第228話 天の火
セロはまるで無邪気な夢の中にでもいるかのような気分だった。
何せルーシーが赤子みたいになっているのだ。普段はすまし顔でどこか
ルーシーの頬をぷにぷにしたり、「かわいいでちゅねー」と撫で撫でしたり、ギュっと強く抱きしめてみたりとまさにやりたい放題だ。
もちろん、媚薬の効果でセロのテンションが大幅に上がっていたという事情もある。
普段のセロだったなら、ルーシーにしては珍しく何らかの精神異常などにかけられたのでは? ――と、すぐに判断出来たはずだ。
「でも、こんなルーシーも可愛い」
恋は盲目というが、セロはルーシーに文字通り夢中だった。
はてさてこれが夢の中でなくて、いったいどこだというのか。何ならいっそ覚めなくてもいいとまでセロは願っていたわけだが……
「ん? 何だか……微熱が下がってきたような・・・…」
魔王城の二階食堂こと広間にて皆で夕食をいただいてからというもの……セロは少しずつ冷静に戻っていった。モタが改めて作った媚薬を打ち消す薬を飲んで、その効果が発揮されたのだ。
とはいえ、ルーシーはいまだに赤子の状態だ。それに加えて、今日の午後のセロやルーシーの精神状態に当てられたのか、不思議と皆も全体的にテンションが高い。
何にしても、セロはそんな微熱を持ちつつも、ロングテーブルについた面々を見渡した――モタはさっきからなぜか美白効果についてリリンと熱く語っている。たしかにリリンは
また、ドルイドのヌフはというと、食事中のはずなのに広間の片隅で供物を捧げて、さっきからこれまたなぜか一人きりで真剣に加持祈祷をしている。ぶつぶつと呪言を呟いているので、セロはこっそりと耳をそばだててみると、
「森が全焼しませんように。一族が焼き尽くされませんように――」
と、いかにも不穏なことを囁いていた。
さらには近衛長エークと人狼メイド長チェトリエの様子も何だかおかしい。まるで新婚初夜の夫婦みたいにそわそわとしているのだ。二人っていつの間にそんな関係になっていたの? と、セロが疑わし気な視線をやるも――
さっ、と。
二人はすぐに目を逸らした。
しかも、逸らした先で目をちらりと合わせて、いかにも何事か意思疎通している。
これは素直に祝ってあげるべきなのか。それとも二人からすればまだ他者には気づいて欲しくない関係なのか……
セロとしては判断しかねたのでいったん態度を保留したわけだが、巨大蛸のクラーケンに続いての配下の恋愛は喜ばしいことでもあるので、セロは午後の高いテンションのまま、二人に対して指でピースサインを送りつつも、
「まさにラブアンドピースだね」
と、いつもなら絶対にいわない言葉をかけてあげた。
すると、二人はなぜか同時に絶望的な表情を浮かべてみせる。
「くっ……まだ効果は切れていないか」
エークがそう呟くと、チェトリエも「はい」と肯いて無念そうに下唇を強く噛みしめた。
結局、セロは何がなんだかよく分からずに――そうはいっても無邪気な多幸感に包まれた楽しい夕食はあっという間に過ぎていって、ついには食後のデザートの段となった。
「セロ様、花火の準備が整っております。
こうしてセロは冷静と情熱の間に揺られながらも、花火の時間を楽しもうとルーシーを伴ってバルコニーに出たわけだ。
ここで唐突かもしれないが、少しだけ大陸の地理について説明しておきたい――
エルフが管轄する大森林群は大陸の南東に位置している。その北側は旧第五魔王国こと現在の東領で、砂漠が広がっていて、これ以上の砂害が森林に侵食しないようにと、エルフたちは長い時間をかけて堀と土塁を築いて、そこに人工の長大な川を作り上げた。
一方で、南側は第三魔王こと邪竜ファフニールが統治する南の魔族領であって、険しい山々が連なる『竜の巣』と『天峰』がある。その山々は大森林群の奥地にまで続いていて、そこにはバンジージャンプでお馴染みの
