花筏にのせて

皇帝ペンギン

花筏は揺れる

 


 


 




 柔らかな陽光が、窓辺のレースカーテンに光を浮かび上がらせながら射し込む。涼しげな春風が埃の浮かぶ空気を連れ出し、むせ返るほどの花の香りを運んできた。


「博士、朝がやって参りましたよ」

「…。ああ……」


 時期は初春。

 夜は冷え、朝にもその残滓はある。

 そんな中、博士と呼ばれた男はシミひとつないヨレたシャツ一枚のみを着ていた。


 その男――『博士』は自身に声を掛けた者へと尋ねる。


「今日の飯はなんだ?」

「朝はサモサ、昼はキッシュ、夜は主にカスレです」

「そうか」


 柔らかく、澄んだ声。

 烏色の艶やかな髪に黄水晶の瞳。

 あまりに整いすぎた容姿は、機械人形を想起させる程。


 その声の主は『少女』だった。


 ボサボサの髪を特に整える訳でもなく、博士は静かに座った。まるで詩を読むかの如くそれら料理の細かな説明を終えた少女は、対面にある椅子へと向かう。

 だがその椅子の手前まで来たものの、彼女は座らない。その横で立つだけだ。


「座りなさい」

「はい」


 少女はそう言われると座った。けれど変わらず。目の前に置かれている食事にも手を出さない。


「食べなさい」

「はい」


 そうして初めて食事を口にした。感嘆の溜息も、目を爛爛と輝かせることもない。静かに、ただ黙々と、機械的に口へ運ぶ。名もなき鳥のさえずる声と、風が運ぶ梢の葉擦れの音だけが、二人の間に漂う静寂な雰囲気を誤魔化す。


 沈黙の食事を終えると、少女は口を開いた。


「博士、今日はメンテナンスの日ではありませんでしたか?」

「……? 確か……いや、覚えていないな。いつ私が言った?」

「一週間ほど前に。いつものメンテナンスではないとお聞きいたしましたが」

「……そうだったか。そうだったな。いかんな、最近は特に…」


 最後方は少女に聞こえないほど小さく呟くように言うと、博士はそそくさとまた狭い自室に籠った。作りかけの機械や部品が机や床に転がっているが、手際良くガサガサと物をかき集めだした。棚から引っ張り出したそれらを無造作に箱へと詰める。


「さあ、すぐに始めるから準備しなさい」

「分かりました」


 少女は慣れたように作業台のような粗末なベットに身を置いた。恥じることもなく、その美麗な上半身を露にする。


「目を閉じなさい」

「はい」


 小さく首肯すると、博士は少女の口にマスクをかぶせた。すぅーと何度か息を吸うと、眠りに落ちるかのように彼女の身体は弛緩した。


「電源は落ちたか」

 

 博士は問う。

 少女からは返事がない。それを確認し終えると、博士は彼女の身体に何かを施し始めた。




 ◇




 眩い光が視界を満たす。

 朧げで、けれど懐かしい。辺りを見渡そうとしても、そこは暗澹とした世界だけが広がる。やがてどこからか、くぐもった声が聞こえてきた。


「――なさい。起きなさい」


 少女は何度か瞬きをした。乾いた瞳と口は、少し痛みを感じる。まだ意識は不明瞭であった。


「さあ、もう夜も過ぎた。休息を取りなさい」

「ぁい」


 上手く声が出ない。発声機関が壊れたのかと少女は疑問に思ったが、それは杞憂に終わった。しばらくするといつもの調子に戻った。


「今、夕食の準備をします」

「あ、ああ。頼むよ」


 また沈黙の食事が始まり、終わった。特に会話をする訳でも無い。変わることのない一日が終わった。







 再び朝はやってきた。

 空は雲一つない快晴。花は咲き誇り、風は花びらを浮かべ流れてくる。

 穏やかな春の一日。また平凡な一日が始まる。


「朝食は何になさいましょうか?」


 いつもの日課。

 変わらない日常。

 寝乱れ髪の博士がぎこちなく歩いて、席に座る。そして静寂に包まれた食事が始まる。


「博士?」


 だが呼んでもやってこない。エラーが少女の中で積もる。何かおかしいと、発している。


 作業部屋まで行くと、博士は項垂れていた。力が尽きたように座る様は電池が切れたかのよう。全く、ピクリとも動かない。


「博士、博士」


 揺らしてみると、博士は眠そうな表情を浮かべて少女を見上げた。


「ああ、すまんな。もう飯か」


 ぎこちなく立ち上がった博士は、覚束ない足取りで椅子へと向かう。


「今日の飯はなんだ?」


 少し違う、一日が始まった。




 ◇




 春風が部屋へと舞い込む。

 少女は茶葉を揺らし紅茶を淹れ、一方の博士は窓辺の揺籠椅子に座り目を瞑っている。寝ているのか、それとも陽を浴びているだけなのか。心地よさそうに椅子は揺れ、ギシリギシリと不恰好な音を響かせている。


