09
祖母の四十九日がやってきた。祖母の遺骨箱を叔母が抱えて、お坊さんを先頭に、父、祖父、叔母、母、弟、私の順番に並んで歩いた。昨晩の雨の影響で、山の中でまともに整備されていない道は泥だらけで、黒いパンプスの踵は沈むし、黒色が泥色に汚れていくのが不快だ。
伸びっぱなしの雑草。枝を切らないから、通路にまで邪魔してくる木々の葉。全てが邪魔くさくて、手で払いながら、我が家の墓を目指して歩いた。
山の中にある墓といっても、お寺の敷地内にあるので、時間は大してかからない。すぐに、目的の佐藤家の墓に辿り着いた。
ついにお別れの時がやって来てしまったのだと思うと、お坊さんのありがたいお言葉も、お経も耳にも頭にも入って来ない。お寺に足げなく通っていた祖母からすれば、罰当たりだと怒られてしまいそうだが、当人は骨となって叔母に抱えられているので、叱られないで済んだ。
お坊さんのお経が読み終われば、私達にお墓の前を譲った。
骨納めをしてください、ということらしい。
私はその時、生まれて初めて、お墓のどこに骨が入っているのかを知った。
線香などを添える石を引けば、そこには深い穴が存在している。そこに骨を収めるのだ。
お坊さんを除く六人で、丁寧とは言えない動作で、順番も無く、其々が祖母を手に取って、小さな穴に押し込んでいく。それが些か衝撃的で、それでいて悲しみがよぎる。
乱雑な行為で行われて、人間の最後は終わるのだと、そう思ってしまう。
この穴の先からは、別の世界がある。この世とあの世の境目のように思えた。あの世への入り口に、ばあちゃんを入れていけば、一緒に、少し遠くに連れていかれるような感覚がした。
「骨は軽いね」
隣に居た弟がポツリと言った。
「そうだね」
と、淡々と答えた。
実は、ばあちゃんの一部は私が持っているんだ。骨は簡単に指で押しつぶせて、粉々になるんだよ。なんてことは、言う勇気などなかった。
死んで先祖の誰のだか分からない骨に混ぜられて、土に還って、狭い墓の中に押し込められる。これが、人間の最後なのだろうか。そう思うと、なんだか寂しいという感情が湧き上がってしまって。
粉々になってしまったものも、墓の中に入れていく。最後まで、手で掬って、サラサラの骨を穴に入れていたのは私だけだった。
「以上で骨納めは終了となります」
お坊さんに一礼をして、そのまま私達は山を下りた。行きと変わらず、地面はぬかるんで歩きにくいったらありゃしなかった。
だが、祖母を抱えていた叔母は、行きよりも帰りの方が身軽に、足取りを少し軽くして歩いている様子を見て、少し気分は悪くなった。決して、口にすることも、顔に出すこともないけれど。
そこからはあっという間だ。東京からわざわざやってきた叔母は、靴を少しきれいに磨いてから、そのまま我々が車で駅まで送って、電車で帰っていった。
私達も家に帰る。祖母がずっと陣取っていた仏間は、以前のようにこざっぱりとしていた。
数十日だ。祖母が床の間にいて、こちらに笑みを見せて、窮屈な箱の中にいたのは、数十日の景色だったはずだったのに、酷く寂しい景色に見えて。全てが片付けられたこれが、今までの普通だったのだと、自分に言い聞かせた。
そんな寂しい景色を見るのも嫌で、自分の部屋へと戻った。
「姉ちゃん、良い?」
喪服から部屋着に着替え終えて、ベッドに腰かけてスマホをいじっていた時、扉の外から声をかけられた。
どうぞ、と許可を出せば、同じ様に服を着替えた弟がいる。弟はもう一泊してから、東京に戻る予定だ。
丁度本棚で隠れる位置にあるベッドに座っていたから、彼は私がどこにいるか一瞬分からなかったのだろう。こっちだよ、と声をかけて、座椅子にどうぞと促せば、弟は座椅子の上で胡坐をかいて座った。
「大丈夫?」
弟にこう問われたのは、お骨上げの時と同じだ。
「どういう意味で?」
「なんか、姉ちゃんが、ずっと笑ってるから」
あらら、と声を零して、口元に手を添えた。
案外バレるものである。ずっと共に暮らしていた母たちは、実家で暮らしている私の笑顔くらいしかあまり見ていないだろう。あとは寝起きの機嫌の悪い顔か、それくらいで。泣き顔など、もう数年も日常生活では見せていない。だから、ここ数日が笑顔でも、きっと違和感はなかったのだろう。
叔母たちは、会う頻度が少なすぎる。だから、私が笑顔で接していても、何も気に止める事はないだろう。
だが、弟は、きっと、私の表情の変化をよく知っている。今までの私だったら、笑ってるはずがないと。
