第二話 タマシズメ act.2
スクリーンに映されるマーカーがひとつ、赤色に灯った。
「03、応答ありません!」
悲鳴に近いオペレーターの声が響く。
「04、08、応答を!」
スクリーンに映されるマーカーが二つ、赤色に灯った。
◇
緑地は赤く染まっていた。
整備された芝生の上に点々と続く血痕は、徐々に大きさを増し、サツキの植木に倒れ伏す主の元で最大となった。
ハンマーの起きた拳銃に発砲の形跡はなく、トリガーに掛かったままの指は、生前の意志を継ぐかのごとく痙攣をしている。
左大腿部、左胸部が激しく損傷しており、都市型迷彩服はボディアーマーごと風穴を開けられていた。
「…………」
もはやノイズに過ぎなくなったコールがインカムから漏れる。
まるで嘆声の残滓のように。
辺りにはおびただしい量の血液があふれ、繁みの中の惨状を物語っていた。
――血塗られたススキに付着していた呪符が落ちていく。
空気をはらみ、左右に揺れ、ゆるやかに、羽毛のように。
やがて地に着いたそれは、微弱な紫電を放ちながら溺れるように血の海へと消えていった。
――がさり、と雑草をかき分ける音が響く。
ススキの花穂が揺れ、茎が左右に分かれて踏み倒された。
現れた人影は、気怠げ辺りをを窺うと、衣服に付いた枝葉とほこりを払う。場違いなスーツ姿に大きな乱れはなく、一点の血痕もその身に帯びていない。
緑地に動く者は他に無く、漂う血臭に怯えた虫は声と姿を潜めていた。
樹木の影の中、微かに漏れ伝わるインカムの音をたどるように、スーツ姿の男は倒れた特務隊員に近づく。
感情の読めない瞳が動かなくなった隊員の身体を探り、血糊を避けつつ手を伸ばすと、その腰のホルスターからSIG SAUER P226カスタム自動拳銃を抜き取った。
◇
「高峰さん、上だ!」
十字に走った光は瞬時に集束し、人の前腕へと姿を変える。
すがるかのように伸びてきた腕を、20式小銃改に装着していた銃剣で薙ぎ払い、高峰は左後方へ跳躍した。
草地を滑るタクティカルブーツを踏みしめ体勢を整えると、即座に宙に浮かぶ腕に向けて残弾を叩き込む。
再び河川敷に銃声が轟き、マズルフラッシュが一瞬の影絵で夜を彩った。
残響が消え去るよりも速く高峰はポジションを変え、空になったマガジンを交換、対象をレティクルに再捕捉する。
大穴を穿たれ、文字通り皮一枚で繋がった状態となった腕は、力を失い地面に向けて緩慢に落ちていく。
ごぼっ。
粘着質な水音が耳朶を打った。
落ちる腕に引かれ、徐々に、人の身体が宙に現れ始める……。
前腕、上腕、肩に続き頭部が。
長髪が流れ、豊かな胸部から締まった腹部を舐めるように、艶めかしく鈍く光る粘液を
――闇が産み落としたかのごとく、ずるりと、人体が排出された。
何者かが足首を掴んでいた。
川面に張り巡らされた呪符の陣など物ともせず、手首から先だけを現し、それは
周囲を探るように蠢いていた複数の気配は消え、一点に集約された力が骨を軋ませる。
「――――馬鹿な……」
易々と陣の内部への侵入を許したことに、北見は衝撃を受けていた。
陣は多量の呪符を用いて、川の中央部に直径40メートルの円形の足場となって構築されている。
それは足場としてだけではなく、呪符に施された術により主の意識と同調し、自在に操ることが可能な攻防一体の移動要塞となっていた。
その
直面する危機よりも、自らの術が破られつつあるという事実が北見を激しく動揺させ、冷静な思考と判断力を失わせていく。
身動きの取れぬまま、視線を泳がせた時――足元の呪符が水面もろとも切り裂かれ、しぶきを上げて口を開けた。
「――――!」
宙に浮いた身体は、次の瞬間足首を強く引かれ水中へと落とされた。反射的に伸ばした腕は空を切り、息を吸うまもなく頭部が水面下へ没する。
いかにもがこうとも右足を掴んだ腕は外れず、まるで錨に絡め取られたかのような重さと勢いで、川底へと向けて垂直に落ちていく。
己が未熟と迂闊さを呪う間はおろか、死を怖れる瞬間すらも無く、ただ蹂躙されるままに北見は沈む。
