グレイト・エスケープ
アツミ
Chapter 1
昨日よりも今日の自分の方が何か一つでも優位だと信じたい。
けれども、より確実なのは一日分老いて死に一歩近づいたという言い方だろう。
リクルート・スーツのままベッドに倒れ込む。朝にアイロンをかけたばかりのスカートがシワになることに少し背徳的な気分をおぼえる。就職活動で思い知らされるのは己の無能さというよりも、無能な自分を変える努力すらしてこなかった怠慢さだ。これまでの二十一年の人生を振り返ってみても、心から強みと言えるものを得られた手応えはない。言い訳のようにでっち上げた不確かな自分らしさを武器にして、どこまで戦ってゆけるのだろうか。
寝転んだままスマホの画面を眺めていると、従妹の芽依からの着信が通知された。
「もしもし、ふみちゃん? 今話しても大丈夫?」
芽依は私の七つ下で、中高一貫女子校の中学三年生だ。
「大丈夫だけど、こないだも通話したばっかじゃない?」
責める気持ちはこれっぽっちもないけれど、少し意地悪っぽく受け応える。
「だって、最近遊んでくれないし」
凛とした顔立ちやさっぱりとした性格のおかげか、芽依は同級生や後輩からは相当慕われているらしい。けれど、私の前では幼い頃と変わらない甘えた態度を見せる。
「もう、めっちゃ就活忙しいのよ」
「じゃあ、切ったほうがいい?」
「ううん、切らないで」
「えへへ、そういうと思った」
芽依はとても私を慕ってくれている。きっと、成長の差が顕著だった幼い頃のイメージを引き摺って、私のことを今でも頼れるお姉さんとでも思っているのだろう。そういう風に扱われると、いつもつい年上ぶってしまう。
「芽依はちゃんと勉強してる? もう中三でしょ」
「ちゃんとやってるし。それにうちは中高一貫だから受験勉強しなくてもいいんだもん」
「まぁ、芽依は要領いいわよね、昔から」
「数学はきらいだけどねー」
実際に芽依は大抵のことを卒なくこなしてしまう。そんな芽依に、不器用な私がただ年上だという理由だけで慕われているのは、少しむず痒くもあった。
私と芽依は取り留めのない会話を続ける。芽依のあどけない笑い声に耳を傾けつつそっと瞼を閉じると、唐突にある懐かしい光景が脳裏に浮かんだ。ずっと昔、私の叔父と叔母にあたる芽依の両親に芽依と一緒に連れられて、野球場へ行った記憶。スタジアムを埋め尽くす大観衆が眩いライトに照らされて熱狂している光景を、野球選手の活躍よりも印象深く覚えている。野球なんてルールすら知らなかったから、初めて足を踏み入れたスタジアムやこれまでに見たことのない人数の大観衆の方に意識が向いたのだろう。
こういう視覚的な記憶は一度思い出せばしばらくはボンヤリと頭の中に留まっているけれど、それらに付随して甦ったはずの、当時のワクワクした気分やそのときの空気の匂いの記憶は、あっという間に霧散していき、引き止めようとするほど明晰さを失う。
あのときのような気分を最後に味わったのはいつだろう。ずっと長い間、人生は淀んだ川のようだ。忙しくしていても時間を持て余していても、眼前に現れる景色に違いは何ひとつない。きっと、子供だった頃よりも色々なことに慣れきって、ちょっとした変化では動じなくなってしまったのだろう。
今、あのスタジアムに行ったなら、私の心には何が起こるのだろか。
企業説明会や面接の予定で埋め尽くされたカレンダー・アプリの中に、ひとつだけ空欄を見つけた。
「ねぇ、今度の土曜ひさびさに暇だからさ、野球観に行かない?」
グレイト・エスケープ アツミ @atsumi13
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