10 蛇擬態 後編

「右斜後ろ上!」

 ハナの指示に従って辰也は刀を振るう。

「左真横!」

 しかし俊敏な弘太郎に当てられない。

 それは相手も同様で、辰也に致命的な一撃を入れられないでいる。今や戦闘は膠着状態であった。

「後ろ下!」

 そしてまたも外す。

 だがハナの指示がなければ今の状況にすら届いていなかったろう。それほどまでに弘太郎が操る蛇剣術蛇擬態は強力だった。

 弘太郎もまた今の状況に焦れているのか、ぐるぐると周囲を回り始める。

 辰也は緊張した面持ちで周りを見た。ガス灯で照らされた広場は多くの死体が横たわっている。その間を弘太郎は蛇擬態で蛇の如く進んでいるのだ。おまけに相手の身長は低く、そのために見つけにくくなっている。ハナが指示していなければ、おそらくすでに殺されていたに違いない。

 弘太郎が再び飛びかかって来た。だがハナの指示で難なく防ぐ。そればかりか二人の連携の精度も上がって来ている。

「右斜下!」

 死体の下に潜り込んだ弘太郎が飛び出て足元に迫る。だが指示はより精度を増した。辰也はすぐさまハナを振り下ろす。

「ぎきゃっ……」

 今度こそ手応えがあった。小さく悲鳴を上げた弘太郎が攻撃もせずに通り過ぎて立ち止まる。見れば弘太郎の左の肩口から血がどくどくと流れていた。

 傷口は浅く致命傷にはなり得ない。だが一撃を与え相手に負傷を与えたのは大きな意味がある。

 呻き声を上げ、威嚇するように弘太郎は辰也を睨む。けれど辰也はあっさりと視線を受け流し、慎重な足取りで近寄っていく。

 弘太郎は自らの危機を察したのか、反転し蛇擬態で一目散に逃げ出した。肩を負傷しているとは思えぬ驚くべき速度だ。

「逃げた……?」

 とハナが声を上げた。

 そうして気配を追うハナであったが、弘太郎は村の外に出ていく。問題なのはその方角だ。辰也たちが向かっている方角と合致していたのである。


 辰也は村人一人一人を埋葬した。生き残っていた黒蛇にもついでに止めを刺す。この間、無言である。辰也も、ハナも。

 全ての作業を終えると合掌する。と、辰也は、がくりと膝を折って倒れかけた。

「……大丈夫? 無理をしすぎよ……。もう休んでよ……」

「ああ……そうする」

 二歩、三歩と歩き、ここで本当に限界が来た。辰也は家の壁にもたれ掛かり、そのままずるずると尻を地面につける。そうして辰也は眠った。

 ハナはその間、周囲を警戒し続ける。いつ敵が襲い掛かってくるか分からないからだ。それに刀になってから眠る必要がなくなってしまったのもある。辰也には言っていないけれど、彼が眠っている時はいつだってハナが周りを気にしていた。そして自分の力のなさを痛感する。

 所詮自分は刀でしかなく、こう言う時声をかける以外に彼を慰めてあげることができない。一緒に埋葬する手伝いをできないのも歯痒かった。刀になることで彼の力になれたこと自体後悔していないけれど、同時にできることが少なくなったのは想定していなかったのだ。

 そうしてまた、もうすぐ辰也は目覚める。彼の眠りは島の外に出てからいつも浅い。満足に眠れた日がないことをハナは知っている。

 だけどハナは彼に安息を与えることができない。刀として敵を斬る以外に出来ることと言えば、

「おはよう! 辰也」

 今日も空元気を振る舞って、辰也を元気付けることだけだろう。それだって、どこまで彼の助けになっているのかハナには自信がないのだけど。




 村から出る前に、辰也はもう一度合掌した。そうしてようやく出発する。

 道の上には血の跡が続いていた。弘太郎のものであることは間違いない。あれから随分と時間が経っているから、すでに完全に逃げおおせているか、傷の手当てを終わらせてどこかで待ち伏せをしているかもしれない。

 どちらにしろ血の跡が辰也が進む方向と合致しているのは問題だった。

 警戒を解かずに道を進む。血の跡はやはり続いている。いつもよく喋るハナも、今回ばかりは口数が少ない。通りすがる人は見当たらず、冷たく吹く風は弱々しい。聞こえる音は土を踏み締める音ぐらいだった。そして辰也の胸はざわついている。

 一刻ほど歩いた後、辰也は前を見据えて足を止めた。前方に広がるは森林である。蛇の流れはこの森の奥へと続き、同時に弘太郎の血も森の中に入っていた。

 迂回をするか、と辰也は考える。だが蛇傀列島の地理を知らぬ辰也は迂回路など分かるはずがない。誰かに聞こうにも誰もいない。結局は前に進むしかないと定めて、辰也は森の中に入った。