――見上げて手を伸ばした水面に切り裂かれた呪符が舞う。
僅かな隙間からこぼれた月光が水流に揺らめき、朧に漂っていた。
◇
特務の各隊員には無線式の監視デバイスが装着されており、上空を飛行する複数の偵察ドローンを経由して、オペレーションルームへリアルタイムでバイタルサイン――脈拍、呼吸、体温など――が伝えられている。
現在、正常値を示しているのは、12、22、32。マーカーが赤く灯り、異常発生を告げているのは03、04、08である。
オペレーション開始から僅か十数分、精強を誇る特務隊の半数が戦闘不能に陥っていた。
凍り付いた場を引き裂いて、オペレーターのコールが部屋に木霊する。
「03、04、08、応答を!」
目眩にも似た衝撃に抗いながら、パニックへ逃げ込もうとする精神を繋ぎ止め、国見は状況を整理する。
12班の置かれた戦況は極めて危機的だった。
少なくとも、03班を殲滅した対象と、12班と交戦中の勢力が合流することを防ぐ必要がある。しかし、包囲網の捜査員と警官隊をそれに割けば、いたずらに犠牲者を増やし、包囲を弱める結果にしかならないことは明白だった。
12班を包囲線まで後退させても同様であり、状況の好転は望めない。
最悪の事態は、野放しになったグレイが標的を市民へと変えることである。それを防ぐためにも、何があろうと包囲網は維持する必要があった。
〝――時間を稼がなければ〟
増援を派遣するまでの間、犠牲を厭わず。
握りしめた拳は血流を失い蒼白になっていた。霞む瞳が虚空を見つめ、噛み切った下唇に鮮血が滲む。
包囲網の強化が最優先。12班の退却はその後……。
深呼吸を繰り返し、身を焼くような悔恨と未練を断ち切って、国見は決断を下した。
「――局長」
背後で終始黙していた男が、国見の呼びかけに応じて顔を上げた。
「太史課の出動を要請します。包囲網へ加わり、陣の構築を」
表情を隠したグラスに、局長と呼ばれた男の姿が映る。
灰色を帯びた頭髪に知性を感じさせる高い額。伸びた背筋とチャコールのスーツが
「到着まで、捜査課と警官隊で維持をさせます」
12班の扱いを国見は伝えなかった。
男は黙したまま、太史課への回線を繋ぐ。
「――永田だ。ただちに観測にあたっていた太史課員を包囲網へ向かわせろ。
――そうだ。布陣に必要な人員を揃えてくれ」
通話機を置いた永田は、静かな、諭すような口調で国見に告げる。
「分かっているとは思うが、太史課の幽閉陣が完成すれば外部からの援護は不可能だ」
国見が頷くのを待ち、永田は続けた。
「通信も遮断され、12班は完全に孤立することになるだろう」
太史課は、神術・法術・呪術・魔術といった超自然的な現象に基づいた手段を用いて、異変への対応を行う部署である。特務隊とは異なり、直接的な戦闘に加わることは少ないが、行使される術には強力なものが多い。反面、解明されていない要素も多々有り、同部署の運用には慎重な判断が求められる。
「陣内部の隊員にどのような影響が出るのかも不明だ」
よく通る低い声が耳朶を打ち、国見の心を揺さぶる。
「――彼らを救出せねばならない」
峻厳な瞳がグラスの奥を見つめ、厳かな口調が決意を促した。
「国見玲子警視、出撃と能力の使用を許可する。ただちにヘリで現場へ向かい、特務隊を指揮、後退を援護せよ」
◇
闇から排出された人体は、糸を失った操り人形のごとくその場に崩れ落ちた。
関節はあり得ない角度に曲がり、折り重なった四肢が絡まりながら痙攣を繰り返している。
柔らかなラインを描く身体は、粘液に塗れて鈍く光り、官能的に括れた腰が這いつくばるような蠕動をしていた。
やがて、地に伏した顔がくねる動きに押されて起き上がり、月光に晒される。
「――でしょうね」
冷笑を漏らした高峰は、アサルトライフルのスコープ越しに、自らと同じ面貌を見つめていた。
刀印の指先に呪符をかかげ、横津は呪文を紡ぐ。
「羅・白・天」
呪符を通じて知覚が拡張され、観測された戦域の様相が俯瞰図となって脳裏に映し出された。
