吾輩の短篇集。

吾輩

みかん

 前回の窓からは、蝉の鳴き声と時々、自動車が走行する音が聞こえる。乾いた風が吹き込むと、カーテンレールに引っ提げただけの風鈴がお淑やかな音色を奏でる。

 その音色を枕にしながら、僕は潰れた布団に横たわり、スマートフォンの画面を目的も無くスライドし、適当にアプリケーションを開いては閉じ、また別のものを開くという時間の持て余し方をしていた。

 僕の目の前には、煙草を吸いながらテレビを観る由紀ゆきの背中がある。お互いに会話は無い。目線は別々の方向を向いている。由紀が僕の家に来る様になってから、ここ半年程はこういった光景の毎日だ。

 そんな中、僕は何の気無しに暫く開いていなかった複数あるSNSのうちの一つをタップした。『孝一こういち』と記載されたアカウント名が映る。そこには、現在の大学の同期、中学校や高校で出会った嘗ての友人達が笑顔で映る画像が沢山出てきた。どれも笑顔で暗い表情は見当たらない。彼らはとても充実した毎日を送っているようだ。こうして、その喜びを仲間達と共有するのだろうか。全くの部外者である僕は、「押し付けがましいものだ」と捻くれた考えをしながら、彼らの煌びやかな日々を、さながら舟の櫂のようにして、電子の海を指で漕ぐ。

 比較的安定した航海の中、とある一枚の画像が僕の目に留まった。櫂も一旦、停止させる。

順平じゅんぺい、結婚してたんだ」

 そこには、幸せそうな二人の男女が、互いの左手を笑顔で見せるつけるように写っていた。

「順平? 孝ちゃんの友達?」と背中で話しかけてきた由紀に、僕は説明する。

「中高の時の友達。こいつ、高校で一回彼女孕ませて中絶してるんだよ」

「そうなんだ」

「そんな奴が結婚するんだよ? 絶対こいつの子供、同級生虐めたりとかするよ」

「子供が? 何で?」

 由紀が突然、疑問を呈してきたので、僕は少しだけ言葉が痞えてしまった。

「だって順平の奴、中学校からずっと色んな奴を虐めてたんだよ。同じクラスの障がい者に向かって、人間の出来損ないが俺たちと同じだと思うなって言いながら、その子のケツにコンパスの針刺したり、言葉が解らないからって暴言吐いてたりしてたんだ」

「酷いね」

 由紀が僕にかける言葉が少し重くなった気がした。僕は横になったまま、由紀の方向に身体を向けると、SNSを見ながら会話を続けた。

「そんな奴に教育されたら、蛙の子は蛙ってヤツよ」

「子供と親は別だよ」

 由紀の言葉を待たずに、僕は画面に映った画像見て思わず反応した。

「子供いるよ。ほら見て、幸せそうに子供と一緒の写真アップしてる」

 僕は見せびらかす様に、由紀のいる方向に腕を伸ばした。

 由紀は灰皿に煙草を置くと、一度大きく息を吐いた。そして、上半身だけを右に半回転し、スマートフォンの画面を見た。

「虐められた奴の気も知らないで。こいつの子供が虐められたら笑える」

 僕は何故か沸々とが込み上げてくるのを感じて、そう呟いた。

「そうかな?」

「だって虐めをしていた奴の子供が虐められた時、そいつはどんな反応をして、どんな対応をするのか気にならない?」

「怒るんじゃない? だって自分の子供が虐めに遭ってるんだから。親として当然だと思うよ」

 由紀の言葉が積み重なる度に、またしてもが湧き上がる。徐々に、徐々に。僕を侵食するかのように。

「自分は虐めをしていたのに、自分の子供が虐められたら激怒するって余りにも身勝手過ぎるでしょ。そんな奴が自分の父親とか最悪だね」

「過去の過ちくらい誰にでもあるでしょ」

 そういうと、由紀はまた僕に背中を向けた。

「過ちがあるから、その時に抱く感情が気になる訳だよ。子供って可哀想だよね、親を選ぶことが出来ないんだから」

 由紀は、灰皿に置いた煙草を押し付け、まだ火を点けていない煙草を取り出した。その巻紙の先を、机に二度、三度軽くテーブルにノックしたあと、口に咥える。そして「私は親ガチャ、ハズレだったかな」と言いながら、煙草に火を点けた。

