リトルラフレシア
浅野ハル
第1話
私は私の鼻のことをリトルラフレシアと呼んでいる。
私の鼻は生まれつき不思議な形をしていた。
歳を重ね、成長するにつれて存在感が増していくこの鼻を、私は特別な意味を込めて頭の中でそう呼んでいる。
小学生の低学年の頃までは特に気にしていなかった。友達からカピバラに似てるねと言われた時はあの可愛いキャラに似ているなんて嬉しいと思った。
両親は私のことを世界で一番可愛い子と言ってくれた。あなたは特別よとも言ってくれた。私もそう思っていた。
高学年になり、他の人と自分の鼻があまりに違うことに違和感を覚えるようになった。
みんなの鼻は私の鼻よりも小さく控えめだった。当時みんなが夢中だったアイドルグループの人たちの鼻は皆一様に高く細く整っていた。
学年で一番人気の子の鼻はそこまで高くはないけど細くてシュッとしていた。
その頃から友達だと思っていた子が話してくれなくなった。
クラスの目立つグループの人たちが私の近くで、世界に一つだけの花を大声で歌いだしたことがあった。花の部分をわざと強調して歌い、みんなが笑っていた。サビのところでそのグループの一人が私に向かってマイクを差し出すジェスチャーをしてきた。
私は「ごめんなさい、初めて聞いたわ。良い曲ね」と言ってやった。
後日ホームルームで先生からイジメに関するアンケートが配られた。
私は何も書かずに提出した。
先生は「個性を大切にしましょう」と言っていた。
私は教室の片隅で無意識に鼻の輪郭を確かめていた。
誰かが私のことを豚鼻と呼んでいることに気付いた時には、私は私の鼻が人のものではないのだと知り驚いてしまった。
どうせなら自分で名前をつけようと思った。
ユーモアを込めて、リトルラフレシアと命名した。図書室で植物図鑑を読んだ時に見つけたあの毒々しい花。小さな、世界で一番大きな花。私だけの花。
中学生になって国語の授業で芥川龍之介の「鼻」を学んだ。
内供が自分の鼻を茹でるところでクスクス笑いが聞こえ脂を取るところでオエッとふざける声が聞こえた。
クラスの至る所から私に向けての視線を感じた。これは私の話なのかもしれないと思った。
私は鼻を治したいのだろうか。そもそも治すってなんなのだろうか。治した鼻は私の鼻なのだろうか。リトルラフレシアのない私は私なのだろうか。
世界で感染症が爆発的に流行した。国内でも感染者が増えてきて政府は対応に追われていた。
高校に入学する頃にはみんなが当たり前のようにマスクをつけて生活するようになった。
私もマスクをして登校し授業を受けた。
マスクをすること以外は前とあまり変わらない日常を送った。
ある日廊下で別のクラスの男子から連絡先を聞かれた。話したことも見たことすらない人だった。
それから連絡を取り合って、休みの日にデートの約束をした。
駅の改札口近くで待ち合わせをして、バスでショッピングモールに向かいモール内をぶらぶらした。
その後、併設されている映画館で映画を見た。初めての異性とのデートで緊張していた。
映画が始まりしばらくして彼が手を握ってきた。温かくゴツゴツした男の手の感触に意識を取られてしまい、映画の内容が全然頭に入ってこなかった。それでも私は映画館から出て「面白かったね」と彼に言った。
カフェに入ってケーキセットを注文し届くまで映画の感想や学校の事を話した。
ケーキが届きマスクを外してケーキを食べた。とても美味しかった。「美味しい?」と聞いたら彼は少し間を置いて「ああ」と素気なく答えた。それからは話が盛り上がることはなく店を出てその場で解散した。
彼から連絡が来なくなった。マスクを外すまでは私の目を見て話していたのに、「美味しい?」と聞いた時、彼は私の鼻を見てすぐ目を逸らして、どこを見ればいいのかわからなくなっていた。
それからもよく知らない人から声を掛けられた。私はあの時の視線を思って、まずはマスクを外し「こういう鼻ですけど良いですか?」と聞くようにした。
大抵の人は良からぬものを見たような顔をして去っていった。
一人だけ付き合った人がいたけど、感染が恐いからいつもマスクをつけてほしいと言われ、セックスをする時もマスクをつけた。
途中で可笑しくなって笑ったら彼も笑っていた。別れるまで一度もキスをしなかった。
私がマスクをつけてさえいれば優しい男だった。別れても別に悲しくはなかった。
ふと寂しさを感じる時に考えることがある。
普通の人ならこの鼻を変えたいと思うかもしれない。この鼻を変えたらもっと生きるのが楽になるかもしれない。
でも結局私はこの鼻を特別に思っていた。寂しいのは我慢すればいいだけ。
私は豚鼻と言われたとき、クラスで笑われたとき、マスクを外して落胆されたとき、別に傷つきはしなかった。
誰かが一方的に笑い、誰かが勝手に落胆しただけ。
世間の普通に私の鼻は属さない。
生き辛いと感じることもあるけれど、それでも私は私の鼻が好き。私は私の鼻に依存しているのかもしれない。名前を付けて、アイデンティティーを見出しているのかもしれない。
まあ、誰がなんと言おうと知ったこっちゃない。
ある時、盲目の男性に出会った。
私は福祉の大学に通い、就職活動をしていた。面接はいくら受けても通らなかった。
とある施設のインターンに参加してそこに盲目の男性がいた。何度か話しをして仲良くなった。とても明るい人だった。
彼は私のことを素敵な女性だと言ってくれた。
私はそれを否定して、彼の手を取り、私の鼻に当てて、「こんな鼻をしているんですよ」と言った。
彼はガラス細工を扱うように慎重に私の鼻を触り、輪郭を確かめて、
「でも呼吸はできるし、匂いはわかるんでしょ?」と聞いてきた。
それから「何が不満なの?」とおどけた口調で言った。
「確かに必要な機能は備えてますね」
「僕なんて目があるのに見えないんだよ」
彼はそう言って楽しそうに笑い、私もつられて笑った。
「あなたの鼻は普通だし何もおかしくないよ」と彼は言った。
私はそれを聞いてなんて言っていいのか考えてしまい、変な間ができてしまった。
少しして頬に涙が伝うのを感じ、自分が泣いていることに気付いた。
私は震える声で「リトルラフレシア」と呟いた。今まで一度も発したことのないその言葉が、口からこぼれてしまった。
彼は初めて聞くその言葉の意味を私に聞こうとはしなかった。その言葉の響きをゆっくりと味わっているようだった。
私は涙と鼻水でひどい顔をしていた。
「今まで何もかもうまくいかなくて、いじめられて」
「それを全てこの鼻のせいにしてきたんです」
「私は特別な鼻を持っている特別な人だと思わなくちゃいけなかったんです」
「でも、私は本当はただの・・・」
彼に向けて話しているのか、他の何かに向けて話しているのかわからなくなってその先の言葉が出てこなかった。
しばらくして彼は「あなたは素敵な人ですよ」ともう一度言ってくれた。
リトルラフレシア 浅野ハル @minihal
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