第153話 モタはやらかす(中盤)

 我輩はである。名前はまだない。


 いやいや、ちょっと待て。第二魔王こと蠅王ベルゼブブという立派な名前があるではないか、と言われるかもしれないが、これは地下世界にいる本体のものであって、今、この瓶の中に呼ばれたのはあくまでも我輩の魂のごく一部分に過ぎない。


 分かりづらいやもしれんが、いわばちょっとした幽体離脱をしている感覚とでも言うべきだろうか――


 そもそも、召喚術というのは転送の法術の一種であって、本来なら異なる世界間の転送は出来ない。というか、そんなことが簡単に出来るなら、奈落とか、地獄の門とか、軌道エレベーターとかのたぐいは必要なくなってしまう。


 逆に言うと、そういった強力な魔力マナに満ちた穴、門や昇降機といった象徴的な触媒、もしくは装置があって初めて、世界間の完全な行き来は可能となる。


 つまり、些細な触媒程度しか使用されていない召喚術などで、地下世界から地上に悪魔を呼んだとしても、転送可能なのはその限定的な部分に過ぎないというわけだ。


 だから、本来は呼んだ術者がその場ですぐに名付けをしなければ、我輩の魂はこの世界に定着せずに不安定なまま立ち消えてしまうはずなのだが……どういう訳か、この瓶の中は意外に心地良い。まるで赤き温泉にでも浸かっているかのような不思議な感覚だ。


 正直なところ、出たくない……というか、ずっとここにいたい……


 うむ。これなら日がな一日まったりと入浴していても良い気がするな……我輩、蝿王や糞王などと呼ばれて、冥界の魔族からは蛇蝎の如く嫌われているのだが、実のところ、蝿は蝿でも、きれい好きな蝿なのだ。


 さて、それはともかく、いったいどこの異世界に召喚されたのかと思いきや、どうやら我輩もよく知っている場所のようである。大気に含まれる魔力マナの巡りが似ている上に、先ほどの少女はハーフリングという希少なちびっこ亜人族で、さらにはここが第六魔王国の魔王城などとも語っていた。


 これだけ偶然が重なることも珍しい。というか、いっそ作為的なものを感じるほどだ。


 そういえばと、我輩は思い出す。先日、冥王の小間使いことルシファーなんぞがわざわざ魔界までやって来て、『万魔節サウィン』の招待状をぽいと投げ棄てていったわけだが……今回は地上の魔王がゲストで参加すると記してあった。


 実に千年ぶり。そう。古の大戦以来のことだ。あのときはたしか真祖カミラが参加して、冥王と何やらごそごそと密約を交わしたはずだ。


「ふむん。第六魔王か。果たして偶然の一致であろうか」


 ……

 …………

 ……………………


 まあ、いい。こうして考えていても埒が明かない。


 それに我輩は勘が鋭い方だが、あまり思慮深くはないのだ。よく分からないときには、とりあえず一発ぶん殴って聞き出すのが一番だ。


 もっとも、そんなことよりも我輩には先ほどから気になっていることがあった。


 受肉したこの謎の液体の成分というか構成要素が凄まじいのだ――


 まず、その大部分には地底湖の清水が使われている。たしかあそこにはえらくおっかない四竜のうちの一匹が生息していたから、普通の魔術師には汲みに行くことすら出来ない代物のはずだ。


 次に、その土竜の直系とも言うべきこれまたおっかない魔物モンスターどもの肉体の一部まで漏れなく入っている。どうやって手に入れたのか。我輩だって聞きたいぐらいだ。さらにはこの液体の赤さはあの土竜の血反吐に違いない……


「まさかとは思うが……土竜が新たな第六魔王によって、討たれたなんてことはないよな?」


 我輩はその思いつきについ呻ってしまった。


 そんなことは地下世界の頂点の一角たる我輩とて難しい話だ。


 武闘派ではない死神レトゥス地獄長サタンでは土台無理だろう。冥王ならばまあ可能かもしれないが……いや、やはり今はそんな仮定の話をつらつらと考えているときでもないか。


