06

 祖母が再び入院をした。人工肛門をつけるためだ。

「入院している時、テレビもあまり面白くなくてね、つまらないんだよね」

「それじゃあ何か暇潰しのものでも持ってくる?」

「うーん……」

 確かに、過去の入院期間の事を思い出せば、ずっとベッドの上に固定されて、携帯も持っていない祖母にとっての暇つぶしのアイテムは、テレビしか存在していなかっただろう。テレビも、祖母はバラエティなどはあまり好まないので、そうなると本当に寝ることくらいしか時間を潰せない。

 何か持っていく? と問えば、祖母は少し考えてから首を横に振った。

「やっぱり良いかな」

「折り紙は?」

「出来ないんだよ」

「裁縫は?」

「作り上げるのは得意じゃないんだ」

 祖母の言葉に、そっかあと薄く笑みを浮かべてはいるが、少しだけつきりと胸が痛む。紙で指先を切った様な、あの痛みに近かった。

 私自身は指先が不器用で、折り紙も裁縫も大の苦手。家庭科のエプロン制作は家に持ち帰って、母が作り上げた。

 けれど、そんな私でも、折り紙では鶴はどんなに小さい紙でも折れるのだ。それは、幼い頃に祖母から教わったからだ。それを、祖母はもう覚えていない。

 裁縫も、幼い私と弟に浴衣を縫っていた。生地から選んで、私達に着せたがっていた。他にも着物は何着か縫い上げているし、私の家庭科の先生でもあったのだ。けれど、それも忘れてしまったのだろうか。

 優子との言葉を、ふと思い出した。知っている人が違う人になっていくような、そんな感覚がしてしまうのだろう。今なら、慰めの言葉も、もう幾つか浮かぶ気がした。

「ああ、でも、本は好きだ」

「ばあちゃん、本読むんだ」

 そんな姿など一度も見たことは無かった。祖母の部屋には、着物や浴衣や裁縫道具はあるものの、本など一冊も存在していなかった。だからこそ、この家の中で本を進んで読むのは、好んでいるのは私だけだと思っていたのだ。残りは全員、本を読むという行為を好まない。

「そうだよ。実は好きなんだ」

 祖母は中卒だ。彼女の年代、八十代からすれば珍しいことでもない。兄弟も多い彼女の家庭では、全員が高校まで進学するのは難しいことだろう。今では大学卒業までが当然のような学生の流れが出来上がってしまっているが、彼女の年代からすれば、高校に行って勉強するのも大変だったのだろう。

 祖母は、自分で自分の事を馬鹿だとおっしゃる。だからこそ、本を読むという行為が、頭のいい人の贅沢な事のようだと考えていたらしい。

「馬鹿な私が本を読んでもねえ、って思うんだよ」

「……本は誰が読んでも良いものだよ。そっと寄り添ってくれるものだと思う」

「そっか」

「何か本、貸そうか」

「それじゃあ、もとちゃんのお気に入りの本でも借りようかな。でも、読むと疲れるんだよなあ」

「分かる」

 最後の言葉に同意すれば、二人揃ってくすりと笑みを浮かべた。

「暇でしょうがない時とかに読んでよ。返すのは何時でも良いし」

「ありがとうねえ」

 鞄に入っていたお気に入りの本数冊を見せて、お好きなのをどうぞと差し出せば、祖母は一冊を手に取った。私が一番気に入っている、思い入れのある本だった。

 お客さんお目が高いですね、なんて言えば、ばあちゃんはけらけらと笑うのだけれど。

「よおし、ばあちゃんが入院している間に、私も仕事辞めるために、がんばるぞお!」

「おお、もとちゃんがんばれ」

「うん!」

 ぐ、と拳を握れば、祖母も同じポーズをし応援してくれた。何だか背中を押されたような気がして、自分の答えは間違いではないのだと、肯定されたような気分がした。


 そして祖母が入院をした同時期に、私は派遣の担当者との話し合いの末、仕事を辞める事となった。

 最初、担当の人には色々と問われたものだ。どうして辞めるのか、辞めた後はどうする予定なのか、など。私は、なんて答えるか悩んだ。そして、祖母の言葉に、私は甘えた。

 『祖母の体調が良くなく、介護に専念したいことが理由としては一番大きい』と。すれば、担当者は「一ヶ月ほどの休みを貰うとかではだめなの?」と問い返す。まさかそう返されるとは思わなかった。こちらからすれば辞める気満々で居たのだ。視線は泳ぐし、上手く返答も出来ない。