 幸いにもガス灯は森の中にも建っていて、道も作られている。だから迷う心配はないのだが、

「まずいよ辰也」ハナの声は危険を知らせている。「そこら中に微弱な気配ばかりだ。これだと弘太郎の気配が分からない」

 予想はしていた。森の中は生き物の宝庫だ。そこら中にいて然るべき。そして恐るべきは蛇擬態。気配すら蛇に似せてしまうのだ。尋常の技ではない。

 辰也は小さく頷き歩を進める。血の跡もまだ続いている。

 しかしそれも僅かな距離の間だけだった。小さな小川が流れていたのだ。

 血の跡はそこで途絶えてしまった。川の水で体を洗い、簡単に治療して血も止まっているに違いない。

 これで完全に弘太郎の居場所が分からなくなった。確実に森の中のどこかで息を潜めて辰也たちを待っている。だが沢山の生き物に紛れているおかげで、ハナには何処にいるのか分からない。

「……ごめんなさい……私、本当に役立たずだ……」

 落ち込んだハナの声。

「そんなことはない」と、辰也は否定する。「俺一人であれば、どれほど心細いことか。ハナがいなければ、それこそとうの昔に絶望している。それに諦めるのは早い。潜んでいる場所は分からずとも、襲いかかる気配を察することはできる」

「それは……辰也にも察することができると思うけど」

「だが俺よりもハナの方が速く察することができる。一秒にも満たぬ差であっても、その差が生死を分かつ」

「私に、できると思う?」

「できる」

 辰也は即座に断定した。それは強い信頼の現れだった。

 ハナはすぐに返事ができない。あまりに強い断定に面食らったのである。

 その信頼に応えなければ、辰也に惚れた女としての矜持がすたる。何よりも妹の花絵に顔向けができなくなる。ハナは決心した。

「分かった。私、頑張るよ。でもごめんね。集中するから、お話はできないよ」

「心得た」


 小川を渡り先へ行く。

 ハナは自らの感覚を研ぎ澄ませる。森の中に息づく気を感じとる。

 その中でも一際大きな気は辰也。暖かくて、大きくて、一番大好きな気だ。

 ともすれば、その気だけを感じていたい気分になるハナだけれど、今回ばかりはそうもいかない。自分を中心に、網を広げるみたいに感覚を広げていく。

 本当に多くの、それこそ数えきれないほど沢山の気がある。それでも人の気だと断言できるのは辰也のだけ。あとはあんまりにも小さな気。

 この気の中のどれかが弘太郎だ。しかし全てを追いかけることは不可能である。

 ハナは考える。明らかに弘太郎でないものは無視すればいいのだ。記憶を探り、気の大きさを思い出す。そうして違うものを一つずつ意識から排除する。だがそれでもまだ多い。次に進行方向から大きく外れているのを排除。絞れて来たが、それでも数は百以上。

 黒蛇ジャジャの影響によって蛇は多く生息している。森であれば尚更だ。蛇擬態によって気すら蛇と酷似している弘太郎はその中に紛れている。

 ハナでもこれ以上絞り込むことはできない。ならばこの全ての気を注視する必要がある。

 できるのだろうか、とハナは不安になった。失敗すれば訪れるのは辰也の死。それは桃源島が黒蛇に犯されることも意味している。強い重圧がハナにのしかかかった。

 私たちならできるとハナは辰也によく言った。それは励ます意味もあったけれど、今となればよくも軽々しくそんなことが言えたものだと思う。

 今まで刀として辰也に振るわれることばかりだった。それはハナ自身がそうありたいと願った結果であるし、刀としてできることは少なかったこともある。だが今や、辰也と島の運命が己にかかっていた。

 この重圧をいつも辰也が背負っていたのだ。ともすれば折れてしまいそうなほど重く、ハナは自らが甘えていたことに気づいた。

 藁にもすがる想いで辰也を見る。

 ハナは鞘に納刀されていた。柄に右手を添え、いつでも抜けるように構えている。ガス灯でいくらか照らされているといえど、暗い道を進む足取りに淀みはない。

 ハナに対する全幅の信頼がなければ、ここまで迷いを見せないはずがない。

 ここで応えなければ、彼の刀としてもいる資格がなくなってしまう。

 ハナは腹を決めた。

 より強く深く集中する。全ての気を把握し、一つ一つの動きを注視した。それは一刻一刻経つだけで精神力を削っていく行為。

 そして見つける。

 先ほどから微動だにしないたった一つの気。初めは食べるために獲物を狙い待っているのだと思った。そうした気は他にもいくつもあった。だが観測し始めてから今まで全く動かない気はただ一つだけ。しかもそれは辰也の進路上と被っている。

