第88話(追補) 料理長

 うつら、うつらと、とても長い夢を見ていた気がする。


 あまりに長く眠り過ぎたせいで、どこからが現実で、何が夢だったのか――その境界がひどく曖昧になってしまったようだ。


 実際に、その者・・・は今、ふら、ふらと、森と畑の間をぶらついていた。


 ここがいったい、どこなのか……


 そしてなぜ、こんなところを彷徨さまよっているのか……


 もっとも、後者の疑問については何となく知っている気がした。身の内に宿る破壊衝動が燻っていたからだ。


「壊せ……殺せ……」


 と、その者は無意識に呟いた。


 周囲を見渡すと、生ける屍リビングデッドが大量に湧いていた。


 そのわりには恐怖も、亡者と戦わなくてはいけないという気概も、不思議と起こらなかった。もしや、いまだに寝呆けているのだろうかと気が気でなかったが、「そういえば――」と、ふいにその者は思い出した。


 あのときもたしか、こんなふうに多くの亡者に囲まれていたのだ。






「若様の秘湯好きも困ったものだ」

「さりとて、伯爵家に代々伝わる家訓ポリシーなのだから仕方あるまい」

「そのうちお湯をテイスティングして、どこぞの秘湯か当てられるようになられるのでは?」

「いやいや、温泉でスープを作れと仰るかもしれないぞ。今から心の準備ぐらいした方がいいのではないか? なあ、料理長シェフよ?」


 そんなふうに言われたので、その者・・・は「はい!」と声を張り上げた。


 若くして、かつ女性にして、その者は王国の旧門貴族を代表する名家で料理長の栄誉を賜った。


 だから、温泉でスープどころかメインディッシュでも作れなければ、若様を満足させることなど出来やしないと、その者はかえって両頬をパンと叩いて気持ちを新たにした。


 そもそも、その者は創作料理を得意として、宮廷料理人に選ばれるほどの実力を持っていた。


 ただ、貴族家などで腕を磨いて順調に出世してきたわけではなく、王都の飯屋で腕を振るっていたら評判になって、当時の王城の副料理長スーシェフに見出された。


 もっとも、宮廷料理の世界はとても狭く、どちらかと言うと現王の味覚に合わせて保守的で、さらに料理人コックのほとんどが下級貴族出身ということもあって、その者にとっては息苦しい場所となった。


 嫌がらせも散々に受けた。謂れのない噂も流された。しかも、その者を庇ってくれた副料理長まで非難された。


 そして、現王好みの定番料理に風穴を開けたいと息巻いていた副料理長が左遷させられたことで、その者も王城勤めを辞めて、どこかの地方都市で店でも持とうかと考え始めた。


 そんなときだった――


「ほう。其方そちが、副料理長が言っておった女子おなごでおじゃるな? どうだ。麻呂の家で料理長をやらぬか?」


 いきなり、麻呂眉で語尾が『おじゃる』の変質者、もとい一風変わった若者が訪ねてきたのだ。


「ええと……急にやらぬかと言われましても……」


 と、その者はさすがに顔をしかめた。


 だが、若者が身に纏っている物から察するに、相当な名家の若様だとすぐに気づいた――には王国の旧門七大貴族の一つ、ヒトウスキー伯爵家の家紋が入っていたのだ。


 武門貴族ですら顎で使い、現王でさえも敵対を避ける旧門きっての名家からすれば、宮廷料理人としてろくに地位も固めていない女の見習いなど、得やすい奴隷のようなものに過ぎない。


 おかげで、その者はまた堅苦しい貴族社会で、ありがちな料理でも作らされるのかと、暗澹たる思いに駆られたわけだが……


「ところで、其方は秘湯好きであるか?」

「え? ひ、秘湯ですか? ほとんど入ったことはありませんが、お風呂自体は好きです。料理人は清潔に保たないといけませんから」

「ふむん。では、秘湯に合う食べ物とはいったい何でおじゃるか?」


 そんな料理など考えたこともなかったので、とりあえず「温泉卵では」と無難に答えそうになって、その者はふと口を噤んだ――


 定番料理を口に出すのは何だか誇りが許さなかったし……


 逆に、ここはよほど可笑しな創作料理でも提案して、この若様を呆れさせ方がいいのではないか……


 そうすれば、雇用を諦めてくれるだろうし、これにて晴れて野に下って自由にもなれる。


 というわけで、その者はにこやかに答えてみせた――


「まずバジリスクの卵を用意して、温泉内で煮立てて、とろとろの卵のスープにします。同時に、マンドレイクを輪切りにして、バジリスクの腿肉と一緒に筋になるぐらいに煮込みます。最後に食人植物の花びらでも香りづけにまぶせてみれば、なかなか美味しい温泉田楽おでんが出来上がるのではないかと」