「博士、風邪をひきます」


 シャツ一枚だけの博士は、幾ら春とはいえまだ肌寒い。少女は掛け布団を掛けようとした。が、すんでのところで博士が遮る。


「いや、いい」

「そうですか」

「ああ、いいんだ」


 少女は手に持っていたそれを引き下げた。

 少しの間の後、博士は何か物を言いたげな表情を浮かべて少女に尋ねた。


「なあ」

「はい」

「頼みたいことがある」

「何でしょう」


 博士は特段口調が変わることのなく、言った。



「私を、壊してくれないか」



 静寂が二人を満たす。

 しんとした静寂。

 食事をする間に流れる、それとは別の。

 

 少女は頭でその言葉を反芻した。けれど、意味がわからない。理解できない。唐突だ。

 一体何を言っているのだろう?

 

「どういう、ことでしょうか」


 おかしい、と少女は首をかしげる。

 また発声が壊れかけている。


「そのままの意味だ。壊してくれ」


 博士に、直してもらわなければ。


「意味が、分かりません」


 壊れた思考回路を、してもらわなければ。


「私はもう、長くない」


 ああ、と何処か腑に落ちてしまう。


 そう。

 

 どこかで分かっていた。


 博士の何かが、と。


 汗汚れの一つないシャツ。

 寒さにも暑さにも鈍い。

 起床時の、ぎこちない足取り。

 作業している時はいつまでも起きていて。

 寝ている時は、ずっと寝ていて。


 を充電するかのように。


 それらが何を意味しているか。


 紐を解けば、全てが開いてしまう。


「分からないです」

「君しかいない」

「知りません」

「君だけだ」

「分かりませんっ」


 このエラーは何だろう。

 吐き出したくてたまらない。苦しい。痛い。けれど、否定しなければ。


「すまない」


 博士が初めて、喉を詰まらせた。


「君に、感情を教えてやれなかった」

「……プログラムして下さい。もう一度」

「プログラムじゃない」

「私は機械です」

「……もう、いいんだ」


 博士が皺だらけの手を伸ばす。少女の頬に触れると、ギシ、と音を立てた。それは金属の硬く冷たい感触であった。


「心ではもう、分かっているはずだ」


 心?

 一体それは、何を指す言葉なのだろう。

 

