死にたい私と死なせたくない死神の話
論より硝子
第1話 職務怠慢
その男は突然、私の前に現れた。
「君、今死のうとしてるだろう。」
その男は続けて、「困るんだよねえそういうの。」
とため息を吐いた。
「私が死んで一体どんな迷惑がかかるって言うんですか。」
と問うと男は半笑いで「君に死なれると僕の仕事が増えるんだよ、ほら僕って仕事するの嫌いだろう?」
と言ってきた。
いや、知らないが。
「私と貴方は初めてあったのだから貴方が勤務態度最悪なこととか知るわけないじゃないですか。」
と言うと
「それもそうだね。」
と言いながら私の隣まで歩いてきた。
「この柵超えて飛び降りでもするつもりだったんでしょう、確かに死ねそうなくらい高いけどめちゃくちゃ痛いと思うよ?自殺しようと思ったきっかけは?まあある程度予想はつくけどね、格好から察するに仕事してて限界が来ちゃったんでしょう?辞めれば良いのに、そんな仕事。」
と続ける。
退職する勇気があるならとっくに退職してる、そう思いながら男の言葉を無視して柵を乗り越えようとすると途端に男は焦りだした。
「ああ、待ってよ待ってってば。だから死なれると僕が困るんだよ。」
「何が困るって言うんですか、貴方だいたいなんの仕事してるんです、警察か何かですか。」
そう尋ねると男は口をもごもごさせながら
「治安維持は他が受け持ってるし、うーん……なんて言えば良いかなあ。」
としばらく思案していた。
「案内人?は部署が違うしなあ、船頭の業務も任されてないし……うーんなんて説明したものか。」
「まあ良いや、業務内容は勧誘と入口までの送迎みたいな感じだよ。」
訳が分からない答えに苛立ちながら
「入口って、どこのですか。」
と聞いてみると男は無言で空を指さした。
突然の奇行に眉をひそめていると
「もう、察しが悪いなあ、だから死後の世界だよ。」
と怪しげに笑った。何を言ってるんだろう、頭のおかしな人だ、気でも触れてしまったのか。まあ、春だしな。と無視して柵を乗り越えようとすると男はまた慌てだして
「あーもう、だから待ってってば!そうだ、証拠!証拠を見せるよ!」
と喚いていた。
「さっきからなんなんですか、私は残念ながら貴方に構っていられる余裕はないんですよ。」
と睨みつけるがそれでも男は怯まずに
「これを見たらその疑いも晴れると思うよ。」
と得意げに言って柵をうさぎのように跳んで飛び越えてしまった。
目の前で起こった突然の飛び降りに驚きながら下を覗き込むが誰もいない、幻覚でも見ていたのだろうか、にしてはリアルすぎた。なら白昼夢だろうかなんて考えながら下を覗き込み続けていると正面から声がした。
「ねえ、ねえちょっと、いつまで下を覗き込んでるのさ、下ばっか見てたってねえ、何も落ちちゃいないんだよ?」
正面を見ると先程飛び降りていった筈の男が立っていた。それも空に。
「幻覚が見えるようになるなんて私もいよいよキテるな……。」
と小さな声で呟く。男はそんな私の反応が気に食わなかったのかつまらなそうな顔をしていた。
「普通は驚く所だと思うんだけど、ていうか僕は驚く所が見たかったんだけど。」
「これでも驚いてますよ、遂に幻覚が見えだしちゃったか……って。」
「いやいや、僕は幻覚じゃないし……うーん、まあ良いか。」
「幻覚じゃないならなんだって言うんです、知らないかもしれませんが人間は空を飛べないんですよ。」
男はそれを聞くとつまらなそうな顔のまま
「それはそうでしょ、人間は翼を持たないし不思議な力だってありはしないんだ、だからこそ人は空に夢や理想を抱いて飛ぶんでしょう、今の君みたいに。」
と吐き捨てた。
「随分な皮肉を言うじゃないですか、だったら貴方はなんなんです。自分が人じゃないみたいな言い方ですけど。」
と言うと男は笑って
「お、今度は察しが良いね。その通り、僕は人間じゃないんだよ。君達が呼ぶところの死神って奴に近いかな。 」
