「どうしてお風呂に入るの?」
確信を突いたような言葉に、思わず言葉が詰まってしまった。まるで、私の全てを見透かれてしまったかのような気がした。
「……眠ろうと思って」
「そっか。そうだよなあ、もとちゃんは小さい頃から、眠れなくなると下に来て、一緒に寝ようって言ってきた。それはもう可愛かった」
懐かしむように、綺麗な思い出の様に、きらきらとした宝物を扱うように彼女は言うから、まるで小さい頃の自分が暴れ出して表に出てきてしまいそうで、ぎゅう、と心臓が締め付けられるような気がして。
少し下を見て、そうだよと声を零す。
「ばあちゃんと一緒に寝たいんだ。だから、だから……!」
気が付けば、ぼろぼろと涙が零れ出てしまっていた。
「ばあちゃん、嫌だよ。ばあちゃんの居ない世界は苦しい。怖い、生きるのが怖いんだ」
いつだって祖母は一番の味方だった。何があっても、祖母は絶対に私の敵になることが無かった。祖母は、私の安心できる拠り所のような存在だったのだ。
何にしても、私は随分と甘やかされていた。えらいね。頑張っているね。良い子だね。頭を撫でてくれる、細い指の、しわしわな手。
祖母に褒められることが嬉しくて、褒めてほしくて、その日の出来事を、つらつらと述べて。えらいね、がんばったね、良い子だね、頭を撫でられて。
その支えが消えてしまったから、私の心は粉々になってしまっている。
良くない事だ。これは、依存というやつだ。分かっていた、分かっていたはずだった。自立をしなければいけない年齢だったのだから、祖母に支えてもらうなんて、酷いことをさせるわけにはいかなかったのだ。
祖母が家をあけがちになってしまったあの日から、私は、だいぶ駄目になっている。そのまま情けなく、私は生き続けてしまった。
それなのに、私はまだ縋りついてしまう。
「お願い! 私を一緒に連れて行ってよ! もう疲れたから! 逃げたくて、楽になりたいの! 私なんか死んだほうが良いの! その方が周りの為なんだよ!」
「だめだよ」
ぴしゃり、と祖母に否定をされて、そこでようやく口の動きが止まる。目から涙が溢れだして止まらない。
もしかしたら、初めての事だったかもしれない。祖母に、ダメだと、ハッキリと言われたのは。
幼稚園が嫌だと私が泣き叫んだら、一緒に畑いじりをしようと言ってくれた。小学校でいじめられたと言えば、私の頭を優しく撫でながら、私は宝物だと言葉をかけた。様々な大会でいい成績が出せなくて悔しがっても、素敵だったと褒めてくれた。大学から帰省したら、誰よりも喜んでくれた。就職して、辛い思いをして、仕事を辞めたいと言ったら、良いよと許しをくれた。その言葉を貰えて、私は生きていても良いのだと、全てが許される気分がする。私の命は、祖母に握られていたのかもしれない。
そんな祖母が、ハッキリと、ダメだと口にしたのだ。
「……それじゃあ、なんで私がこうなったのか分かる?」
私がぽつりと呟いても、祖母は私を見続けている。
「全部、私がやりたくてやったの。怖くて怖くてしょうがないの。一人でいたくても一人は怖いの。まともに生きたかった。いつも勝手に誰かに嫉妬して、置いてかれたって思い込んで、誰かの事を傷つけた」
いつも私はそうだ。小さい頃から、きっと私は誰かに傷つけられ、誰かを傷つけて生きていたのだろう。
「私ね、本当は他人の事が好きなの。でも、こんな私に好かれても嫌だろうなって。皆と居ると苦しくてさあ。皆が居ると私が本当に小さく見えて、今までの苦しくて悔しいことも全部思い出しちゃって」
「うん」
「ごめんなさい。どうすれば良いのか分からなくて。だから、誰かに許してもらえるんだったら、どんな罰も受けるし、我慢もするし。もう自分でもぐちゃぐちゃなんだ。いやだ」
ごめんなさい、ごめんなさい。
ぼろぼろと涙を零しながら謝れば、祖母が優しく私の頭を撫でた。
ごめんね。彼女の謝罪の言葉も聞こえた。
「こんな私が生きててごめんなさい。弱い私でごめんなさい」
沢山の謝罪の言葉を唇をかみしめて堪えて、それでも涙は止めどなく出てきて、ただ、泣くことしか今の私にはできなかった。
「もとちゃん。もとちゃん……ごめんね」
祖母も私につられるように、一緒に泣きながら私に謝った。
「もとちゃんは……死にたいの?」
ばあちゃんのポツリとした問い掛けに目を開く。
「……助かりたいから」
ぽつりとつぶやいた言葉は多分聞こえていない。そう思ったのに、祖母はハッキリと私の顔を見た。
「うそだね」
小さく彼女を呼ぶけれど、彼女の表情は険しく、怒りを隠そうともしない。
「死にたくないんでしょう」
その言葉に、目が開かれた。
引き攣る様に上がった口角とは正反対と言わんばかりに、瞳から涙がぼろりと零れた。
「そんなこと……」
「本当は、私の最後を見て、死ぬのがうんと怖くなったんでしょう?」
図星だ。
人間と言うのは、あんなに周りに手を掛けられてまで生きないといけなくて、そして最後まで面倒を見られて、痛い思いをしつつ死ぬのだと。
骨だけになったら、乱雑に扱われてしまう。いくつかの光景がよみがえってしまった。
そんなのは絶対に嫌だと思った。死ぬのが、本当は怖いんだ。
だからこそ、私は一人で死ぬと決めたのだ。それなのに、祖母はそれすら見抜いてくる。
「恐いんだよ。迷惑かけるの。皆の目が。笑顔の自分だけを見てほしい。弱い自分なんて見ないでほしい。嫌われたくない。なんでそこまでして生きなきゃいけないの」
「……知っているでしょう。人って、死なれた方が案外困る」
私は、死んでしまったばあちゃんに、なんてことを言わせてしまったんだろう。
「なにより溺死は見た目が酷い。それに病院の手続きでしょ。家で死ぬから警察も呼ぶなあ。お寺さんの予定と葬儀屋さんの予定と火葬場の予定合せないとでしょ。葬儀代ってすごい高いよね。返しのお金もかかるし。葬儀に来た一人一人に挨拶されて、現実を見て。式が終わっても、家にはいっぱい人は来るし、対応するし。そうだ、役所での手続きもあるよね。風呂の特別な掃除も行わないといけない」
「……ごめんなさい」
祖母の言葉の羅列を聞いて、思わず謝罪の言葉が零れた。
全部、分かってる。人って、死ぬと色々と大変なんだなあ、って、慌ただしく動く両親を遠目で見て思った。大して動いていないくせに、私だって疲労感に襲われた。残された側は、確かに困る。
「もとちゃん優しい子だから。ごめんね。だけどこんなこと言われたら、踏みとどまってくれると思った」
「本当、だよ。ズルいよ、ばあちゃん」
私は死んで楽になるだろう。けれど、周りは? こんな私でも、いや、私だからこそ、死んだら困るんじゃないか?