 むしろ新たな第六魔王とやらがどのような奴か、この曇りなきまなこでしかと見届けてやろうではないか。とまれ、今の我輩は液体だから曇りどころか目すらないのだが……


「ふふ。待てなどと言われたが、我輩は待ってやるほどお人好しでもないのだ」


 こうして我輩は自らの体である魔術瓶に『浮遊』をかけた。瓶にうっすらと髑髏が描かれた蠅の羽が浮かび上がる。ついでに部屋に施してあった、いかにも習いたての未熟な封印を破って、我輩は「では行くか」と魔王城の散策を始めたのだった。


 もちろん、このとき我輩は自身がよりにもよって媚薬に受肉させられていたなど、全く気づいていなかった……






「アジーンはどこかなー。いた!」


 モタは魔王城二階の玉座の間の前で執事のアジーンを見つけた。


 ちょうどいいことに外交官のリリンと一緒だ。二人して声をひそめて会話をしていて、うっかり認識阻害かけたままにしていたモタに二人ともどうやらまだ気づいていないようだ。


「にしし。これは絶好の悪戯のチャンスなり」


 モタがそう囁いて、こっそり近づくと、ひそひそ話が漏れ聞こえてきた。


「では、王国のシュペル・ヴァンディスも、火の国のドワーフ代表のオッタも、今のところは我が国に完全に恭順していると?」

「はい、リリン様。恭順どころか本心から崇拝しているようにさえ見えます。宿での食事中や入浴中においても、反抗的な言動は一切見受けられません」

「ふむ。ドワーフはともかく、人族は小芝居が上手いからいまいち信用が置けないが……少なくともシュペルは信頼に足る御仁ということだな」

「そう考えてもよろしいかと。そういえば……リリン様は家出ついでに、王都に隠れていらっしゃったとか?」

「違う。料理の勉強の為に一時的に留学していたのだ」


 その言葉を聞いて、モタはつい「留学?」と首を傾げた。


 とはいえ、盗賊に追われていたのも食材を買ったときにミスをしたせいだったようだし、本当に料理を勉強していたのだったら、王都から連れ出して、悪いことしちゃったかなあとモタはやや反省した。


 今度、屍喰鬼グールの料理長フィーアと一緒にきちんと教えてあげようと、モタも考え直したぐらいだ。


「ところで、アジーンよ。何か臭わないか?」

「ええ。さっきから鼻をつくような臭いがぷんぷんしてきます」


 モタは、「ぎょえ」と声を出しそうになった。


 媚薬を作るときに被った臭いが消えていなかったのだろうか。これでは認識阻害をしていても、とっくにバレていたに違いない……


 が。


「何だか嫌な予感がするぞ」

「リリン様。手前てまえの背後に。どうかお気を付けください」


 リリンとアジーンは背後にいたモタではなく、上階に通じる階段の方をじっと見つめた。


 すると、そこから幾人かのダークエルフや吸血鬼たちが下りてきた。揃いも揃って、いかにも亡者のように、ぶらり、ぶらり、と体を揺らしながら、何かを求めて両手を前に伸ばしている――


「モタ様……好き」

「小っちゃくて奔放なところが可愛い」

「何ならモタ様の特製闇魔術で虐めてほしい」

「私たち夢魔サキュバスのお姉さんたちと一晩中きゃっきゃうふふしましょう!」


 直後、リリンとアジーンは白々とした目つきになった。


 当然のことながら、リリンは依頼を出した張本人だったので、「これはモタが失敗したな」とすぐに気づいた。また、アジーンも好きになる系の実験がどうとかこうとかと聞かされていたので、「これはモタがまた何かやらかしたな」と即座に悟った。


