第2話 オコンネル

 ランドンは物騒、とは言ったものの、実際のところ私の住んでいるウィルズ地方のカルディフの方が治安が悪いと勝手に思っている。ランドンは確かに色んな人が来るから色んな事件が起こるのだろうが、カルディフは魔蓄の生産が行われる工業地域なので労働者が多く集まる。

 別に労働者が治安の悪化に関与しているなんて言うつもりはない。だが労働者は鬱憤を貯めこみやすく、そしてその鬱憤を晴らすために、カルディフには賭博場や酒場、売春宿なんかが多く集まっているのも事実だし、そしてそういうところでは、えてして女性はひどい目に遭いやすい。この間も近所で強姦事件が起きた。喧嘩騒ぎなら毎日起こっている。

 では何故そんなところに私が暮らしているのかというと単純に節約のためで、この辺りはとにかく家賃相場が低い。ランドンの四分の一くらいの価格で暮らすことができる。労働者目当ての市場が多いので物価も安い。私は教師として働く最初の二年間をここで過ごしてお金を貯め、そしてあの奨学金の送り主を突き止めるのだと決意していた。

 シャロンさんの事務所に依頼をしに行った日の帰り。ランドンで買い物をしていたら思いのほか楽しくてついつい遅くまでいてしまい、列車に乗って帰る頃にはすっかり日が暮れていた。本当はこんな時間にカルディフの町をうろつくのは得策ではないのだが……私は足早に家路を急ぐ。

 しかし妙な胸騒ぎはあった。駅からどうも誰かにつけられているような気配があって、私は高いヒールで来たことを後悔した。これじゃ走れない。でもできるだけ早く……足をひたすらに動かす。

「よう……よう……」

 曲がり角を曲がろうとして、男性の胸にぶつかったのは突然のことだった。全く気配を感じなかった。多分歩いてきてぶつかったのじゃない。待ち伏せていたんだ……そのことに気づいた瞬間、何もかもが終わってしまった気がして頭の中が真っ白になった。背後の気配も大きくなってくる。前にも後ろにも進めなくなる。

 と、いきなり後から抱きつかれた。胸を揉みしだかれる。悲鳴を上げようとしたら口を手で塞がれた。酒臭い息が耳に吹きかけられる。

「別嬪だなぁ、おい……」

 耳元を毛がくすぐる。髭だろうか……なんて、妙に冷静な自分がいた。だが心臓はもう爆発しそうだった。

「この女が顔をぐちゃぐちゃにして……そそられるなぁ」

 涙が滲む。自分の未来が、思い浮かべなくても想像できた。きっと使い捨てのおもちゃみたいに扱われた挙句紙屑みたいに捨てられるんだ。そう思った。

 ああ、神様……と膝から崩れ落ちそうになったところで、鈍い音がした。私の胸をつかんでいた手がだらりと落ちていった。不意に自由になり、私は振り返る。

 その人は街灯を背にしていた。帽子を目深にかぶっている。手にはステッキ。どうもこれを使ったらしい……というのも、その人物の足下で、いかにも浮浪者といった体の男性が倒れ込んでいたからだ。私の前に立ち、行く手を塞いでいた男が舌打ちをした。唸るような声で威嚇する。

「おっさん、かっこつけるのはよくないぜ」

 男が懐に手を入れる。私は息を呑んだ。この男、何か武器を……。

「賢くないぞ」

 ステッキの人物が小さく告げた。男性の声だった。

「魔蓄でも持っているのかね。あるいは銃かな? しかし賢くない。ステッキを含め棒状のものは全ての武器の頂点に立つ得物だ。それにこの距離。君が懐から手を出す頃には、全て終わっているだろうさ」

