グレイ ― 灰色の蝕 ―

逸孝遼

第一話 タマシズメ act.1

 男はほくそ笑むと、鋭く、高く跳躍した。


「捜査員より報告、観測と一致します。グレイです!」

 オペレーターの声と大型スクリーンに点いたマーカーが、オペレーションルームの緊張感を倍加させる。

 幾度繰り返されようと鋭さはいささかも失われることなく、高揚感と焦燥感がせめぎ合う中、分泌されたアドレナリンが脳内で状況開始を告げる。

 アンダーリムグラスを僅かに持ち上げ、国見玲子くにみれいこは最初の指示を出した。

「捜査課各員に通達、包囲網は縮小せず追跡を続行。第一種を維持」

「――対象を再確認。8時方向へ移動中。他に動体感知ありません」

 捜査員からの報告は速かった。グレイと推定された人物は鉄道の高架橋を飛び越えた後、南西方面へ移動している。他に対象は確認されておらず、単独行動と思われた。

「進行方向の部隊は後退して距離の維持を。警官隊は市民の避難誘導と保護を優先」

 国見は淡々と指示を出し続ける。

「見失わなければ、それで構いません」

「――対象、速度を下げました。進路変化なし」

「映像は?」

「間もなく。

 ――ドローンからの映像入ります」

 落ち着いた雰囲気の中年男性が映し出された。引き締まった印象の肢体したいをブラウンのスーツが包んでいる。

 市街地に侵入後も姿を隠そうとしないどころか、道路のセンターライン上を悠々と歩き、時折足を止めて周囲を観察していた。このまま進めば河川敷の緑地へと到達するだろう。

〝――単独で挑発?〟

 好都合ではあった。市民の避難とこちらの準備時間を稼ぐことが出来る。加えて、付近一帯の索敵は既に完了している為、罠の心配はなかった。唯一、捜査課の暴発が懸念されるが……。

 モニター上のグレイを国見は凝視した。一見無防備そうに感じられる動きには無駄が無く、所作しょさが洗練されている。何かしらの訓練を受けた者の身のこなしだった。侮るべきではない。

「――捜査課が対象の確保と武装の使用許可を求めています」

 やや事務的な色を滲ませオペレーターは続けた。

「許可を出しますか?」

 小さく吐息を漏らし、国見は即断する。

「接触、発砲ともに許可出来ません。追跡と自衛に徹するように」

 挑発に乗ったわけでも、功を焦っているということでもないだろう。だが、先日の一件以来、捜査課がグレイに対して敵意を募らせているのは間違いなかった。

 それでも、対象がグレイと判明したからこそ、自衛以外の戦闘を許すわけにはいかない。彼らは、特殊技能と武装を持たない警官が対処可能な相手ではないのだ……。


「特務隊の現在位置は?」

 部屋の後部にある指揮所から国見の声が響く。

「03、04、08が最短です。現着まで2分。12、22、32は1号を南下中、池上を通過します」

 オペレーターの報告とほぼ同時にスクリーンの情報が更新された。航空管制施設を思わせるオペレーションルームの正面には巨大なスクリーンが3枚、10台以上ある机にはそれぞれに複数のモニターが設置されている。