 何にしても、精神異常系のハプニングなので、リリンが『魅了』で上書きしてからそれを解くか、もしくは巴術士ジージやドルイドのヌフの法術で治してしまえばいい……


 そんなふうに二人が安易に考えていたら、上階から妙な物・・・・が下りてきた。


 二の腕ほどの大きさの魔術瓶だ。浮遊している。しかも、どこか不安定ではあるが、とんでもない魔力量を秘めている。そんな物騒なモノがどうやら臭いだけで、無差別に『魅了』を振りまいているようだ。


 しかも、セロではなく、よりによってモタを・・・好きになるように仕組まれているらしい……


 もっとも、その理由は単純で、モタがアジーンに実験しようと試験的に作ったせいだ。だから、モタも呼んだ悪魔に名付けなどせずにいったん放っておいた。


 だが、何せ素材が全てこの世界における超特級品な上に、土竜ゴライアス様の血反吐まで追加素材としてふんだんに盛り込まれ、しかもたちの悪いことに歴史に名を残してもおかしくない天災・・が錬金した媚薬だったので、ただの試験薬とはいえとんでもない悪魔の魂が宿ってしまった。


 その結果がこの大惨事だ――


「ここは手前が引き受けます! リリン様は至急、皆に非常事態を知らせてください!」

「分かった。気をつけろよ。あれからは並々ならぬ雰囲気を感じる」

「承知いたしました」


 アジーンはリリンを庇うようにして前に立った。


 だが、意外なことにそのリリンが駆け出そうとして一歩を踏み出した時点で、


「モタ……だいしゅき」


 などと急に言い始めた。


 アジーンはさすがにギョっとした。


 リリンは夢魔サキュバスの頂点にいる存在だ。美少年のような妖しさでもって『魅了』をかける側であって、決してかかる側ではない――それがこれほどまでにあっけなく陥落したのだ。


 もっとも、この理由もとても簡単で、もともとリリンはモタに対して好意を持っていたから『魅了』にかかりやすい土壌があったわけだ。


 つまり、今、この瞬間、玉座の間の前の廊下にはモタだいしゅきフィールドとでも言うべき特殊な地形効果が醸し出されていた。


 当然のことながら、普段は男前ダンディーなアジーンとて顔面蒼白にならざるを得なかった。リリンですら防げなかった強力な『魅了』に、アジーンが抗せるはずもないからだ。


「ちくしょう。手前がまさかこんな『魅了』如きにかかってたま……あ゛あ゛、愛しのモタ様! もっと虐めて! 体を叩いて! 手前のおけつを辱しめて――」


 と、四つん這いになっておけつを晒し始めたところで、「んぐっ」と、アジーンは何かを飲まされた。


 次の瞬間、アジーンは「ぷはあ」と息を吹き返して正気を取り戻した。すぐ隣にはいつのまにかモタがいて、杖を構えている。どうやら事前に用意してあった特効薬でも飲まされたようだ。


「大丈夫、アジーン?」

「モタか。こんなことをやらかして――」

「怒るのは後! 今は皆を助けるよ。手伝ってほしい」

「……今、手前が飲んだ特効薬の残りは?」

「もうない。アジーンの分とセロの分しか作ってない。セロの分は四階の部屋に置いてある」

「セロ様の分だと?」

「その説明も後! だから、ここにいる『魅了』がかかった人たちを今は行動不能にするしかない。でもって、あの瓶を叩き潰す!」


 これにはアジーンもげんなりした。


 何しろ見渡す限り、十人以上のダークエルフや吸血鬼たちがいて、さらに上階からまだ下りてくる始末だ。しかも怪しげな瓶にしてもどのような戦闘力があるか分からない……


「やれやれ。仕方あるまい。若女将の不始末は拭ってやらなくてはな」

「ありがとう、大将! じゃあ、行くよ!」


 こうしてセロも、女豹の会も、全くあずかり知らないところで、魔女のモタ、人狼のアジーン対第二魔王こと蠅王ベルゼブブといった世にも奇妙な戦いが始まったのだった。

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