 どうしようかと悩んでいれば、担当の人は小さく息を吐いた。

「それだと、辞めた後が大変かもよ?」

 その言葉の中には色々な意味が含まれていただろう。介護と称して辞めるなら、長期仕事をしない期間が出来てしまう。それは、再就職では些か不利である。

 それに、上手く返答が出来ない私を心配しているのもあるのだろう。ハッキリと理由を述べられない私に、少し苛立ちもあったのかもしれない。

 それでも、私はもう、ここでは働きたくなかった。

 理由など本当に沢山ある。けれど、それを口にしたところで、きっと、また「だったら」とか「どうせ」とか続くのだろう。そう思うと、どうも理由を口にすることは出来なかった。

「……分かった。それじゃあ、次の更新は無し、ということで。担当部署の方々に伝えておきます」

「……ありがとうございます」

「皆にも言っておこうか?」

 皆、とは同期達の事を言っているのだろうとすぐに察した。

 きっとこの人は、辞める理由の一つに人間関係があるのだと察している。だからそう提案したのだろう。優しさなのか、それとも小馬鹿にしているのか、挑発しているのか。

「いえ、皆には私が言います」

「分かりました」

 それで終了。あっという間の時間であった。

 過去の職場でもそうだったけれど、入るのは本当に苦労するのに、辞めるのは本当に一瞬だ。まるで人間の一生のようにも思えた。生まれるまでが大変で、死ぬのは一瞬。何でもそうなんだろうな、とぼんやりと考えた。


 同期に次の更新はしないことを告げれば驚かれて、理由を聞いてきた。

 一緒に仕事をするのが難しいと思ったから。なんて言う事も出来ず、私は「祖母の介護に専念したいのだ」と半分の嘘を言えば、同期は納得してくれた。

 仕事を辞めるのは十二月。職場の仕事納めは二十六日。それまで、私は溜まっていた有休を全部、十二月の二十六日以外に当てはめた。それに反対する者は、誰も居なかった。それが、何だか自分はあまり必要とされていないような気分がして、ほんの少しの寂しさが過った。

 十二月に入るまでに、引継ぎを作っているほうが、今までよりも仕事をしている気分がした。

 

 有休の期間に入ってしまえば、気持ちは楽だった。吐く回数も減った。周りの視線に怯えることも減った。

 祖母の手術は無事に終了し、お腹が突っ張るなどのこともない。手術が失敗することはないと信じてはいたが、問題なく終わったと聞いて、深く安堵した。

 祖母の様子を見に病院へ何度か足を運び、そして人工肛門につける『パウチ』のつけ外しの説明を受け、実践練習を何度か行った。

 気が付けば地面も建物も、真っ白な雪で覆われていた。

 祖母に会いに行き、手術後の人工肛門、ストーマを目にした。手術で腸や尿管の一部を体外へ引き出し、そこから排泄できるようにするストーマは、赤色で梅干しのような見た目をしていた。

 表面は粘膜なので常に湿っているようで、見た目が真っ赤で、内臓を出されているわけだし、痛みがありそうに見えるが、実際は痛覚がないので触っても痛みを感じないようだ。

 括約筋や膀胱を通さずに便や尿を排泄することになるため、便意を感じたり便を我慢したりできなくなってしまう。そのため、自分のタイミングで排泄できず、常にパウチを身につける必要があるのだ。

 何度か練習すれば母も私も板についてきて、いつでも祖母が退院できることを伝えられ、祖母と一緒に喜んだ。


 そして二十六日。私の最後の出社日であり、仕事納めの日であった。私は、最終日をこの日にしたことを心底後悔した。

 まず、久しぶりに出社しても、周りの人からはあまり声をかけられていなかったので、もしかしていなかったことに気付かれていなかったのでは? と、考えてしまうぐらいだった。

 終業時間の少し前に、同期から気持ち程度だけど、と言われてプレゼントを貰う。可愛い袋にラッピングされた一枚のクッキー、それと粉末状でお茶を作れるパック。

 ああ、このくらいか、と思ってしまう私はとことん心が狭いし、酷い人間だと思う。そりゃあ、好かれない。誰からも好かれないだろう。それでも、笑みを浮かべて礼を述べる。最後の姿は、記憶に残るのは笑顔がいい。