「そのまま12班は大橋を渡り対岸へ。

 03班に通達、15号から緑地へ向かい、90秒で対象の捕捉を」

 指示を出しつつ、部隊の構成と能力を反芻はんすうする。

 川越しの挟撃となるだろう。グレイに対して水域は障壁とならない可能性が高いものの、河川敷の地形を利用すれば、こちらは伏兵からの迎撃戦を仕掛けられる。

 配置する12、22、32は最も応用力の高い組み合わせになる。隠密行動を見破られた場合でも地勢の優位を生かし、対象の行動を阻害、封じ込めが可能なはずだ。

 戦端を開く03、04、08は部隊最強の矛だ。能力に懸念はない。例え相手が異能であろうとも、否、異能であればこそ力を発揮し、目的を達成する。

 予備戦力の不足が不安材料だが、対象は一体に過ぎない。特務隊員は単独でもグレイに対抗しうる猛者もさたちである。体制は万全と言ってもいい。

〝――いける〟

 まなじりを決し、国見は正面を見据えた。

「総員に通達」

 強い意志を感じさせる張りを持った声が飛ぶ。

「03班が接触後追い込みをかけ、12班と河川を障壁に対象を緑地に拘束。戦域を限定させます」

 市街戦を想定していた包囲網を縮小させる必要があった。

 守勢から攻勢へ、状況を変化させ主導権を確保する。

「捜査員はただちに第二種まで前進。警官隊は引き続き市民の保護を優先し、完了した班から包囲網へ参加を」

 国見の言葉を引き継ぐように報告が入った。

「――03班、対象を確認しました。待機中です。12班、まもなく配置につきます」

 オペレーターの手が激しくコンソール上を動き、スクリーンの配置図が更新された。

「――一般市民の退避完了しました」

 河川敷東岸にある緑地を中心に、半径約1キロメートルにわたる円形状の包囲網が構築されつつある。

「対象が緑地に近づくまでは距離を取るように。12班の配置完了後、03班は突入開始――」

「課長!」

 突如、別のオペレーターが声を上げた。息を呑むような気配が伝わってくる。

「課長! 観測より報告です。ヒメに反応があります!」

 ややかすれた語尾が、一瞬にして静まったオペレーションルームに染み渡っていった。


        ◇


 12班を乗せた軽装甲機動車は大橋を通過後沿線道路に入り、緑地の対岸へと到着した。

 赤色灯を含む全てのライトとサイレンは消され、ハリブリッド仕様のエンジンはディーゼルを止め電気モーターだけを駆動していた。

 付近は既に避難指示が出されており、吹き抜ける風と川音が、ほのかな月光に照らされた堤防を支配している。

「鉄橋の方はどうしましょうか?」

 横津悠真よこつゆうまの問いかけを無視し、北見暁崇きたみあきたかは河岸へ向かった。慌てた様子は全くなく、滑るような足取りで音も立てずに進んでいく。

 横津も応えを期待していたわけではなく、念のために確認をしただけだったが……。緊張を紛らわそうとしたことは見透かされているだろう。もちろん、後ろに立つ彼女にも。

「ジンさんが居るし。心配いらないわ」

「……そうですね」

 ばつの悪さを隠すように横津は続けた。

「こちらが先に接触する可能性はないんでしょうか?」

「ないでしょうね。逃走が目的なら市街地から出ないでしょうし」

「戦いたがっている?」

 自問のような呟きが漏れる。

「それを見越しての配置でしょうね」

 高峰紬たかみねつむぎはそこで会話を切り、前髪に隠れていない右目で横津に行動を促した。

 市街地用迷彩服にコンバットベストという出で立ちだが、彼女の物腰は柔らかい。穏和な表情に浮かぶ青みがかった瞳は艶を含み、微風に揺れる湖面を連想させる。

 赤面しているであろう顔を隠すように、横津は駆け出した。

 ――視線を移した先の川面を風が滑り、下弦の月には雲がかかりつつあった。


 徐々に視界を奪っていく闇の縁に立ち、北見は気配を探った。

 対岸の緑地に何者かが潜んでいることは間違いなく、無線の内容はそれがグレイであることを告げているが、彼の感覚はまだ対象の実態を掴んでいなかった。

 迅速果断じんそくかだんを旨とする03班の動きにも迷いが感じられる。

 状況報告に何ら不自然な点は無かったが、違和感が拭えなかった。何かがおかしい。

「――やむを得ないな」

 和装の術士は即断し、ただちに行動を開始した。

 やや強くなった風にはためく純白の狩衣かりぎぬが、ひとえの朱を見せている。

 袖と裾は短く、袴も細くアレンジされているが、優美さはいささかも損なわれていない。それは彼岸の蝶のごとく舞っていた。

「……下位擬人」

 たゆたうように。さまようように。詠われる呪文にのせて、整えられた指先が術式を描く。

 言の葉が導き手となって全身を巡り、紡ぎ出された力が、呪印に従い符に仮初めの生を授ける。

 やがて周囲に鱗粉が踊り、幾筋もの光跡を残して対岸へと向かった。


 軽装甲機動車の後部ハッチから狙撃銃M1500改を取り出し、高峰は狙撃の準備を行っていた。

 バイポッドを起こし、車のボンネット上に固定。銃口を地上に向けて作動確認をした後、マガジンを装着する。

 ボルトアクションで初弾を装填した時――川面の光を目にした。

「もう動いたの!?」

 高峰は驚きを隠せなかった。あれは北見が放った呪符に違いない。式神として索敵に向かわせたのだろう。

 川面の光と気配は対象からも必ず感知される。彼にはこちらの存在を秘匿ひとくする気がないようだ。

 伏兵であることを初手で放棄し、12班のリーダーはそこが舞台上であるかのように舞い踊り、術式を展開していた。

「あれは踊符陣ようふじん……」

 ただちに想定を変更しなければならなかった。狙撃から中距離戦闘へ。車内に駆け込み、装備をM1500改からアサルトライフルである20式小銃改に変換、素早く移動を開始した。

 北見が威力偵察を選択したことに疑いはない。光る呪符は、巧みに潜伏する対象を誘い出す誘蛾灯だ。

 当然、相手からの反撃が予想されるためサポートが必要になる。

 対象が遠近どちらの戦闘を仕掛けてくるか現状では判断が下せない為、適応範囲の広いアサルトライフルを選択。更に、迎撃に備えて散っていた戦力を北見が構築する陣に集中しなければならない。