幼いころから共に居て、遊んで、共に生活をして。何度も喧嘩もしたし、共に泣きじゃくったし、馬鹿みたいに笑い合いながらゲームをしたり、互いの学校生活なども知っていた。
それになにより、この子は優しい。
弟は、いつも優しい人だった。確かに、私と似て興味ないことにはとことん無関心だけれど、優しい人だ。私が精神的にまいっている時、弟は私を見捨てなかった。普通だったら、縁を切るかもしれない無様な私を、それでも変わらず姉と呼んでいた。普通に接してくれた。それにどれだけ、私が救われたか知らないだろう。
それが、少し眩しい。私はきっと、貴方の様にはなれない。ずっと、過去が背中に張り付いている。
自身の幸福が許し難い。この世が地獄と知った時から。
「大丈夫。それより、お供え物、持って帰るの決めた? どうせメロンだと思うけど」
「そんな話してなくね? まあ、メロンなんだけど」
「はは、昔から変わらないなあ……ねえ、黄泉戸喫って知ってる?」
「よもつへぐい……聞いたことはあるけど」
急になんで? と問いかけてきて、軽く説明をする。昔から変わらない。私が「知ってる?」と問えば「知らない」と応えられて、私が説明する。
簡単に説明すれば日本神話の話で、『あの世のものを食べると、この世に戻れなくなる』というもの。例え生きたままあの世に行けても、黄泉のものを食べればそのまま黄泉の国の住人にされること。
「お供え物って、それに入ると思う?」
「急に怖いこと言うなよ。だったら、ほとんどの人間死んでんじゃん。だから違うでしょ」
「確かにそうだ」
はは、と笑みを浮かべる。弟は少しだけ私の方を真っ直ぐと見てから、そっと口を開いた。
「姉ちゃんは、死者のモノを食べたの?」
ちゃり、と首元で音がする。私の胸元で主張する物を、こっそりと服の中に隠している。
ゆるり、と笑みを零した。
「そうだよ。喰べたの」
忘れてはいけないから。そんな私は許せないから。自分の後悔を忘れない様に。一緒に居られるように。
あの日、大好きだった祖母の骨の前で、骨を砕いた時に誓った。
粉にならなかった、骨を一つつまんで、そっと、口元へ運び。
骨を呑んだの。
*
前職を辞めてから約半年後。梅雨が明けるのを発表された真夏への一歩手前で、私は本屋に就職した。ブランクのあった数ヶ月間、私は毎日死ぬことばかりを考えていた。
けれど、どうしてもそれを実行に移すことが出来なかった。私が思っているよりも、人間は死というものを恐れる生き物らしい。いくら死に方を調べても、怖くて実行できなかった。それに、これ以上親不孝をするわけにもいかないと、最後の良心が訴えてきた。
それじゃあどうしようかと思っていた矢先に、ハローワークの人に、本屋の求人はどうかと勧められたのだ。
最初は、また派遣に戻ろうかと思っていたが、派遣元からの電話は来ないしで根詰まっていたのだ。それに、そろそろ退職金配布期間も終了してしまう。
祖母の介護目的に仕事を辞める、という言い訳で仕事を辞めてから、もう半年が過ぎようとしているのだと、ようやくそこで気が付いた。
家ではもう、私の手を貸す必要のある相手はいない。それぞれ、元の生活へ戻ろうとしていた。それなら、私も元の生活に戻ろうと動かないといけない。そう、思い込ませた。必死に自分を鼓舞して、震える脚を叩いて、頬を叩いて気合を入れていた。
それに、本屋は良い。元々本は好きだ。小説も漫画も、雑誌も。本に囲まれて働けたら、少しは気でも紛らわせられるかもしれない。本屋は肉体労働でもあると聞いたが、身体を動かせば、余計なことも考えないでいいだろう。もし合わなかったら辞めてしまえば良い。
それで私が救われたかと言えば、まあ、救われたと周りは言うかもしれない。
「所属する場所」「自分を認めてもらえる場所」が無くなったことが無性に不安だった私は、がむしゃらに働いた。
思った以上に肉体労働だし、ずっと忙しいし覚える事も多い。身体は少しきつかったけれど、精神的には良かった。怖い先輩や、たまに気の立ったお客さんはいるけれど。目に見える努力は認められやすい。仲間と他愛ない会話をしながらも、私は日々働いた。
私は祖母に未練などありません。私は仕事に専念します。
誰に誓っているのかは分からない。神かもしれないし仏かもしれない。はたまた、別の誰かに向かって、片腕を挙げて宣誓して、大丈夫だと思いこませたかったのかもしれない。