相対する敵は三体。
横津自身を急襲し、身替符を発動させたモノ。
高峰の前で崩れ落ちたかのように見えるモノ。
そして、北見と共に川底にあるらしいナニモノか。
再三の呼びかけにも応答はなく、北見の置かれた状況は不明だった。
「――03班と連絡が取れません。警戒を――」
無線からは主力の壊滅が告げられている。対岸の緑地に居るはずの03班、特務隊最強であったはずの面々が、ものの数分で戦闘不能に陥ったという。
信じがたい事態ではあったが、横津には息を呑む
自分と同じ顔を持つ怪異と思しきモノは、高峰の銃撃によって重傷を負っているにも拘わらず、執拗に迫ってきていた。
出現当初に光を帯びていた身体は黒化して視認を妨げ、不規則で予測の難しい攻撃をより危険なものにしている。致命傷を防ぐ身替符の効果は一度きりであり、今は回避に専念する他に術が無かった。
救いは、転移能力さながらの力が影を潜め、攻撃方法が物理的な打撃、格闘戦に終始していることであった。
代々呪術を扱う旧家の優秀な跡継ぎとして、神童とまで呼ばれた横津であったが、その優れた才能は呪術の錬磨に留まらず、多岐にわたって発揮された。中でも近接格闘術は彼の得意とする分野であり、隊内でもトップクラスの実力を誇っている。
「――ジンさんに比べれば……」
――下顎を狙う鋭い突きをスウェーで回避し、続いて襲ってきた下半身への蹴りをフットブロックでいなす。敵は、いなされた脚をそのまま踏み込み、倒れ込むような姿勢から裏拳を放ってきた。
奇抜だが予測の範囲内の動きに、横津は最小限の動作で回避を済ます。しかし、紙一重で躱したはずの拳は頬の肉をえぐり、血の華を咲かせていた。
「――ッ!」
痛手には至っていないものの、同様の負傷が続いていた。攻撃を受けるごとに傷は深さを増し、ダメージが蓄積されていく。
接近戦の実力に大差は無く、決定打は防いでいたが、外したはずの間合いを詰められ、躱したはずの攻撃が擦過していた。
徐々に徐々に、薄紙を剥ぐように体力を削られ、劣勢へと追い込まれていく。
それは横津が最も苦手とするタイプの動きだった。
〝――お前、結果を早く求めすぎるんだよ。――天才にありがちな悪癖だな〟
そんな熊野の言葉が蘇る……。
左から牽制気味の蹴りが迫っていた。相手の体勢を崩すべく受け流しで対応し、反射的に右腕でカウンターを放つ。だが、側頭部を貫くべく出されたストレートを待っていたのは、相手の拳だった。
バキンッ!
正面から拳の骨同士がぶつかる。指関節は音を立てて砕け、中程から折れた中手骨が皮膚を突き破った。
右手に走る激痛と、それ以上の戦慄が、衝撃となって横津を襲う。
〝――そうか。そういうことか〟
敵は追撃を出すことなく、
〝――こっちの動きなんて全てお見通しで〟
牽制めいた攻撃を、ただ繰り返してきた。
「俺をいたぶって遊んでいるのか!」
多才を誇る呪術師の表情が、苦痛と屈辱に歪んだ。
水底に根を張るケルプのごとく、北見は緩やかな水流の中、直立して揺られていた。
頭上には呪符の天蓋。
月光は届くこと無く、失われつつある意識とともに、彼を
「…………これは、
突如として流れ込んできた感情の渦に僅かに残った知覚が反応する。
殺意でも憎悪でもない、粘つき、黒く濁った、怨念にも似たモノが足首から心身を侵蝕しつつあった。
憧憬し、胸を焦がし、身を焼き、焼き尽くし、血肉を貪ってなお満たされぬ渇欲。
麻薬のような浸透力で犯し尽くし、女神の抱擁に沈むかのごとき蠱惑。
――自己の全てが塗り替えられていく感触に戦慄き、失いかけていた意識が抵抗を求めて自我を揺り起こした。
「……おのれ」
研鑽を尽くした術のみならず、内的世界への
「……俺を
力を取り戻した指が独鈷印を結ぶ。心身を巡る霊気が侵蝕を食い止め、湧き上がる念が邪気を祓う。細胞が活性化し、漲った力が血脈とともに全身へと伝わった。
「踊符陣!」
取り込んだ自然力を媒介に、水面の呪符へ命令を下す。