 完成させてしまえば、彼の陣は強力無比な砦と化すはずである。

「32です。12に合流します」

 無線から横津の声が響く。いち早く北見の意図を把握し即応していたのだろう。

「22、了解」

 索敵と陣の敷設に集中しているであろう北見からの反応はない。

 堤防を駆け下りつつ高峰は周囲を警戒する。不自然な気配を逃さぬよう、研ぎ澄まされた知覚が環境音を排除していく。

 草地を駆けるタクティカルブーツ。セイフティが解除される銃。川面に舞い散る呪符。ささやくような呪文――

 左目が僅かに熱を帯びている。何かに反応するかのように。

 ――ひと時、風は収まり、月を隠す雲は動きを止めていた。


        ◇


「映像、乱れます!」

「対象、緑地手前で見失いました!」

 立て続けに入る報告に一瞬躊躇ためらった後、国見は新たな指示を下した。

「……両班にヒメの反応があったことを通達。警戒レベルを上げ、索敵を最優先に」

 続いて端末を操作し、観測課との直通回線を開く。

 応答までの一瞬の間、かすかな希望と膨れ上がった不安を震える指先に隠し、過去の事例を振り返った。

 ヒメの観測を始めてから、反応が測定されたのは三度。

 一度目は、強度のコロージョンが発生した時。

 二度目は、〝彼〟が再び姿を見せた時。

 そして、一名の捜査員と二名の特務隊員が犠牲となった、あの時……。

 抑えきれない震えが、憤怒や悔恨からではないことを自覚する。

「――感知ポイントは四カ所です。強度は――」

「こちらでも確認しています」

 目の前のモニターを一瞥し、国見は相手の言葉を遮った。

「データをクリーニングして過去の観測ケースとの共通点を抽出してください」

 正面の大型スクリーンに目を移し、特務隊員を示すマーカーを強く見つめた。

「――今すぐに!」

 今はまだ、それは鮮やかなグリーンに灯っている。


        ◇


 襲撃を受けたのは、本部から警戒を促す通信が入った直後だった。

 横津の眼前の闇が突如として裂け、鋭い槍状の物体が突き出された。鈍く光るそれは腹部を突き刺し、一瞬でボディアーマーを破壊して背面まで貫通すると、徐々に光を失いながら人の腕へと姿を変えていく。

 宙に生えた腕は、貫いた獲物の重さを確かめるように開いていた掌を握りしめた。応じた肉体はぶるりと戦慄わななき、押し出された鮮血が主の唇を紅に染めていく。

 やがて、裂けた闇をこじ開けて人型の全身が現れる。

 それは横津の身体を軽々と蹴飛ばし、刺さっていた腕を引き抜いた。

 回転しつつまき散らされる血しぶきは柳の枝のように連なって宙を舞い、その幹は今にも倒れそうなコマのごとくゆらゆらと揺れる。

 驚愕に見開かれた瞳。力を失った四肢。

 頭部が後方へ倒れ、傀儡くぐつにも似た喉首を天に晒す。その影は朽ちた案山子を地に描いた。

 ――飛び散る血肉が地面を染め上げようとした時、異変が起きる。

 横津悠真を形作っていた全てのものが多量の護符へと姿を変え、まるで全身を覆う鱗が剥がれていくかのように舞い散ったのである。

 散開し宙を漂ったそれは、海中に群れをなす魚群さながらに集結を始め、ひとつの巨大な生物を思わせる姿をくねらせ遊弋ゆうよくする。

 そして、襲撃者の前に立ちはだかると、一枚の壁となってその行く手と視界を遮った――


 北見は動くことが出来なかった。

 呪符を用いて構築した水上の陣に立ち、ただ対象の気配を探ることしか出来なかった。

 ひたひたと、時折それは北見の知覚に触れては消えていく。

 作り上げた半径20メートルの円陣、その外縁に姿を見せることなく接触するものがいた。

 水面に僅かな波紋を立て、一瞬だけ気配を感じさせるそれは、あざ笑うかのように陣の周囲を不規則に移動していた。

 ――索敵に出した式神は対岸へ到着すると同時に消滅。その動きに気を取られた瞬間、横津が襲撃され、自身は身動きの取れない状況に置かれてしまっていた。

 明らかに対象は待ち構えていたのだ。

 今もこちらから動き、正確な位置を把握されれば、横津と同様の手段で攻撃を受けるだろう。

「……単体ではなかったのか」

 拭うことすら適わない額の汗が、呪符の陣を薄く覆う水面に落ちていく。

 横津たちの戦闘は終わっていない。援護が期待出来ない現状では、ただ耐える他無かった。

 陣への接触は続いている。前後左右を、不規則に――時には同時に。

 もはや、対象の数を推し量ることすら難しい……。


 5・56ミリ特殊強装弾が護符の壁を貫いたのは、それが完成した直後だった。

 フルオートによる20連射が1メートル四方の範囲内に集束、苛烈な破壊力を持って対象に襲いかかった。

 強装弾が発生させたソニックブームが川面を渡り、堤防に反響音を奏でる。

 ズタズタに切り裂かれた護符が、紙吹雪のように宙を舞い、風に流されて対象のベールを剥いだ。

「――――ッ!」

 衝撃波と反響音が去り、僅かに静けさを取り戻した河川敷。200メートルあまり離れた草地に、高峰は膝立ちの射撃姿勢を保っていた。

 ……その呼吸が乱れる。

 驚愕と戦慄。疑心と困惑に。

 対象は悠然とそこに立っていた。半身を消されるほどの傷を負い、全身から血しぶきをあげながら、悠々と、横津悠真の顔でそれは嗤っていた。

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