「確かに生きることは大変だよね。簡単なことじゃない」
老衰によって身体の言う事が効かなくなってきて、更にガンと言う悪玉細胞が身体を破壊する。手術をしても、身体や体力はなかなか戻らなくて、今まで出来たことが出来なくなったりもして。体中に管を通されて、何とか生かされている。
そんな祖母の姿が、ありありと、脳裏に過った。
「もとちゃんは、人を笑顔にさせる力を持っているよ。自分に自信を持つために、必死に必死に、努力をして頑張って。可愛い笑顔で周りを幸せに出来ているよ」
手をぎゅっと握られてそちらの方を向けば、真剣な表情をしてこちらを見ているばあちゃんが居た。
孫に対して可愛がることは、おかしいことではないだろう。可愛いという言葉を掛けるのも、おかしいことではないだろう。目に入れても痛くない、という言葉もあるくらいだ。
祖母だけだった。可愛いと私の見た目を含め、全てを褒めてくれたのだ。褒めてもらえるのはいつだって嬉しかった。生きているのを許される気分がするから。生きていていいのだと、心が軽くなる。
「もとちゃんの友達も、ママもパパも、周りの色々な人だって、貴方の良い所だけを見たいわけじゃないよ。『私でごめんなさい』なんて絶対に思わないこと。私はね、そんなもとちゃんが大好きだったんだよ」
優しく微笑む祖母を見て、涙で顔はぐちゃぐちゃだろうし汚いだろうけれど、今度は本心からへらりとした笑みがこぼれた。
「安心して。もっと素直になって。もとちゃんの気持ちを伝えて。よく見てごらん。世界って思っているよりもとちゃんの味方なんだよ」
ばあちゃんの言葉を聞いて、再び涙がこぼれ落ちた。
「ありがとう。大好きなもとちゃんを置いていく酷い奴だったけれど、これからもよろしくね」
ごぼり、と水の音がした。
周りの音が、何も聞こえなくなった。その時、ザバリ、と大きな水音がして、身体がぐわんっと揺れた。誰かが手を掴んで、そのままゆっくりと私を引き上げたのが分かった。
「おい! しっかりしろ!」
耳に入った水の所為でよく聞こえない。肺にも水が入って、とても苦しい。視界も歪む。何度も何度も揺さぶられて、ようやく、水が口から零れ出た。
「ガハッゴフッ、ぐっ、ゲホッゴホッ!!」
ビシャ、ビシャと私の口から零れ出る水が床に滴り落ちる。
苦しい、息がまともに出来ない、肺が痛い、水が入ったから。視界もまだ歪んでいる。頭が痛い。空気が足りないからだ。
周りから多くの声が響いているのがようやく聞こえ始めた所で、私は丸まっていた身体を、腕をゆっくりと伸ばしながら起き上がろうとする。息はまだぜえひゅう言っているし、肺も痛いけれど。
「は、は……!」
心臓もバクバクとうるさい。飛び出してくるかのようだ。
視界のぼやけが薄れてきて、ようやく見えてきた先には、人影があった。父と、母だった。
「夜中に一階に降りて、どうしたのかと思えば、何を、やって……!」
母の涙ぐんだ声を聞いて、思わず周囲に目をやる。
私を湯船から引っ張り上げた際について来たのだろう、百合の白い花びらが数枚、風呂場のタイルに散っていた。ちゃり、と音を立てて、首元にぶら下がっていたメモリアルペンダントが目に入る。祖母は、ちゃんとここに居た。
呼吸が整って来て、思わず自身の両手を見やった。
さっきまでの出来事は、夢だったのだろうか。
祖母が、最後まで、私に、愛を注いできた。
私はその愛に、同じ分だけの愛を返すことは、二度と出来ないというのに。
ボロボロと涙がこみあげてきて、私は真夜中だという事を気にせず、よく反響する風呂場の中で、拳を握りしめ、俯いて丸まった体勢で、大きな声でばあちゃんの名前を呼びながら泣き叫んだ。
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