一部を切り裂かれながらも、依然足場として機能していた符陣が、北見の意を受け変容する。
中心部が回転を開始し、周囲を覆う大量の呪符間に紫雷が走った。やがて、巨大な時計の歯車が噛み合ったかのように、中心部の回転は外側へと伝播していく。
回転速度は増し続け、水を巻き込み渦となった。渦の中心は水面を穿ち、水中を突き進む龍のごとく川底へ、未だ北見を固定するモノの元へと向う。
「――破」
発声されることの無い叫びが念となって渦を操る。更に速度を増した中心は、槍のごとき鋭さを持って敵を貫こうとし――その直前で拡散、符を撒き散らした。
「なに!?」
足場を切り裂かれた時の場景が繰り返されていた。北見の得た感触を克明に転写され、知覚と意志を宿して動いていたはずの呪符が、相手に触れるとその力を失い、ただの紙片へと引き戻されている。
間違いなく敵は、何らかの手段で符術を無効化していた。
「――ぐっ……」
北見の酸欠は限界に達し、酸素濃度の低下による脳細胞の破壊を防ごうと、自衛本能がブラックアウトを起こしかけていた。
明滅する意識の中、力を振り絞り、残った呪符に新たな指示を出すべく呪印を紡ぐ。
「……律」
目標を失っていた渦は、徐々に広がりながら近づくと、北見の全身を包み込んだ。渦流は再び勢いを増して水を弾き飛ばし、その中心に大気を送り込む。
依然、右足首を掴む腕は離れること無く、侵蝕の機会を窺い濁った気を発していた。
その足を軸として、渦の中心に北見は屹立する。
周囲を廻る呪符に直接命を下すべく、渦中に両腕を伸ばし、天を仰いだ。深呼吸を繰り返し、酸素と共に大気に満ちる自然力を吸収、自身の霊気と融合する。震える唇が色を取り戻し、新たな呪文を詠いあげた。
「合・騰・天」
渦は更に速度を上げ、直上の大気を巻き込む。中心に現れた小さな竜巻が水流を巻き上げ、双方は結合をしていく。竜巻は渦流を得るごとに成長し、天へと駆け上り、やがてひとつの長大な水竜巻へと変貌を遂げた。
崩れ落ちたモノを前に、高峰は困惑し、ライフルのトリガーを引けずにいた。
痙攣と蠕動を繰り返すだけの対象に、もはや戦闘の意志は見られない。
立つこともままならず、産まれ落ちたばかりの弱々しさでうずくまる相手に、銃弾を叩き込むことなど彼女には出来なかった。
それでも、注意深く、慎重に、決して銃の照準は外すこと無く、警戒と観察を続け――
いつしかそれは、魅入られ、取り憑かれたかのような、
静まる鼓動に逆らい体温は上がり、整理された思考を嬲って身体は疼いた。焦点の定まらない瞳の視線を求め、ぎこちなく動く唇に酌み取る意味を見出そうと、高峰はあえぐ。
不自然に曲がった手足。粘液を纏う灰色の肌。芋虫のように這いずる胴体。人語を成さない呻き……。
力を失った頭部が背後を向いた奇形のごとき様相に、再び自らの面貌を見た時、こみ上げる嘔吐感にうずくまった。
――産まれ損なった自分が、今そこに来ている。
湧き上がった妄執が脳を犯し、正常な思考を絞殺した。
馬乗りに全身を拘束され、滴り落ちた粘液が
―― ――
意味を成さない言語が
「――――!」
声にならない悲鳴を上げ、天を仰いだ。吐き気は嗚咽へと変わり、
滲む視界に下弦の月を捉えた時、緩慢に、コマ送りのように世界は回転し、曲がり落ちた首と頭が、押し倒した相手の眼前へと差し出される。
視界を覆う見慣れた姿。安堵と戦慄が脳を焼く。
――上下の狂った世界で、高峰紬は、自らを見下ろしていた。
「!!!!」
ただ駆け出していた。銃も何もかも投げ捨て、ただ逃げ出していた。訓練された身体が危機を訴える本能に呼応し、侵蝕され弛緩した思考を蹴散らして脚を動かしていた。
シュッ――
今も変わらずうずくまるモノから、拳大の石が飛ぶ。
それは吸い込まれるように、逃げる高峰の後頭部を直撃し、彼女を昏倒させた。
闇夜に崩れ落ちる人影を、逆さに映る世界越しに、青く光る右目が見つめていた。
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