 時間になれば、皆が慌てて帰り支度を始める。同期達も慌てて会社から飛び出して行った。じゃあね! と、軽い挨拶で、私達は別れた。

 私への挨拶をくれる人は、部署の上司くらいであり、仕事を手伝っていたグループからは一言も言葉は無かったが、まあそんなものかと軽く諦めた。

 優子達の退職時は、帰りの時間が遅くなるほど呼び止められてずっと話していたらしいのだが、えらい違いだなと帰りに自虐的な笑みがこぼれた。


 二年半だ。

 決して短くはなかったはずだろう。派遣社員の割には、長い方だったと思う。それでも、数年をかけて築き上げたものは、自分の思っている以上に脆くてしょうもない。

 もし今疲れ果てて、倒れたって誰も気付かないだろう。私の二年半は、その程度だったのだ。けれど、仕方がない。それが、私の評価だった。それだけの話だ。

 その日はあいにくの大雪で、車には雪が積もっている。

 最悪、と愚痴をこぼしながら、鞄などを車の中に放り込み、除雪用のブラシを取り出した。軽自動車は背丈が高く、女子の割には身長が高い方に入る私でも、天井の雪を全部落とす頃には、身体の前部分がびしょびしょに濡れてしまった。

 それが何だか変におかしくなってきて。力を込めて、何度も、何度も雪を押し落とす。

 きっと、苛立ちがあったのだろう。それと、とっても醜い嫉妬。

 やっぱり、私は生きるのに向いていない。小さく笑いながら雪を降ろす姿は、大変滑稽であり、異常者に思われたかもしれない。

 それでも、家に帰れば祖母が居る。そんな思いだけで、下手くそな除雪でガタガタになった道を車で走って、横殴りの吹雪の中を必死の思いで家路についた。

 ハンドルは軽く握りながらも必死に運転して、家に辿り着いた。未だに横殴りの吹雪が荒れている。車から勢いよく飛び出して、玄関先で服についた雪を払って、扉を開く。

「ただいま」

「おかえり」

 私の帰宅の挨拶に真っ先に反応したのは祖母だった。雪を払いながらの呟きだったのに、拾ってもらえたことに驚いて、そっと顔をあげれば、玄関に、祖母が立っていた。

 目を開いていれば、祖母はくしゃりと皺を寄せて笑みを見せる。

「お疲れ様、頑張ったね」

 その言葉が聞きたくて、聞きたくて。

 ぐ、と込み上げてきた熱い何かを、拳を握って堪えて、一粒だけ涙を零して笑みを浮かべた。

「うん。頑張ったの!」



 家に帰ってきた祖母は、段々と元気を取り戻した。

 そう記したいのだが、現実はそう甘いものではなかった。祖母に食欲がないのだ。

 最初は退院後による疲労の為かと思ったが、そうではなかったようだ。勿論それも理由の一つではあったようだが、単純に食べ物を摂取しようと思えないのだそうだ。

 帰って来て、最初はおじやを食べたり粥を食べていたのだが、段々とそれさえも残すようになった。最初は一緒に食事をとっていたのに、段々と起き上がって食事をするのもつらくなってきたようだった。

 大晦日やお正月に出た大好物の蟹も、全然食べていなかった。


 それが、私は酷く恐ろしくてしょうがなかった。


 食欲を失った人間は、一気に死へと近づく。それを私は知っていた。

 老若男女、食欲というものは大切で、口の中に固形物を入れて、噛んで、飲み下すという行為が嫌になると、人間の身体とは不思議と衰えていく。

 それが嫌で、ベッドで横になっている祖母の元に、少しの粥と栄養剤、高カロリー摂取の飲み物を渡しに行く。時には、スムージーを作ったりもした。

 けれど、どうやら祖母は甘酒がお気に入りだったようで。流石お酒好き。

 摂取している物が少ないから、排便も多くない。母と協力しながらパウチ交換は三日に一回ほど行ったが、その度に、私は祖母に向かって心の中で謝っていた。何に対してなのかは、分からなかったけれど。

 祖母も、毎度毎度、申し訳ないと口にする。気にすることではないのに。でも、これでお相子だな、そう思うと、少しだけ気持ちは楽になれた。

 そして何より、祖母に対して、恩が返せている気がして、少し気分が良かった。


「もとちゃん」

 夕飯も終え、両親も二階の自室に居る時、私一人で居間に残っていた時、祖母がこっそりと寝室から顔を覗かせた。

 具合でも悪いのかと慌てて立ち上がれば、にこりと笑みを浮かべた。

「甘酒飲んでも良い?」

「え? いいよ!」

 祖母が進んで栄養を摂取してくれるというのなら、それほど嬉しいことはない。私は嬉々と冷蔵庫から祖母のお気に入りの甘酒を取り出した。

「それと、仏間に貰い物のお酒があるんだ。好きなの持ってきな」

「え?」

 いつの間にか腰かけていた祖母の言葉の通り、祖母の甘酒とコップを用意して座卓に置いてから、仏間の奥まで向かえば、確かにワンカップの日本酒が何本か入っていた。誰かからのお中元か、そう言った類の物だろう。好きなのを持って来いと言っていたので、私は自身のお気に入りの酒を手に取って、祖母の待つ居間に戻った。

