12 田吾作の剣 その二
蛇空の下、ガス灯の明かりがぽつりぽつりと見えて、小さな村が照らされている。
田吾作は村に背を向けて、威勢の良い掛け声と共に刀を上から下へ振り下ろしていた。
刀は昨日辰也が倒した野盗から田吾作が失敬したという。盗みは良くないことだと考えている辰也であっても、相手が散々悪道をし尽くして来た野盗であれば、一振りの刀程度は目をつぶるのだ。
何度も繰り返す内に呼吸を荒くし、動作も怪しくなって来た田吾作。初めての剣術、加えて軽い木刀ではなく重い真剣で行っている。慣れるまでは疲労が早く来るのも無理はない。
「止め」
辰也の合図で素振りを止めた田吾作は、全身から汗が吹き出している。いかにも苦しそうに息を吸っては吐き、刀を杖代わりにして力なくもたれかかった。
「田吾作。剣術とは長い時間をかけて研鑽するものだ。少ない時間で教えられることはそう多くはない。だから、この面打ちのみを繰り返せ」
「ほ、本当にこれで、いいんでしょうか?」
「はっきり言って多くの技を短い時間で習得するのは不可能だ。できる限り覚えたとしても、技の練度はどうしても低くなる上に、指導者がいなければ悪い癖がつく。ならばたった一つだけを徹底的に習熟した方が強くなれるだろう」
「わ、わかりました」
「今日の修練はこれで終わりだ」
「は、はい。ありがとうございました」
田吾作は息も絶え絶えに礼をした。だが疲労は限界にきているらしく、へたり込んだまま動けない。そんな彼に近づくのはふさ江だった。
「お疲れ様です、あなた」
彼女は二枚の手拭いを持っていて、その内の一枚で田吾作の汗を丁寧に拭いとる。これだけを見ればおしどり夫婦といった風情なのだが、辰也の脳裏には昨晩のふさ江の姿が浮かんでいた。
「辰也様も」
田吾作を拭き終えたふさ江は、今度は辰也に向かう。一見無邪気な笑みを浮かべているけれど、女の色を感じさせる艶っぽい瞳である。
田吾作の方を見ればそれが当然だという風に辰也を見、腰に差しているハナからは強い圧が発せられていた。
「……自分で拭く」
と、辰也がふさ江が持っている手拭いを少し強引に奪い取ると、彼女は至極残念そうに「あら」と呟く。その何気ない所作の一つであっても、どこか女が男を誘う蠱惑的なものを発している。
「では朝食にいたしましょうか」
汗を拭き終えた辰也から手拭いを受けた取ったふさ江は提案した。
そうして、恐らくは夜。
自身の修練を終えた辰也は、村から二人出てくるのを見た。
一人はふさ江だが、もう一人は田吾作ではない。名も知らぬ村の男だ。
男はふさ江の腰を抱き寄せて体を密着させ、空いた手を胸元に忍ばせている。ふさ江に嫌がる様子はなく、むしろ進んで受け入れていた。うっとりした顔でお互いに睦言を囁き合っている。
色事に鈍い辰也であっても、これから二人が何をするのかは一目瞭然だった。
不意にふさ江が流し目でこちらを見る。口角が小さく上がった。辰也が見ていることに気づいているのだ。そうして辰也に見せびらかせるように、ふさ江は男の頭を抱えて接吻を交わす。
長い接吻だった。頭部が僅かに揺れ動いている。離れては接近する。それを繰り返す。
男は興奮したのか、ふさ江の着物を脱がそうとしていた。だがふさ江はそれを押し留め、何やら指で示して小声で話している。男はふさ江の細い手をひっつかんだ。それから半ば強引に彼女を連れて歩き出す。
その時、またもふさ江は辰也を見た。熱っぽい瞳は辰也を誘う様でもある。まるで逃した魚は大きいと、そう言っている風にも見えた。
やがて二人が闇の中に溶け込んで辰也の前から姿を消した。
「……呆れた」とハナ。「とんだ淫乱ね、あの人」
明らかに嫌悪の感情を含めた声に、辰也は苦笑する。
「蛇気の影響というのは、どう作用するか分からんな」
