10_残酷な現実

 私は、桐原のことが……。


 鳶野は桐原に対する思いをしまい込んでいた。いつか、思いを告げる時が来るだろう。だから、今はうちに秘めておこう。


 そう思っていた。


 彼は知らなかった。自分の知らないところで、関係が進んでいることを。


「桐原……」


 ある日、鳶野は、前を歩く桐原を見かけて、声をかけようとしたが、止めた。彼より先に男が桐原に話しかけたからだ。


 誰だ。あの男……。


 男と話す桐原は、とても幸せそうだ。


 彼女は幸せそうなのに。


 彼女には幸せでいてほしいと望んでいるのに。


 なんだこの胸を締め付けられるような感情は。


 鳶野が、そんな幸せそうな二人を見ていると、桐原が後ろにいる彼に気がついた。


「あっ、トビちゃん!」


 いつもと変わらない彼女の声がした。相変わらず元気のいい明るい声だ。


「ああ、悪い。二人で楽しんでいるところ邪魔してしまったようだ」


「そんな別に邪魔なんかじゃ……」 


「この男の人、何?」


 隣の男が、桐原に問いかける。


「鳶野さん、同じ影隠師の仕事をしているの」


 桐原は、男に答えた。


「そうか、この人が影隠師の鳶野さんか。桐原からは君のことを聞いているよ。とても優秀な影隠師と聞いているよ。私は、久留貴一くるきいち。よろしく」


 久留は、鳶野に微笑みを浮かべながら手を伸ばした。突然、手を伸ばされ鳶野は戸惑ったが気持ちを切り替える。


「ああ、よろしく」


 鳶野がそう言って久留の手を握った直後。


 ぐぎぎぎぎ。


 久留は、鳶野の手を強く握りしめる。


 思わず、鳶野は、突然の悪手に顔をゆがめ声が出そうになったがなんとか耐える。


 痛い。痛いぞ。


 こいつ……敵意剥き出しじゃないか。


 久留は、明らかに故意に強く握りしめていた。彼は、微笑みながら鳶野を軽蔑けいべつする目で見ている。


 くそ、このままやられっ放しなんて勘弁かんべんならない。


 そっちがそう来るなら、こっちもやってやる。


 負けずと、鳶野は久留の手を強く握りしめた。


 ギギギギギギ。


 お、押し負ける……。


 馬鹿な。そんなことが。


 人並み外れた力だ。


 一体、どうなってるんだ。


 鳶野は本気で強く握りしめたが、久留の手はびくともしない。久留は、平然な顔を浮かべて、相変わらず微笑みを浮かべている。


 表情と行動が合ってないんだよ。


 怖すぎる。


「無力だね……」


 動揺している鳶野に、追い討ちをかけるように久留は、そう一言ささやいた。


 心の奥底まで鋭く突き刺さるような声だ。声を聞いた瞬間、身の毛がよだった。言い返す気にすらならなかった。


「桐原、そろそろ行こうか」


 鳶野が怖ばり動けなくなっている中、久留は桐原とともに彼から離れていく。


 桐原が、私のもとから去っていく。


 あの男と一緒に。肩を寄せ合いながら。


 遥か遠く、私の手の届かない場所へと行ってしまう。


 そんな底知れない感情がこの胸にどうしようもなく染み渡った。


 このまま、二人は離れていなくなると思われたが、久留は一度、立ち止まると、残酷な現実を告げる。


「ああ、言うのを忘れてたよ。私たちは一週間後、結婚するんだ。良かったら君も結婚式に来てくれると嬉しいよ」


 ああ、どうして希望を持ってしまったのだろう。


 希望は、簡単に打ち砕かれる脆いものであると知っていたはずなのに。


 世界は理不尽なんだって、都合良くはできていないんだって知っていたはずなのに。


 どうして、私は……。


 ふと、桐原の笑顔を思い出した。彼女に対する感情が湧き上がって、彼女の名前を叫んだ。


「桐原!!」


 だけど、叫んだ先には彼女はいなかった。すでに彼の見えないところに行ってしまっていた。彼女のいなくなった場所を見て、彼は悲しい表情を浮かべる。


 そうだ。いつからか、桐原のことを私は……。


 私は、好きになっていたんだ。


 そばにいてほしいと思うようになっていた。


 鳶野は悔しさで拳を強く握りしめる。皮肉にも、そんな彼の上空には、真っ青な空が広がり、燦然さんぜんと太陽が輝いていた。

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