「こっそりと、一緒にお酒飲まない?」

 なんて魅力的な誘いだろう。私は思わず笑顔になって、こくりと頷いた。

「昨日、誕生日だったんでしょう?」

「覚えてたの?」

「自分で言ってたじゃん。だから、昨日はお祝い出来なかったけど、今日は一緒にと思って」

 確かに、昨日は祖母は寝たきりだったので食事は共にできなかった。

 そんな些細な気遣いが、とても嬉しかった。

「えへへ、ありがとう」

「だから、はい、もとちゃんおめでとう」

「ありがとう」

 祖母が乾杯をするようにコップを傾けてきたので、私もカップを傾けた。カツン、とガラスとガラスのぶつかる透き通るような音がした。祖母が甘酒を飲んでいる横で、私は日本酒を煽った。

 私の日本酒好きは、祖母の遺伝子を継いだと思う。亡くなった母方の祖父も日本酒好きであったので、そちらも大きく含まれていると思うけれど。前までは、大晦日やお正月、弟が帰ってきた時に食べるお寿司の際に、一緒に日本酒を煽ったのだけれど、今の祖母はもう日本酒は飲まない。手元の甘酒も、全然進んでいなかった。

「もとちゃんも大人になったね」

「そうだよ。気が付いたらこんなになっちゃった」

 両手を広げて、自分の大きさを示してみれば、祖母はうんうんと頷いて見せた。

「もうもとちゃんと盆踊りも一緒に出たし、成人式の着物も見れたし、悔いはないなあ。夢だったからなあ……」

「そ、っか」

 しみじみと言う祖母を横目に、ワンカップを口元へ運ぶ。辛口の日本酒が、カッと喉を焼くように通る。それが何だか、泣くのを我慢している時に近い気分がして、自分が泣いてしまっているんじゃないかと錯覚し、目元を思わず擦った。指は全く濡れていなかった。


 本当は、まだまだ未練があるって言ってほしかった。そうしたら、まだまだ生きようと思ってくれると信じていたから。


 だけど、祖母にはもう、未練などないのだろう。だから、日々、毎日、こんなに落ち着いて過ごしている。それが悔しくて、悲しくて、カップを握る手に力がこもった。

「私としては、また一緒に飲みたいから、頑張ってもらわないと」

「そっかそっか! それは長生きしなきゃな!」

 笑いながら祖母は言う。

 けれど、そんな事は無理だと、二人共察していた。けれど、口に出す、なんて野暮な事なんて出来なかった。

 私としては、未練なんていっぱいあるんだよ。


 本当は、祖母と二人旅行とかしてみたかった。二人共方向音痴だから、大変そうだけれど、趣味は合うと思うんだ。旅番組を見ている時に、感動していた場所が一緒だったから。京都とか奈良とか、一緒に行きたかった。一緒にお寺とか巡ってみたかった。

 本当はね、一緒に海外旅行したかった。二人でヨーロッパ行きたかった。ばあちゃんが、ヨーロッパが好きだって言っていたから。私も憧れがあったから。だから、二人で一緒に楽しみたかったんだよ。

 本当はね、ばあちゃんに花嫁姿とか見せてみたかったし、彼氏紹介とか、ひ孫紹介とか、そういうのもやってみたかった。女性の一般的な幸せとされていることも叶えられない私で、ごめんね。

 本当はね、もっともっと一緒に季節を過ごしたかったんだよ。ばあちゃんの作る御餅とか、お汁粉とか、実は好きだったんだよ。今年、食べられなくて、寂しかったんだ。


 祖母の甘酒が全然減らない。それが現実なのだ。


 ごめんなさい、私が医者だったら治せたのかな。私が看護師だったら、家でも点滴とか出来たのかな。介護福祉士まで資格を持っていたら、出来る事はもっとあったはずなのに。

 ごめんね。小さく謝った私の頭を、祖母は優しく撫でた。


 それから数日後。また寝たきりになった祖母がトイレに行く最中に倒れて、病院へと運ばれた。

 感染病が流行っていた世の中で病院へ面会に行くことは容易くなく、私が家の中で最後に見た祖母の姿は、一緒に飲んだあの日きりだった。

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