「……田吾作さんは知っているのかな、この事」
「恐らく、知らぬであろうな。でなければ人目がつかぬ所に行こうとはせぬだろう」
「それに辰也のこと見てた。まだ狙っているよ、あの人」
「ああ。そうだな」
「……ちょっと、あの人の誘惑に乗らないでよ」
「問題ない。俺がハナしか見ていないのは、ハナ自身が一番よく分かっているだろう」
「……でも、私、刀だよ」
「ああ。だがお前ほど魅力的な者は他にいない」
「……どうしよう。私の持ち主は刀しか愛せない変態だなんて……。花絵が知ったらどう思うかな……」
「そう言う割には嬉しそうな声だな」
「だ、だって、嬉しいんだから仕方ないじゃない!」
「声が大きい」
「ふさ江さん、今日も違う男の人を連れてる……」
あれから三日ほどが経った。三日とも、ふさ江は違う男を日替わりで連れてくる。ハナは信じられない様子だった。
「田吾作さんはあんなに一途なのに」
田吾作はふさ江を守るためだと、とても真面目に修行をしている。その強い意志は、辰也も尊敬を覚えずにはいられない。
だがだからこそ、ハナはふさ江の裏切り行為が許せない。それが例え蛇気の影響のせいだとしてもだ。
さらに許せない点は、辰也に色目を使ってくることである。今日もふさ江はわざわざ辰也の目に入るよう場所を通っていく。色っぽい目を向けることも、見せ付ける様に熱い接吻を交わすのも忘れない。辰也と一夜を過ごすことを諦めていないのは明らかで、ハナは気が気でなかった。
もしも何かの間違いで、あの女の誘惑に辰也が乗ってしまったら?
そんなことはあるはずがない。そう思うのだが、万が一ということもある。
頭があればとうの昔に抱え込んでいるほど悩むハナ。
「おい……おい、ハナ。……ハナ!」
悩みすぎてハナは辰也の声にすらすぐに気づけない。
「はっ! ご、ごめん辰也。何?」
「気付いていないのか。何かが近づいてくる」
「え!?」
慌てて気配を探ると確かに誰かが近寄ってきている。気の大きさから、恐らくは人。
「これは……もうふさ江さんが戻ってきたんじゃ」
「何を寝ぼけている」辰也の声は緊迫感を帯びている。「それならこそこそと動くはずがない」
ハナは言われて初めて気付いた。確かにこの気の持ち主は警戒しているのか、歩みは遅い。それとは別に二つの気が重なっているが、こちらがふさ江と村の男だろう。
「どうする?」
ハナが聞くと、辰也は考える素振りを見せた。
「ひとまず何者か調べよう」
「うん」
辰也は目を閉じて集中した。体内に流れている気を限りなく薄くしていく。それはあたかも薄氷の如く。
剣宮流練気法薄氷。こうすることにより自身の気配を殺し、相手に気づかれにくくするのである。
あとは音を立てずに進むのみ。
辰也は慎重な足取りで目標まで回り込む。
やがて後ろ姿が見えた。相手は男である。油断なく歩み、視線は右に左に忙しなく動いていた。腰に刀を据え、目つきは鋭い。恐らくは野盗であろうが、どうやら何かを探しているようだった。
「おい」
辰也が声をかけると、相手はびくりと反応して振り返る。
「貴様! いつの間に!」
男は刀を抜き払い、動揺した様子で辰也に刃を向けた。だが辰也は眉一つ動かさずに相手を見据えている。
「野盗か。そこで何をしている」
男は答えない。ただ切っ先をぶるぶると震わせるのみ。
辰也は殺気を放った。たじろぐ男。
「答えろ」
ハナの柄に手を掛ける。答え様によっては斬る。そう脅しをかけた。
「い、言えぬ」
「……なに?」
男は後ずさった。隙あらば逃げようとしている。辰也は、ずい、と近寄った。
「……て、偵察だ」
ついに男は観念したのか、しどろもどろに喋る。
「偵察? なんのためだ。村を襲う気か……」
「そ、それもある。だが……」
「だが?」
