07

 その日は朝から胸騒ぎがした。何故だかは分からなかった。

 けれど、母と父が二人で病院に行くとき、私も行きたいと思った。それを口にしたけれど、病院への立ち入り人数は制限されている。私の案は却下され、私は胸騒ぎを覚えながら、部屋に籠っていた。


 高齢の知り合いが多く、過去の仕事で介護をやっていたが、私は自然と、身内の死など遠い存在だと思っていた。

 その考えが崩されたのは、私が短期大学で地元から離れていたころ、母方の祖父が亡くなった。祖父は、私を一等愛してくれていた。何かあれば、すぐに「もとちゃん」と気にかけてくれた。身内全員からも認められるほど、愛を私は貰っていた。

 電話越しで祖父の死を知った時、浮世離れしたような心地がした。

 どうせ冗談でしょ、本当はまだ元気なんでしょう?

 そう、中々現実を受け止める事は出来なかったが、自然と涙は零れた。脳は理解をしていたけれど、心は受け入れていなかったのだ。

 私がなぜ地元に戻ったのか。それは、また誰かの死に目に間に合わないかもしれない、という考えがあったからだ。他人には言えない。けれど、私からすれば大切な理由なのだ。

 好きな人や大切な人は漠然と、明日も明後日も生きている気がする。当たり前のように生きていると信じてしまう。それは、ただの願望でしかなくて、絶対だと約束されたものではないのに。


「もと、病院行こう」

「え? 何で」

「なんか、ばあちゃん体が痛むらしくて。だから麻酔入れるから、念のために」

 言いたいことは分かった。あれほど弱った祖母に麻酔を入れれば、そのまま眠りについてしまう可能性があるかもしれない。だから、顔を見せに行こう。そう言いたいのだ。

 分かった、と頷いて、慌ててマスクを持って、靴を履く。

 その一つ一つの動作にもたついて、自分で自分に腹が立つ。早く行きたいのに、という焦りが膨らむばかりだ。

 車の中でも、ずっと、胸騒ぎは収まらなかった。


 病院に辿り着いた時、どこかの部屋から電子音が大きく響いているなと思ったのだ。その時点で、胸騒ぎは嫌な予感へと変貌していた。

「ああ、来ていたんですね。先程電話をしたんです。早く早く!」

 電話をした。それはつまり、容体が変化した事なのだとすぐに察した。

 言葉に嫌な予感と同じ種の悪寒が背中をすごい勢いで走って、小走りで祖母の病室へと率先して突き進んだ。

 がらり、と勢いよく扉をスライドさせて、飛び込むようにして一人病室に入った。その時だ。


 ぴ―――、と、無機質な電子音が響いた。


 こんな音、私はドラマでしか聞いたことは無かったし、こんな光景もドラマや漫画でしか見たことは無かった。

 一つの機械からコードが伸びていて、それは祖母の身体に張り付けられていて。鼻には呼吸用のホースが入っていて。口はぽかりと開かれていた。最後に出会った時よりも頬はこけていて、髪の毛も少し少なくなっているようにも見えた。きっと、ずっと横になっていたから、髪の毛を盛ることが無かったからだろうとすぐに結論付けた。

 そんなこと、より、だ。

 依然、機械は無機質に音を鳴らし続ける。私が放心していたのは、ほんの一瞬だったのかもしれない。

 そろり、と祖母の顔元に近寄った。

「ばあちゃん?」

 いつも通り、少し甘えたような、ゆったりと、砂糖をどろどろに溶かした様な甘え声で名を呼ぶ。この声で呼ぶと、ばあちゃんはにこにこと笑みを浮かべて「どうした?」と聞いてくるのだ。

 だけど、いつもの甘え声を出しても、彼女の表情は全く動くことは無く、祖母のポカリと開いた口から空気が漏れる事も声が零れることも無かった。


 彼女は、二度と私の名を呼ばないのだ。二度と私に触れる事はないのだ。私を甘やかすことはないのだ。二度と、私の事を考える事はないのだ。二度と、その体を動かすことはないのだ。