 さらにその者は皮肉を込めて、恭しく頭を下げてみせた。


 これだけやれば雇用されまいと思いつつも……もしや逆に怒らせてしまったかなと心配になって、恐る恐ると若様に視線をやると、


「ほほう! 素晴らしいでおじゃる! 麻呂は早くそれを食べたいぞ!」


 なぜか感動されてしまった……


 しかも、有無を言わさず、即日で名家の料理長に任じられていた……


 まさしく大出世である。王城の料理人たちの嫉妬の視線を一身に受けて、その者は最早、「あ、はは……」と苦笑するしかなかった。


 ちなみに後々に知ったのだが、そもそも若様ことヒトウスキー伯爵は王国随一の奇人変人として有名だった。


 領地経営は家宰に任せきりで、日々、秘湯を巡って、しかもエクストリーム入浴なるものを楽しんでは、旅先で独創的な料理を求めてきた。


 王国と国交断絶しているはずの『火の国』まで赴いて、そこの気難しいドワーフたちと仲良くなって、聞いたことも、飲んだこともないお酒で味付けしろと言われたときには目を剥いたものだったが……何にしても、ヒトウスキー伯爵家に入ってからその者の人生は一変した。


 どうやら他の家人とて、一癖も、二癖もあって、この可笑しな若様に惚れ込んでいる者たちばかりで、貴族の名家にしてはずいぶんと風通しがよかった。


 気がつけば、その者も若様の放蕩ぶりに惹かれて、最高の温泉料理の研究に没頭していた。


 そんなある日のことだった――






料理長シェフ。泥料理は完成しただろうか?」


 家人の一人にそう尋ねられて、その者は「もう少しお待ちください」と伝えた。


 今日は西の魔族領こと湿地帯にある秘湯『泥湯』にやって来ていた。


 その者は現地の泥が安全な土であることを確認してから、何度も裏ごしして砂を除いて、どろどろのソースをついに完成させた。


 これで一段と奇抜な泥のフルコースで若様を楽しませることが出来るなと、その者は「よし!」と額を片手で拭った。


 直後だ。遠くから悲鳴が上がった。


 さらに怒声や罵声も続いた。どうやら伯爵家の騎士たちが応戦しているようだ。


 幾重にも認識阻害をかけてここまでたどり着いたのに、どうやら第七魔王こと不死王リッチに感づかれたらしい。


 リッチは墳丘墓の防衛と、金目の物を持つ商隊を襲えと生ける屍リビングデッドたちに命じているので、後者だとみなされてしまったのだろう。


 何にせよ、騎士たちはよく戦ったが、やはり多勢に無勢だった。そもそも、このじめじめとした湿地帯は亡者の王国なのだ。


 しかも、肝心の若様が入浴中だったこともあって、逃がすのに手間取ってしまった。結局、家人たちも若様を守る為にと、それぞれ武器を手に取った。


「若様! どうかお逃げください!」

「嫌じゃ、嫌じゃ! 麻呂だけ逃げてたまるものか! 其方そなたらの命はどんな金銀財宝よりも重いものと知れ!」


 家人たちにとっては、その言葉だけで十分だった。


 もともと若様に似て、他家を追い出された変わり者ばかりだったのだ。だからこそ、騎士たちが全滅すると、家人たちは腹を括った。


 暴れる若様に『睡眠』をかけて馬車に強引に乗せると、王国へと一気に走らせたのだ。


「よし。若様は行ったな。はてさて、ヒトウスキー家の家人は変人の集まりだとよく笑われたものだが……あるじに対する忠義だけは皆、変わらない・・・・・はずだよな?」

「「「おおう!」」」


 こうして、その者も含めた家人たちの奮闘も虚しく、全員が湿地帯の泥湯で命を落としたのだった。






 意識を失い……


 泥湯に浸かりながらも……


 やはり心残りがあったのだろうか。


 非業の死を遂げた者は亡者になると言われているが、その者は屍喰鬼グールとなって泥湯付近に自然発生ポップした。


 もっとも、明確な自我はなかった。ただ、不死王リッチの命があるまで、その場で彷徨うだけだった。


 そんなある日、ついに指示を受けた――


「転送先で破壊工作をせよ」


 大きな門をくぐってやって来た先は、どこかの岩山のふもとだった。


 周囲の亡者たちは命令通りにしっかりと破壊活動に従事しているようだ。だから、フィーアも漠然と、身の内に燻る衝動のままに「続かなければ」――というところで、ふいに不思議な匂いに釣られた。


 抗うことの出来ない不思議な香りだった。


 硫黄と、鉄と、それにどこかまろやかな出汁のような芳醇さ……


 くん、くんと、とうに腐った鼻で嗅ぎ分けて、その匂いのもとに、ふらり、ふらりと歩んでいった。


 リッチの命令などもう忘れていた。それよりも大事なことがあった。その者の心がそこに残っている気がしたのだ。


 それに、コウモリたちもトマト畑に入ろうとしない亡者には構うつもりがないのか、気がつけばその者は温泉宿泊施設までやって来ていた。


「これは……まさか秘湯?」


 その者は呟いて、いったん土中に還って、その施設の下を移動して赤湯にたどり着いたわけだが――


 そんなふうに亡者になっても変わらぬ奇抜な歩みが彼女こと屍喰鬼グールのフィーアの人生、もとい亡生・・を一変させることになるとは、このときはまだ知る由もなかった。

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