「凄腕の用心棒がいる……と聞いた。それを確かめに行け、とお頭に言われたんだ」
「ほう……。それは、誰だと思う?」
「お」
「お?」
「お前……だ」
「正解」
辰也は凄絶に笑った。
「ひっ」男は小さく悲鳴を上げて、「た、頼む。命だけは」
と懇願する。
「安心しろ。命ばかりはとらぬ」
「じゃ、じゃあ」
「だが、ただ帰すのも面白くない。そう思わないか?」
「……な、何をすればいい?」
「話が早くて助かる。なに、少し簡単な伝言をお頭とやらに頼みたいだけだ」
「で、伝言?」
「そうだ」
辰也が何やら言うのを、ハナは黙って聞いていたのであった。
村から少し離れた場所に林があった。その林の中、篝火が照らすのは、いくつもの天幕と、木に繋がれた何頭もの馬である。見張りに立っているのは粗末な衣類を着た男たちで、手に松明を持ち、腰に刀をぶら下げていた。
そこに一人の男が分け入った。村を偵察していた所、辰也に見つかってしまった男である。
「もう帰ってきたのか。随分と早いな」
「あ、ああ」
いかにも焦燥した様子で彼は言う。それを見張りは怪訝そうな顔で見返した。
「どうした? 何かあったのか」
「そ、そうだ。早くお頭に伝えなければ!」
明らかに強い剣幕に押されて、見張りは奥に通した。
途端男は駆け出して奥に向かう。そこには一回り大きな天幕が建っている。入り口に二人立っているが、彼らの静止を振り切って中に入った。
いかにも屈強な男が中央にいる。上半身ははだけており、鍛え抜いた肉体を晒して酒を飲んでいた。分厚い胸筋や腹筋には、刀傷や矢傷の痕がいくつも刻まれ、多くの戦闘を物語る。
周囲に女を五人侍らせ、そのうち一人は酌をし、他の女は男に抱きつくなり、口付けを迫るなりしている。中には着物が半ば脱げて、素肌を堂々と見せている女もいた。
特筆すべきは男の背後。身の丈を越す巨大な斬馬刀が突き立ててある。普通の人間が振れるとは思えぬほどの大きさだ。
「お、お頭!」
男は慌てて声をかけると、お頭と呼ばれた中央の男は胡乱げに睨みつけた。
「何だ?」
お頭の声はささくれだっている。邪魔をされたのが気に入らなかったのか、いかにも機嫌が悪い。
「例の村の偵察を行っていた所、話にあった用心棒に見つかってしまいました」
「む」
と、お頭はますます顔の険を深める。
「お、男は自らを剣宮辰也と名乗り、自分にお頭へその名を伝えるよう頼まれました」
「……その名前を、もう一度言うてみろ」
「は、はっ。剣宮辰也と」
お頭ははっと目を剥いた。
「くくく」唐突に笑い出す。「ははははははっ!」
男も、女たちも、お頭の変貌ぶりに異様さを感じ、ただただ怯えた眼を向けていた。
「これは、これはなんたる偶然! 話を聞いたときはもしやと思うたが、まさか予感が的中しようとは! 剣宮辰也! 初めこそあまり興味は湧かなかったが面白い! この俺が、その首落としてしんぜようぞっ!」
お頭の名前は大庭久郎。かの蛇剣衆の一員である。
「いったいどう言うつもりなの、辰也?」
辰也はいつもの木に背中を預けて腰を落ち着かせると、ハナは聞いた。
「これで相手が蛇剣衆かどうかが分かる」
「そうじゃなくて、蛇剣衆だったらどうするの、って話だよ。もし本当にそうなら、みんな辰也に襲いかかってくるんだよ」
「それが狙いだ」
「もしかして、標的を村から辰也に切り替えて巻き込まないように……?」
「……いや、どうせ襲われるとしても、それは早いか遅いかの違いでしかない。だが移動中に後ろから不意を打たれては面倒だ。だから、迎え撃つ」
「それも本当のことだろうけど……」
「心配するな、ハナ。俺たちは勝つ」
二の句を告げさせない断定に、ハナは言葉を失った。
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