 一瞬で全てを悟ってしまった。そして、一瞬で全身の血の気が引いて、床に全身の血が滝のように落ちた気分がした。

 きっと私の足元は血だまりが出来ているのだろう。

 足を一歩踏み出せば、ぴちゃり、と水音がした……なんてことはなく、こつり、と靴と病院の床板がぶつかる軽い音が響いた。

 自分の中ではぴちゃぴちゃと水音がしている中を歩き続けて、祖母の元まで歩みを進める。

 近づいても、彼女は一向に私を迎え入れてくれなかった。

「ばあちゃん」

 小さく、名を呼んだ。返事は当然のことながら、無かった。

 彼女に、無視をされた。生まれて初めての経験だった。

 声は、少し震えていた。周りの人には聞こえなかっただろうか。私の震えがばれなかっただろうか。

 人間、死んでも数分間、聴覚は生き続けると聞いた。本当かどうかは知らない。だって、私は死んだことはないから。立証は出来ない。だけれど、その言い伝えに賭けてみようと、思ったのだ。

「ばあちゃん来たよ。ありがとう」

 そ、と祖母の頬を撫でる。私の最後に見た祖母よりずっと骨張っていて、肉なんてどこにも無い様に見えた。小さく笑みを浮かべても、祖母は笑い返すことは無かった。


「とみさん、これからお孫さんが来ますよ~って声を掛けたら、もとちゃんが来るって言って喜んでたんですよ」

 看護師の言葉を聞いて、私の目はゆっくりと開かれた。

「そっか、アンタを待ってたんだね。アンタが来たから安心したんだ。アンタも間に合って良かったね、やっぱり運が良い」

 母がほんのりと笑みを浮かべていうものだから、私は彼女達の方に目を向けて、ゆっくりと目尻を下げた。

「そうかなあ。だと良いな」

 父と祖父を呼んでくる、と母と看護師が退室すると同時に、再度祖母の傍による。指の背で、ゆっくりと、目元から顎のラインに沿って撫でる。人間って、すぐにここまで冷たくなるのかと、脳ははっきりと受け入れた。

 今度は頬に添えるように手のひらを当てる。私の熱が、伝わらないかな。私の熱が伝わって、もう一度、祖母に体温が戻らないかな。そんな夢物語のようなことが脳裏に浮かんだ。


 吐き気がした。周りが良い話のようにまとめている。言葉の数々に、吐き気を感じた。


 運が良い、なんでそうなるのだろう。間に合っていないのに。


 なんで素直に、周りと同じ様に思えないんだろう。そうだね、良い話だねって終われなかったんだろう。

 あと数日前にでも、一人でも良いから面会に来ていれば。あと半日、両親を押し切って無理にでも一緒に会いに行っていたら。あの数分、家を出る前に手間を取らなければ。あの一瞬、踏み出す一歩が早かったら。

 知っている、意味の無い妄想だ。心に余裕がないだけだ。

 それでも、私が家に居る時、もっと一緒に居たら。


 ばきん、と何かが砕けるような音が心の中から響いたような気がして、びしゃびしゃと大量の血が零れ出て、私の足元を濡らし、どんどんと私を沈めていく。

 心臓が痛い。心が苦しい。息が苦しい。まともに酸素を取り入れられていないんじゃないかと思う程。


 どうして私はいつも、大切な人が死ぬとき、傍に居てあげられないのかなあ。

 逃げてしまいたい。もう、終わりたい。このまま、祖母と一緒に死んでしまいたい。消えてしまいたい。


 ふと、祖母の荷物の傍らに、私が貸した本が置いてあったのが目に入った。途中で、しおりが挟まれている。

 じわじわと、胸が熱くなってきて、目頭が熱くなってきて、色々な感情と共に涙が出そうになる。

「のろいだ。私を待っていた、というのろいだよ」

 ぽろり、と左目から一粒の涙がこぼれた。

「私は間に合わなかった。私は、間に合ってなんかいない。待たせて、会うことが出来なかったじゃん。最後に、『もとちゃん』の顔を見せる事が出来なかったじゃん。大好きだったって、直接言えなかった……!」