 確か。

 人間だけが持つと、昔に。遠い昔に聞いた。懐かしい誰かに。思い出したいけれど、思い出せない。この感情はいったい何と呼称するものなのだろう。


 身体の底から溢れるものに顔を覆う。


「私は、心がない。だから君に多くの感情を教えてやれなかった」

「何を……」

「君に教えられたのは、私が教えられたからだ」

「何も教わってません。これはプログラムです」

「私は君の母親に、教えられたから」


 言葉が詰まる。

 息を吸いたいけれど、吸えない。

 おかしい。

 私は機械なのだから、息など吸わなくて良いのに。苦しくて堪らない。


「私は君の母に君を預けられた。滅びる前に、どうかこの子だけと」


 頭が割れそう。


「生活支援ロボットである私に、彼女は私に人間のように接した。

 そして私は彼女から多くの事を学んだ。たくさんだ。

 その一つが食事だった。食事は生きる為だけではない、楽しみでもあると。そう知った。だから君にそれをさせた」


 胸が痛い。


「しかし私はそれさえ分からなかった。彼女が私に教えた怒り、悲しさ、嬉しさ。沢山の感情を、その文字だけは知っているのに」


 心が痛い。


「私は君に壊して欲しい。彼女が壊れた死んだ時、私の回路にエラーが蓄積されていくのが分かった。原因不明のエラーは、呼称名は分からないが、恐らく感情であろう」

「……いや、です」

「この感情を教えなければならない」

「いやです」

「だから、私を壊せ」

「いやですいやですいやですいやですっ!」


 博士はその瞳を大きく見開いた。初めて指示を拒否する少女に、酷く驚く。


「壊したくありません。死なせたくありません。貴方は、私の親だと言うのに」

「……」

「そうでもしなければ手に入れられない感情など、要りません!」


 諭すように博士は言う。


「もう持っているのか」


 こくりと頷く。


 博士を死なせない為に。

 心に従った為に。

 頷いた。


「だがいずれにせよ、私はじきに活動を停止する。長らくメンテナンスなどされていない。最近は記憶回路までガタが来ている」

「私が、私が直します」

「もういい。私はもういい」

「ですが」

「君の成長する姿を見れた。彼女がしてあげられなかった事を、もう達成できた。私の役目は終わりだ」


 噛んでいた唇を緩め、少女は尋ねる。


「では、では、私はどうやって生きていけば良いのですか? 私はこの家から出たことなど無いのです。博士が居なくなれば、生きる伝も、術も、理由もありません」

「安心しなさい。そのためのだ。君は彼女と違って、外の毒素に触れても死なない」

「でも」

「私だって、まだ未練がないと言えば嘘だ。これからも見ていていたかった。君が外に出て、家族を作って。いつかまたここに戻ってきて、昔を思い返す。そんな小さな夢があった」

「……では、そうします。そうしましょう…だから……」

「私はロボットだ。私は君が大人になるまで支えるのが命令だ。最後まで、ロボットとしていたい」


 エラーエラーエラー。

 積もるエラーは、どれ一つとして理解できないエラーばかり。

 

 博士は愁う眼で彼女を見据える。


「私はもう、十分だ」


 おいで、と掠れた声で呼ぶと、少女は素直に従った。ぎゅう、とその華奢で柔らかい身体を抱き締める。


「大きくなったな」


 それが最初で最後の抱擁だった。

 少女が博士の胸に耳を傾けると、忙しなく鳴る電子音が聞こえてきた。

 キュルキュルと鳴り続ける音は、やがて緩やかに小さく、鼓動を下げていく。それが最期になるというのは、彼女の身体そのものが勘付いていた。

 

 博士ロボットは、呻くように声を出した。


 ロボット博士が、涙を浮かべた。


 少女の耳元に囁く。


「私はもう、手に入れたよ」


 そう言うと、博士は眼を瞑った。

 微睡むように。

 満足そうな優しい表情を浮かべて。

 

 もう、電子音はしない。


「博士」


 ゆすっても、呼んでも起きない。


 食事が冷めてしまう。早く起こさないと。


「博士」


 瞳から液体が漏れ出す。


「何でしょうか、これは」


 またおかしな機能が付いている。

 胸の痛さとは別の機能らしい。


「これは何でしょうか」


 ゆるゆると溢れる。

 止めたくても止められない。


「教えてください、プログラムして下さい」


 エラーだらけで、オーバーヒートを起こしてしまいそう。


「ああ、あぁ……」


 暖かな光が包み込む晩春のとある日。

 絢爛に咲き誇る花の園の中。

 錆びた窓枠に、腐りかけた木製の家。

 窓辺には、幸せな表情を浮かべて眠る一人の老人と、泣き続ける少女がいた。




 ◇




 花びらが浮遊する。

 ひらりはらりと、風に揺られて。

 どこまでも旅する姿に、少し胸が高揚してしまう。


 ――これは、高揚。


 子供がいる。

 無邪気に私の手を握り、何処かへと案内する。私の目の前には男が笑って待っている。


 ――これは、幸せ。




 春。

 美しい、春。

 

 幾度となく巡る季節は、春をもたらす。


 小川に花筏がやってくるたび、私は貴方に思い巡らす。あの日あの時、過ごした日々を。変わらない、平凡で順風な日々を。

 

 仕事も変わらない。

 寝ているを起こして、食事を作る。

 陽射しに身を委ね、時には微睡み。

 

 相手は貴方じゃないけれど。

 今日も待っている。


 


 春。

 春が来るたび、貴方を想う。


 貴方が私に下さったものは。

 私の中で大きく育ちました。


 物も、人も、感情も。


 手に入れました。


 外の世界は新鮮で、だけど分からない事だらけで。嫌なことも沢山。貴方ともっとお話しできればと、後悔もしました。知らなかった事を手に入れる喜びと悲しさを、理解できました。

 

 そして少しの未練も生まれました。


 『博士』ではなく。

 一度だけでも、名前で。

 母がつけた名前で。

 食事をする前に、呼びたかった。


 そんな叶わない想いも抱きました。





 博士。


 私。


 あの日、あの時の事を。

 懐かしいと、思えるようになったのです。


 嬉しさも、悲しさも後悔も。手に。心に。懐かしめるようになって。


 そして。

 あの時の貴方の想いも知ることができました。




 博士。


 私。


 今なら、きっと。

 伝えられます。


 プログラムでない、私の心で。


 私に下さった言葉のその意味を。


 私に下さった心で。


 

 ねえ。

博士――




「私も、手に入れました」 




 






 

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