【儀識】始祖信仰について
1.人類の始祖とは識格上の問題である
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かの山の中腹に妖怪の噂あり。人の姿を借り、言葉を持たず、迷子を拐すと長らく伝えられてきたが、その正体は「人類の始祖」であったという。全人類と縁緒で繋がれ、全ての人類にとって無条件の家族であったそれは、識格無き乱世に妖怪へと変貌を遂げた。
妖怪は新たな家族を創ろうと子を攫ったが、一七度目の犯行で反撃に遭い、仏になった。その後の死体解剖より真実が詳らかとなり、文字通りそれはもう一度、仏になったのだ。
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異邦人アイザーの旅行記『奥の風俗』がそれに詳しい。
――辺り一帯は森閑としていた。通りすがりの商店には看板の錆びた八百屋や診療所がひっそりと営業している姿が見られた。地元有数の神社「
聖域と都心との境界は、地名上では大きくないものの、文化圏としては明確に存在したし、それは
神社の敷居を跨ごうとした折、別の参拝者が私に声をかけた。早蕨柄をあしらった着物の佳人で、私の不作法を説くために話しかけたという。
彼女の言う作法に倣って慇懃に境内へ入ると、視線の先には堆い参道の石段だけがあった。石段は二〇〇〇段にも及び、頂上に拝殿を構える。五〇〇段ほどでかね折れを繰り返しており、下腹からは拝殿どころか中腹の様子すら伺えなかった。
私は件の女性と足並みをそろえて石段を上がった。中腹の踊り場には丸太の腰掛けがあり、私たちは一息の憩いのためにそこに座った。その折、彼女からこの神社の由緒を詳しく聞くことができた。
そもそも、この神社に祀られているのは人類の始祖だという。三百年ほど前、この地域に不徳の症状が蔓延した渦中に顕れた旅客で、患者を巡っては奇蹟によって病気を治したと言われる。それは当時の地域住民の心の拠り所となったそうだ。
石段の頂上に建った金細工の派手な楼門を超えると、視界いっぱいに広がる玉垣の木柵の隙間から拝殿の姿は見えた。
蛇腹を思わせる漆黒の甍、軒飾りの獅子の彫刻と支柱の四方を這う萌葱色の蔦模様。荘厳さの中に混ざる鮮烈な色合いが自然に拝殿の奥へと視線を誘い、私の意識を半ば宙に浮いたような調子にした。庇から伸びた巨大な影は参道から続く木漏れ日と葉陰とのモザイクに接合し、玉垣の内側を全体的に暗いトーンに保っていた。真昼の時分に夕刻を錯覚したほどであった。
件の女性に手ほどきされながら参拝をしたが、この地で語られる人類の始祖に馴染みのない私にとって、それは通り一遍の作業でしか無かった。しかし、参拝を終えると自然と胸がすくような不思議な気持ちになった。
参道の下りにて、件の女性はこの地に伝わる始祖伝説の続きを語ってくれた。
人類の始祖が不徳を治療できるのは、全人類に通底する「それ」に彼が触れられるためだという。「それ」は人間の与り知らないところで常にその家族関係の正当性を規定し、近い性質の者を惹き合う。そこに村落や集落が起こり、境界を持った土地が顕在化する。境界同士の接面が滑らかならば組織は広がり、より大きな境界の縁に囲われる。「それ」は共存の正当性を規定するのである。
「それ」にもまた不全なることがあり得る。「それ」が無ければ、人間は自らを除く全ての者に親しみを感じられず、精神的な孤独に至る。人類の始祖は、後天的な「それ」不全に対する一種の救済となり、孤独の
驚くべきことに、この地で言う人類の始祖というのは、歴史現象的な意味でもっとも早く生まれた人間を指すわけではないという。
人類の始祖とは識格上の問題である。識格上の原初に誕生した者が人類の始祖であり、それが現象としていつの御世に降臨するかは別の話ということだ。熊笹の人間にとって、混乱の世に顕れた人類の始祖は、識格上はつねに
彼女がなぜそんなことを知っているのか、私はそれを訊ねたが、特段に返事は無かった。人類の始祖の顛末についても彼女は何も語ることが無かった。(拙訳)
現在、熊笹縣護識神社は火災の被害に遭い、門を閉ざしている。
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