 ぽろり、ぽろりと右目も左目も、どんどんと涙が零れ出てきた。

 一番自分が後悔しないようにと選んで来たはずの道なのに。

「私は一生、死ぬまでこれを後悔する。あの言葉は、のろいだ」


 亡骸を外に運ぶには移動許可書が要る事を、生まれて初めて知った。

 自宅に帰ってきた祖母を迎え入れて、葬儀場の人と二日間にわたって色々と相談をして、式場の確保と式日などを決めた。火葬場の許可などは向こうがやってくれるらしくて、案外私達が混乱するほどの手続きを一気に行う事は無かった。

 私が決めたのは、祖母の遺影の写真を選ぶこと。遺影写真の合成用の着物と背景の色と額縁を選ぶこと。全部私のセンスに任された。

 事あるごとに、両親が「祖母が一番溺愛していた」と私を紹介していたからだ。私は、祖母が一番映えるであろう紫色の着物と、クリーム色の背景、ベージュ色の額縁を選んだ。家にある、曽祖父母の遺影とは比べ物にならない程、華やかに仕上がる予想である。

 両親たちは満足そうに頷いた。私のセンスに任せてよかったなと頷いた。

 私の成人式の着物は、紫色だった。祖母が選んだ色である。紫か青かで悩み、柄も沢山の種類が合って悩んでいた。いくつかの候補の中で、着物が大好きだった祖母が、これが一番可愛くなれるよと勧めてくれた。案の定、私にはピッタリと合っていたような気がして、メイクの効果もあって、ある程度はきれいなお姉さんになれただろう。

 だから、最後くらい、おそろいでいたかった。私たちは仲良しだったのだと、誰にも気づかれない程度で自慢してやりたかった。


「……目の前に居るのに、まだばあちゃんが亡くなったって気分がしない」

 仏間には、祖母が横になって眠っていた。肌触りの良い白い敷布団の上で横になり、白い布団を被り、白く薄い布で顔を隠されている。

 一日絶やすことの無い様にと用意された、まるでアロマキャンドルのようなサイズのろうそくに、蚊取り線香のように渦を巻いた線香。線香のにおいが漂う此処は、住み慣れた実家とは違う家のような気分にさせる。

 仏間の襖を全開にして、居間と一室にさせ、私は居間のこたつで一夜を明かすことにした。

 祖母と同じ空間で寝るだなんて、それこそ何年ぶりだろう。一人で寝始めたのは小学生だから、下手すれば二十年近いのかもしれない。

 小さい頃、私は両親と寝る事は滅多に無く、祖父母と共に寝ていた。両親と寝たこともあったのかもしれないが、記憶には無い。両親の間は弟のもの、という認識が強かったのだ。両親と一緒に寝る事を弾かれた私を、祖母が私を誘って、一緒に寝るようになった。

 この家はリフォームをしたのだけれど、建て直す前は、祖母と祖父の間に挟まって布団で寝ていた。建て直したら、二つのベッドをくっつけて、また祖母と祖父の間に挟まって寝ていた。

 私の寝相は、とんでもなく酷くて、じいちゃんの顔は蹴るし、ばあちゃんにも被害がいっていたらしい。

 少しだけ思い出し、ふふ、と小さく笑って、手を合わせて、小さく謝ってからばあちゃんの顔を隠していた白い布をとった。表情は変わっていなかった。あれだけ、表情豊かな人だったのに。

 ぱしゃり、とスマホで写真を撮った。

 もっと写真を撮っておけばよかった。遺影を選ぶときに、あまりの祖母の写真の少なさにビックリした。もっと元気だったころや、入院する前の祖母の写真も、全部、全部、撮りたかった。

 この空間に私と祖母しか居ないことをいいことに、ぼろぼろと涙をこぼし、乱暴に手の甲で拭った。祖母との過ごしてきたあの日の事やらこの日の事やらが浮かんできて、いくらでも涙が零れてきて仕方が無かった。

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