東雲春花は夢を見ない

@nakayama_siun

第1話<<邂逅>>



「ねえ、好きなんだけど」


 男はぶっきらぼうにそう言った。

 彼の押す自転車にまたがっていた東雲春花しののめ はるかは、何も言わずに夕方の河川敷をぼんやりと見つめていた。子供達がボール遊びをしている、その奥に流れるオレンジ色のきらめいた川を眺めたまま口を開く。


「やっぱりそうだったんだ」


 そうそっぽを向いて呟きながらも、内心はやはり困惑していた。しかし、それは急な告白からなるものではなかった。

 まるで自分が夢の中に入っているようだったからだ。まるで自分が第三者となって、その場を見ているかの様だったからだ。口が開いたのも春花の意志とは関係なく、勝手に開き、考えることもせず、ただぼんやりと眺める事しかできない。ただ心の中で、どこか見た事のある景色を戸惑とまどいの面持おももちでいることしかできない。

 男の方はと言うと、黙りこくって自転車を押すだけだった。浴衣ゆかたを着た彼女を催促さいそくすることもなかった。ただ真っ直ぐに前を見つめていた。


「あたしは……」


 そこで春花の意識は途絶とだえた。代わりに何やら違う声が聞こえてきた。ドタドタと何かを上るような音と共に、まるで家を揺らしそうなまでの大声が部屋に入り込んでくる。


「……ちゃん、朝」


 どこかで聞いた事のある大声だとは思ったものの、体が重たくて言う事を聞かない。


「姉ちゃん、朝だよ」

「あと少しだけ」


 うめき声を上げながら春花は何とか口を開く。自分自身、今どんな状態なのかはさっぱり分かっていない。ベッドからずり落ちそうになっているのにだ。それを見て小さな彼女は、その体に見合ったため息をついた。


「遅刻しちゃうよ」

「今何時」

「七時五〇分」


 今度こそベッドからずり落ちた。


「遅刻じゃん」


 妹にも負けない特大の声を出しながら、ベッドから落ちた体を跳ね起き上がらせ、ショートカットの髪を揺らしながら、春花は階段を落ちるように駆け下りた。普段起きるのは二〇分丁度。その時間でギリギリなのに、もう既に三〇分も遅れている。

 そんな中でも春花は諦める事なく、立ったままテーブルに置かれたトーストを口に無理やり詰め込んだ。詰まらせた喉に牛乳を注ぎながら。

 制服だって、着替えるのに五分と取れない。口内をモゴモゴさせながら服をそこら辺に脱ぎ散らかすと、裏表が逆の靴下に気を取られる事なくローファーに足を通した。


「いってきます」


 鞄を手に取って半分怒鳴り声でそう叫ぶと、残像の残る勢いでドアを叩き閉めた。

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