そんな大森林群がこれまで竜、有翼族、あるいは王国の人族から攻められずに済んできたのも、ダークエルフと同様に長い寿命を誇って、森の中では一騎当千とされるエルフたちの素のステータスの強さがあったからだ。
また、古の時代にドルイドたちが即身仏となってまでこの森に封印と認識阻害をかけて、『迷いの森』以上に強固な要害にしたという事情もあった。
もっとも、エルフ種が二つに分かたれてからというもの、その封印と認識阻害をしっかりと管理出来る者はいなくなってしまって、それらはしだいに老朽化していき、今となっては――
「くそが! なぜ皆がこうも倒れているのだ!」
エルフの族長こと現王ドスは『エルフの丘』と呼ばれる場所で怒りを募らせていた。
深い森の中にあって、そこだけが背の低い木々に囲まれて月明りも零れてくる。地面には小さな石が敷き詰められていて、緩い斜面には階段も設けられ、その丘上に木製の演壇がある。
「我々エルフはこの大陸で最も美しく、かつ強い種族だったはずだ!」
ドスは激情のまま、その演壇を拳で強く叩いてみせた。
何しろ、エルフのほとんどが『呪い』と『絶望』などの状態・精神異常にかけられてしまったのだ。
古の時代以来、封印と認識阻害によって長らく守られてきたエルフの大森林群がここまで完膚なきまでに攻撃されたのは初めてのことだったので、その衝撃は計り知れなかった。
そもそもエルフは法術が得意なので、何とか『絶望』からは回復しつつあったが、それでもマンドレイクの絶叫はかなり強烈だったらしく、いまだに『麻痺』、『衰弱』や『混乱』に移行して、精神異常自体は完全には解かれていない……
さらに
しかも、ルーシーによる『断末魔の叫び』で呪われたエルフについては、その呪いが全く解けないほどで、このまま放置していたらエルフの半数以上が魔族になりかねない勢いだ……
「おい、カミラ! この呪いは何とかならないのか?」
「さあねえ。いっそ魔族になればいいんじゃないかしら。わりと楽しいわよ」
「ふざけるな!」
ドスはエルフの王族らしく、美の極みといった彫像のような顔立ちをしているのだが、今となっては歪みまくってその面影もない。
それにドスは癇癪持ちなので、カミラからしても触らぬ神に祟りなしということで、自身に認識阻害をかけると、すたこらさっさとどこかに隠れてしまった。そのことに気づいたドスは、「この阿婆擦れめが!」と、さらに怒りを剥き出しにする始末だ。
何にしても、ドスにとっては何もかもタイミングが悪すぎた――
第六魔王セロをエルフの大森林群に招待して、こっそりと闇討ちするつもりだったのに、何か感づかれたのか、先に宣戦布告された上にいきなりこのような劣勢に立たされた。
それにかつてエルフ種の王族を一掃したときのように、万全を期して悪魔まで召喚したわけだが……
「肝心の悪魔たちはどこに行ったというのだ!」
古の時代にはなかった墳丘墓という霊的スポットに第一魔王こと地獄長サタンの配下ベリアルとネビロスが間違って降り立ったとは露知らず、ドスは片手を額に付けて「はあ」と大きなため息を漏らした。
そのときだ。王族の近衛とも言うべきエルフの精鋭たちが注進にやって来た。
「ドス様。お知らせいたします」
「何だ!」
「森の正面から封印と認識阻害を解いて、突破を試みる者が二名現れました」
「第六魔王の手の者か?」
「分かりません。ですが、その者たちは間違いなく悪魔です」
「――――っ!」
ドスの片頬がつい引きつった。
第六魔王国に悪魔がいるとは聞いていない。ということは、森を攻撃しているのはおそらくドスが召喚したベリアルとネビロスに違いない……