 もしかしたら間違っているかもしれない。不安に思う。しかし他に有力な候補は浮かばない。

 やがて辰也はその気の近くまで来た。もはや時間はない。

「左斜め下。藪の中」

 ハナは告げた。その刹那、藪の中から何かが飛び出す。

 ほぼ同時に辰也も動く。膝を折り曲げ腰を可能な限り落とし柄を右手で握る。

「桜花一刀流居合術」

 飛び出した何かは大戸弘太郎。刃付きの手甲を交差し足を切断しようと肉薄する。

「燕」

 辰也は桜色に輝く刃を抜き放つ。地面よりわずか上を走る超低空の軌道はまるで燕の飛行。

 弘太郎の手甲が辰也に届く直前、彼の頭部が引き裂かれた。飛び散るは赤い血と脳漿。

 辰也は荒く息を吐き、膝をつく。ハナを地面に突き立てて支えにする。横目で弘太郎を見ると、身体が痙攣を起こしていた。

 何のことはない。辰也もまたこの一瞬に全てを賭けた。移動しながらいつでもハナの合図に応えられるように備え、常に気を漲らせていた。彼もまた一刻一刻ごとに精神力を削っていたのだ。それ故のこの疲労。

「さすがだ、ハナ」

「さすがだね、辰也」

 互いに同時に称え合う。それから二人して笑った。





「剣宮辰也が尾の森を抜けた」

「あら、思ったよりも遅いのね」

 艶やかで胸元が大きく開いた着物を纏う豊満な肉体の女性が、二階の窓から通りを眺めつつ応えた。右手には扇子、左手には煙管を持っている。通りを行き交う人は多く、殆どは男性である。

 畳が敷かれた部屋の中は広々としている。女が座っている背には、蛇が艶かしく大木に絡みつく様子が描かれた屏風が立ち、その両脇には華やかな花が生けられた壺が置かれていた。

「気にはならないのか?」

 女と話している人物は全身黒尽くめで外見が良く分からない。だが声の様子から男だと察することができる。

「ならない、と言えば嘘になるわね。恐れ多くも黒蛇ジャジャ様の使命だもの。それに応えるは蛇剣衆の何よりの誉。だけど私にとってはここの興業も大切なこと」

「だが……」

「どちらにしろ、この色蛇街は彼の行き道の途上にある。その途中で誰かに討たれたとしても、ジャジャ様のためになるのだからそれでよし。それにあなたも知っているでしょう? ここは私の蛇の巣。入ったが最後、骨の髄まで舐め尽くしてあげるわ」

 女は、妖艶に笑った。

「蛇姫様。来間様がお呼びでございます」

 部屋の外から少女の声が聞こえて来た。

「少しお待ちしていただいて」

「はい、分かりました」

 返事と共に、とてとてと小さな足音が遠ざかる。

「それでどうするの?」と、蛇姫と呼ばれた女が聞く。「あなたなら特別に無料で相手してあげるわ。もちろん予約客の後でよろしければ、だけど」

「遠慮しておく」

「つれないわねえ。私の値段は一晩金子一枚でも足りないというのに……あら、もういないわね……残念なこと」

 不可解なことに、男の姿は跡形もなく消えていた。

 だが蛇姫は特に気にする様子もなく、眼下の男たちを見やり、一服する。

「それにしても剣宮辰也、か。中々可愛い子だったわね。きっと女を知る間も無く修行して、使命に出たのでしょうね。真面目そうな彼のこと、旅の間も女に手を出すこともしないでしょう。本当に食べるのが楽しみだわ」

 蛇姫は舌舐めずりをした。


 同時刻。辰也は森を出てしばし歩いた所だった。

 その時ハナは背筋がぶるぶると震えるような感覚に襲われた。もちろん背筋などないのだが、気分的な問題で。

「ねえ、辰也」

「どうした?」

「絶対に、他の女の子と寝ないのよね」

「ん? それはもちろん」

「絶対に」とやけに強調する。「約束できるよね」

「あ、ああ。約束する」

「……それならいいんだけど……」

「どうかしたのか?」

「えと、その、何だかすごくやらしい気を感じたの……」

「敵か」

 すぐさま辰也は立ち止まって周囲を警戒する。無論手はいつでも刀を抜けるように備えている。

「う、ううん! 違うよ! 少なくともこの付近にはいないよ!」

 慌てて否定するハナ。

「いったいどうしたんだ、ハナ?」

「き、気にしないで。ただ何かこう、そう、女の勘よ!」

「勘か」

「そう、勘。だから気にしないで先に行こう」

「……分かった」

 怪訝そうにしながらも辰也は歩みを再開させた。

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