と言った。この男に見送られる人間は可哀想だと思った。他でもない私が見送られそうなのはとりあえず考えないものとする。
「それで、どう?ちょっとは生きたくなってきたんじゃない?」
冗談じゃない、このまま死ぬのを諦めたら私はあのクソみたいな日常に逆戻りだ。最後に見送られるのがこの男なのは不服だが、それ以上に1秒だって生きていたくないのだ。それを掻い摘んで説明すると男は明らかに落胆した様子だった。
「君も中々の頑固者だねえ、最初に言ったように僕は仕事するのが嫌いなんだ、だから決めたよ。」
「何を決めたって言うんです、仕事をする気にでもなりましたか。」
嫌な予感がしながらもそれを無視して私がそう尋ねると
「いやいや、僕の決意は固いんだ、仕事は絶対にしないよ。決めたって言うのはこれから君が死ぬのが嫌になるまで人生の楽しみ方ってやつを教えてあげることを決めたんだよ。」
と言ってきた。自称人じゃない男が人生の何を語るというのだろうか。
「余計なお世話です。」
そう突き放すと男は
「それではいそうですかなんて言えるほど、僕の決意は緩くないよ。」
と言ってパチン、と指を鳴らした。その途端に私の体は勝手に柵から離れて屋上の入口まで歩を進めていった。
「ちょっとなんなんですかこれ、体が操られてるみたいな……。」
と男を見ると笑みを浮かべたまま
「みたい、じゃなくて操ってるんだよ、まあ本来なら運命に抗う人間を無理やり殺すための力なんだけどね。」
となんでもないように言っていた。
「じゃあなんですか、私は死ぬ運命では無いと?」
「いや?君は確かに今日ここから飛び降りて死ぬはずだったよ。」
どこまでも適当な男だと思った。
そう言っているうちに体はどんどん動いていて男は後ろからふわふわと浮きながら着いてくる。気づけば私の住んでいる部屋の目の前にいた。
「可笑しいです、私はさっきまで会社の屋上にいたはず。」
そういうと男はニッコリと笑いながら
「これも不思議な力のひとつだよ。」
と答えた。
独りでにドアが開く。
「まあまあとりあえず入ってよ、お茶でも飲みながらゆっくり雑談といこうじゃない。」
「そこは私の部屋ですが。」
と男を睨みつけてみると
「そんな些細なことどうだって良いじゃない、日本人は気にしいだね。」
なんて笑っていた。
そんな掛け合いをしているうちにも体は勝手に動いていて気づけば部屋の中のクッションに腰を下ろしていた。
「よし、座ったね。じゃあちょっとお茶でも入れてくるから待っててよ。」
私は仕事で元々消耗していた体力に、この訳の分からない男との邂逅というトドメを刺されて抵抗する気力も無くなっていた。
「もうどうでも良いです、好きにしてください。」
そう呟いて後ろのベッドに体を預けた、気づいたら眠っていたらしく久しく嗅いでいなかった食欲をそそる匂いで目を覚ました。
「あ、起きた?いやーびっくりしたよ、お茶を入れて戻ってきたら君寝てるんだもの。」
そう言いながら廊下にある台所から出てきたのは昨日出会ったあの男だった。やっぱり夢じゃなかったんだな、と軽く絶望していると男は私の目の前にお皿を置いた。
「とりあえず朝ごはんにしようか。」
そう言って一旦台所に戻ると今度はフライパンを持ってこちらに歩いてきた。
「はいこれ。」
そう言ってお皿に装われたのは目玉焼きとカリカリに焼かれたベーコン。それから続けて茶碗に入ったお米と味噌汁が運ばれてきた。
「朝ごはんを食べたらこれから君がやるべき事について説明するからね。」
そう言ってテーブルを挟んだ向かい側に男は座り込んだ。手には林檎を持っていた。
まだまだ男は解放してくれる気が無さそうなのを察して私は朝ごはんを食べることにした。
死にたい私と死なせたくない死神の話 論より硝子 @ronyorisyouko
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