いったいどうしてこのような行き違いになったのかは分からないが、ドスは「こんちくしょうが!」とさらなる悪態をついて、エルフの精鋭のうち状態・精神異常を免れた者たちを引き連れて、森の入口へと急行したのだった。
「こうなのです。ああなのです。となると、そうくるのです。死ね」
「あー。俺にはさっぱり分かんねーわ」
「ならばついでに死ね」
悪態をつくというなら、悪魔のネビロスもなかなかのものだった。
そもそも、ネビロスは搦め手が得意ではあるが、封印や認識阻害にはそこまで長けていない。
二人は墳丘墓での攻防から逃れて、エルフの大森林群の入口にあたる王国側の平原に改めて降り立って、そこから真っ直ぐに進んでいったわけだが、認識阻害などが多重にかかっていて惑わされっぱなしだった。
これにはさすがに短絡的なベリアルがしびれを切らして、
「こんな設置罠、殴りゃなんとかなるんじゃね?」
「阿呆ですか、馬鹿ですか、脳みそ足りていないんですか、やっぱ死ね」
と、ネビロスは盛大に罵ったわけだが、ベリアルが「ふん!」と、漂っている呪言を掴み取るようにして砕くと、意外にも封印の方は簡単に破れていった。
ベリアルはそれ見たことかとばかり、「ほらよ」と笑みを浮かべて、その一方でネビロスは「ええー」と落胆したわけだが――何にしても、それほどに森の仕掛けは老朽化していたわけだ。
「この調子で行けばいいんじゃね?」
すぐにベリアルは図に乗ったものの、やはりまだしっかりと残っている封印などはあって、二人はあーだこーだと頭を悩ませながら何とか森まで数百メートルほどの正規の入口までやって来ていた。
「ずいぶんとかかったが……こうなったら森ごと全てぶっ壊してやる」
「同意です。肯定です。賛成なのです。皆殺しに決定なのです」
「さあて、じゃあ行くぜ――」
ところで余談だが、ネビロスとベリアルは後年、この地にて封印や認識阻害に阻まれたことをかえって感謝している。
というのも、二人が歩を進めようとした瞬間だ。
遠くの空にある浮遊城から謎のカウントダウンが届いたのだ。それはエメスによる淡々とした声音が生活魔術によって拡声されただけの他愛のないものだったわけだが、
「五、四、三……」
「はん? 何か聞こえるぜ?」
「どうでもいいのです。さっさと進むとするの――」
と、ネビロスが言い終わるよりも先に、
「ゼロ。たまやー」
というエメスの間の抜けたような声がこの地域一帯に下りた。
刹那。
まず浮遊城に一瞬の煌めきがあった。
轟音と爆風はしばらくしてから地上にやって来た。
突然、エルフの大森林群の入口に巨大な光の十字架が天まで届けとばかりに立ち上がったのだ。その直下にいたネビロスとベリアルからすれば、まさに光の大瀑布と言っていいものが眼前に現れた。
「……ん?」
「……え?」
と、呆けるのと同時、二人の耳は音響と熱傷によって潰された。
そんな音が消え失せた世界において、二人の体はあっという間に爆風に晒された。
しかも、ただの風ではない。天からの雷によって大地が抉られた反動で、灼熱と、落雷による側撃と、さらに大量の石礫も飛散して、二人は瀕死の重傷を負い、雷撃によって心肺停止して、遥か後方にぶっ飛ばされて四肢も捻じ曲げられてしまった。
何とか魔核だけは守り通したので消失することは運よく避けられたわけだが、最早全身が真っ黒焦げになって何者かも分からない状態だ……
「死……ぬ……」
おそらくネビロスの末期の呟きだろうか。
悪魔は本質的には精神体なので死とは無縁のはずなのだが、それほどにこのとき放たれた『天の火』の威力は凄まじ過ぎた。
何にせよ、こうしてエルフの大森林群の入口には後年、『天の火の谷』と呼ばれる長大な断崖絶壁の窪地が出来上がったのだった。
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