真っ黒な髪はいつでも一つに引っ詰め、背筋を伸ばして、平均よりも高い背を曲げない様に歩いた。新刊を乗せた重い荷台も一人で運んだ。レジでは率先して対応した。雑用も何でもやった。そう上手くやっていた筈だ。暇さえあれば話題の本や漫画をチェックして、本の配置場所も必死に頭の中に叩きこんだ。
それでも、昔からずっと私の心を占めていて、私の存在する場所だったあの人の存在はあって。
家庭の医学、家庭内介護、エンディングノートの作り方。生死に関するスピリチュアルな本。それらが陳列している棚に目を向けるのは、少し勇気が必要だった。私の意思に反して涙がこぼれたが、誰も居ない事が幸いだった。
何もかもを放りだして、道路に飛び出してしまいたいほど、つらかった。
それでも、次の日はやって来る。
本日はきっと厄日だったに違いない。
世の中はすっかり夏模様になり、世間ではお盆休みと言われる週に入った日のことだ。
何より人の出入りが多いし、子供の宿題の為に文房具エリアに置いてある大量の絵の具や画用紙を一気に持ってきたり、ケチをつけるお客様も多かったし、レジを打ち間違えて計算をミスしちゃったり、本の陳列作業で一番上の棚に置いてあった本が頭に落ちてきたり。先輩には無慈悲に怒られるし。
顔に作り笑顔を張りつけながら、泣く泣く一人で仕事をした今日を、厄日と呼ばずしてなんと呼ぶ。いいことなんて一個もなかった。
はあ、と溜息を吐きながら台車を押して、何とか覚え始めた店内を歩き回っていた。
すると、遠くから、誰かが誰かを呼ぶ声がした。気になって目を向けてみると、一人の老人がこちらの方へ駆けてくる。
「はるちゃん、はるちゃぁん……」
どう考えても私に向けて駆け寄ってきている。
「え? 私?」
そう問う前に、老婆が床に爪先を引っかけて、倒れそうになる。慌てて受け止めてみれば、軽くて小さい身体の全体重が私に寄り掛かる。
軽い、とは言ったが、駆け寄ってきた時の勢いも相まって、ずしりとした重さを感じた。背丈は、私の祖母と同じくらいだった。
「だ、大丈夫ですか?」
「駄目じゃないの……はるちゃん……」
私にしがみついて、涙を流す老婆。見知らぬ名前を呼びながら、私の服を握りしめ、泣きついてくる。
老婆の涙が、シミとなって作業着であるエプロンに模様を作った。
「勝手に出かけちゃだめって言ったでしょぉ……良い子で待ってたら、アイス買ってあげるって言ったでしょぉ……」
まるで幼子を宥めるような、優しくしかるような言葉遣い。
そんな言葉を向けられて、自然と思考がぐるぐるとしはじめた。
必死に『はるちゃん』と呼んで、私に泣きついてくる老婆。自然と、私のばあちゃんと重なって見える様な気がした。
それとも、重なって見えたのは、気の迷いだったのか。
しがみついてくる老婆の背中に、そっと手を添えて、優しく背中を撫でた。
ぶかぶかの服の下には、老人特有のほっそりとした、体の固さを感じた。
「すみません、ご迷惑を……!」
新たに謝りながら人が駆け寄ってきた。しわしわの顔面に、薄くなってしまった頭皮の男性。老婆の旦那さんだろうか。
何度も私に向かって頭を下げてから、老婆の手を取って、ほら帰ろうと促す。男性に手を引かれて、老婆は名残惜しそうに私から離れ、何度も、何度も『はるちゃん』と呼んでいた。その手は、空を切って何も掴めずに、けれど縋りつきたいと必死に訴えてきているようだった。
「ごめんねえ、はるちゃんごめんねえ」
何度も謝る老婆を見送っていると、店内にいた先輩達がこそこそと声を零す。
どうやら状況をずっと眺めていたらしい。何をするわけでもなく、私を助けることもせず、ただ眺めていたのだろう。こういうところが、この職場を好きになれない要因だ。
「鈴木さんとこの……」
「ああ……」
「この前、お子さんを事故で亡くしてから、若い子に対してああらしいよ」
「相当ショックだったんでしょうね。かわいそうに」
先輩達の言葉の内容を聞いて、あの老婆の謝罪と必死さと寂しさからくる行動に、納得がいくような気がした。
大切な子だったのだろう。大人という枠に入る私にですら縋って、泣いて、謝って。
かわいそうに。
その言葉が、身体をうねらせながら入り込む蛇のように、胸の中に住み着いた。
「そう、か……かわいそう、なんだ」
大切な人を失った人は、かわいそうになるんだ。
プツリ、と蛇に何かを噛み千切られたような、そんな感覚がした。
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