 懐に手を入れた男が沈黙した。私はただ、馬鹿みたいに地面に倒れているしかなかった。

「ふざけやがっ……」

 ステッキの人の言う通りだった。

 男性が懐から何かを取り出そうとしたその瞬間、下方から振り抜かれたステッキの一撃が男性の顎を捉えた。男性は仰け反って倒れた。手には小さな銃があった。

「人は下から上の運動は認知しづらいんだ。覚えておくといい。軍では常識だがね」

 ステッキの男性が、私に手を差し伸べてきた。この頃になってようやく私は彼の顔を見ることが出来た。お髭が素敵な、紳士だった。

「女性がこんな時間にこんなところをうろついていちゃいけない」

「あの、その……」

 と、言葉に困っていると数名の警官がやってきた。彼らは私と紳士とを見比べると、小さく告げた。

「通報があって来た。暴漢騒ぎというのは……」

「その寝そべっている二人のことですよ」

 紳士はステッキでこんこんと地面を叩いた。

「見たところ初犯ではない。叩けばいくらか吐くでしょう」

「……失礼、オコンネル大佐では?」

 警官の一人が驚いたように帽子を上げる。

「シレンシオ作戦でのご活躍は耳にしております。一度お会いしたかった……!」

「それはそれは」

 紳士、いやオコンネルさんは気まずそうにううんと喉を鳴らした。

「しかしお二人とも随分遅い到着で」

「失礼、さる情報筋からの通報だったため、真偽の判定がつかず……」

 するとオコンネルさんが苦い顔をした。

「……あの馬鹿め。普段どんな仕事をしてるんだ」

 さっきまでの紳士的な対応とは打って変わった乱暴な言葉に、私が首を傾げると、しかし紳士はにっこり笑って「いえ、こちらのことですよ」と告げた。警官が続いた。

「調書をまとめたいのですが、お時間は……」

「構いませんよ。お嬢さん、私が家までお送りしますから、どうかこの二人の仕事に付き合ってあげてくださいませんか」

「え、ええ。それは、もう……」

「おや、膝をすりむいている」

 言われて足下に目線を落とすと、確かに膝をちょっと、すりむいていた。多分、男の腕から離れた時にやってしまったのだろう。するとオコンネルさんがひどく申し訳なさそうな顔になった。随分慌てた調子で謝罪してくる。

「失礼。私の介入が荒っぽかったから……」

「い、いえ、とんでもございませんわ」

「いやいや、うら若き女性に怪我をさせたとなっては軍の名折れだ。軍は国民を守るための存在。曲がりなりにもその大佐を務める私が、お嬢様一人守れないとなっては……」

「十分守ってくださいましたわ! 本当に、本当に助かったんですもの」

「だが、傷が化膿するとよくない。それに心的外傷もあるでしょう。心の傷です」

 オコンネルさんはちょっと考えるような顔になると、懐に手を入れ手帳を取り出し、ページを破ると何かをすらすらと記した。受け取ってみると、推薦状のような内容だった。「リグビー総合病院副院長トビー・ジャレット・リグビー様」。リグビー総合病院って言ったら、ランドン一の総合病院……。

「そ、そんな大事では……」

「いえいえレディ。あなた泣かれている」

 言われて気が付いた。頬が濡れている。

「怖い思いをしたのでしょう。その病院に勤めるハリエット女医は精神的な医療に長けた人物でしてね。まぁ、もちろん擦り傷の処置くらいならしてくれるでしょうし、怖い思いをしたその気持ちも、手当てしてくれるでしょうから」

「でも……でも……」

 言葉に詰まる。今頃になって、ものすごい恐怖心に包まれた。危うく私、男性二人に乱暴されるところだったんだ……。怖かった……怖かった……。

「ここからランドンまでだと、少し時間がかかりますな。もし必要でしたら、私は騎士団にも繋がりがありますので、警備を一人つけてもらいますよ」

 いや、さすがにそれには及ばない。私はしっかり断った。

「いえ、大丈夫です。病院くらい一人で行けますわ」

 オコンネルさんは微笑んだ。

「そうですか。しかし何か困ったらいつでも連絡をください」

 と、名刺を渡される。ルーシャン・オズワルド・オコンネル。王国海軍大佐。こんなすごい人がカルディフにいたなんて……。

「失礼、駐屯所へ」

 警官に言われ、私はオコンネルさんと一緒に駐屯所へ向かう。途中、私の不安を感じ取ってくれたのだろう。オコンネルさんは学生時代の話をしてくれた。何でも彼も、アルドリッジの出身らしい。イーストガール寮の首席だったそうだ。彼は楽しそうに学生時代の話をしてくれた。そうして私は思い至った。

 イーストガールのオコンネル。アルドリッジのスポーツ特待生で数々の新記録を打ち立てた伝説の男子学生だ。聞くところによると彼の脱いだシャツを求めて女子が男子更衣室に殺到したとかいう……。

 イーストガール寮のオコンネル、ノウスレディ寮のフィリップス、サウスマン寮のリグビー。

 アルドリッジ伝説の三人だ。いずれも男子なので三銃士、三騎士、三美男子などとも呼ばれている。スポーツのオコンネル、行事ごとのフィリップス、勉強のリグビー。もしかしてこのオコンネルさん、その三騎士の内の一人……?

「あの、あの、もしかして」

 私は訊ねる。

「三騎士の?」

 するとオコンネルさんは爆ぜるように笑った。

「懐かしい。そんな名前をつけられたこともありましたな」

「お、お会いできて光栄ですわ……それも、こんな、助けていただけるなんて……」

「いやいや、あの場にいたら紳士ならば必ず助けるでしょう」

 それからオコンネルさんは道中、不安な私の気持ちを慰めるように色々な思い出話をしてくれた。駐屯所でも、聞き取りに詰まった私に助け舟を幾度も出してくれたし、この日は本当にオコンネルさんにおんぶにだっこというか、助けられっぱなしだった。帰り際、家まで送ってもらった後、私はオコンネルさんにお礼を言った。

「あの、このご恩は忘れません。何か私にできることがありましたら何でも……何でも、と言われても困るでしょうから、今度是非お食事でも」

「それは大変光栄ですな」

 しかし抜け駆けはいけませんので。

 オコンネルさんはそう、私の申し出を断った。抜け駆け? 何のことかさっぱり分からなかったが、あまりしつこく縋るのもよくないかと思い、私は素直に引き下がった。

 その日はそれで終わった。だがこの日を皮切りに、というか、この翌日、また不思議なことが起こった。

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