「僕は中当たりかな。おかげで大学もスムーズに進学できたし、自由に一人暮らしさせて貰える。じゃなきゃ、こうして由紀と一緒に住むこともできなかった」

 僕は布団から起き上がり、少し丸くなっている由紀の背中を覆うように抱きついた。

「お金って大事だよね」

 そう呟く由紀の首筋からは、仄かに香水の匂いが残っていた。僕は更に身体を密着させると、鼻で息を吸った。目線を落とすと、鎖骨に黒子があり、黒いストラップが伝うように胸元へ向かっている。

「由紀、一本頂戴」

「いいよ」

「取って」

 由紀は微笑んで、灰皿に煙草を軽く叩いた。白いチップペーパーには、薄らと紅色が彩られていた。

「自分で取ってよ」

「いいじゃん、取って」

 由紀は煙草を左手に移動させると、空いた右手で一本取り出した。

「はい」

「咥えさせて」

「何でよ、子供じゃないんだから」

「僕は子供だよ、一生ね」

 由紀に甘えたい気分だった。時折来るこの気持ちを、由紀はいつでも優しく抱擁してくれる。いつの間にか、沸々と湧き上がる何かは落ち着きを見せた。

「子供だったら煙草は吸っちゃダメですね」

「心が子供なの、身体は立派な二十歳だよ」

「はいはい、わかりまちたよ」

 そう言うと、由紀は僕の唇に優しく置いた。由紀も左手に持っていた煙草を咥える。

「点けて」

 由紀は僕の目を見て、少し顎を持ち上げた。

「いいよ」

 お互いの煙草の先が触れる。呼吸に乗せて火が点る。

「ありがと」

「どういたしまして」

 由紀はそう言って、目線をテレビに戻した。僕は由紀の右側に移動した。小さなテーブルには、残り僅かの煙草。灰皿。リモコン。由紀のスマートフォン。そして、空の木皿に、みかんの皮が無造作に置かれている。

「由紀の学生時代ってどんなだったの?」

「今も学生だよ」

 由紀は偶に捻くれた物言いをする。

「大学より前の話だよ。解ってるくせに」

「普通だったかな?」

「僕、そのって言葉嫌いなんだよね。なんなんだよって」

「周りで虐めとかはあったけど、私は関わる事が無かったし、特にこれといって何事も無かったから普通」

「普通ってさ、何を基準に普通なんだろう」

「世間という名のものさしで計った時に、別段逸脱していなければ普通……だと思ってる」

 僕の中のが再び、モゾモゾと動き出すのを感じた。

「先ずそこが間違いなんだよ。もし、世間のものさしが間違っていたら、それはもう既に普通ではない」

 由紀は口から煙を吹かすと、ほんの少し間を置いて口を開いた。

「一応、私たちが生まれる前からできている指標がある訳で。それが所謂世間。ただ、その世間と比較したら普通ってだけの話だよ。小難しく考え過ぎ」

「人は皆、生きていると自分の中でのができる。それぞれが色々な人生を歩んで……それこそ虐めを経験した人、経験しなかった人と別れてくる。そいつらの、またはというものは違ってくると思うんだよね。小さな出来事、大きな出来事。人の感受性によってもまた受け取り方が変わってくるし、その感受性もまた、それまでの経験や教育によって変わってくる。どこぞの誰かが創り出したという言葉に惑わされてはいけない。という言葉に洗脳されてはいけないと思うんだ」

 僕の話を他所に、煙草を灰皿に押し付け、突然立ち上がる由紀に対して、思わず呆気に取られてしまった。

「……聞いてる?」

「聞いてるよ。聞いてるから、安心して」

 テーブルに置いてあった木皿を持ち上げながら、由紀は答える。

「大好きだよ」

 煙草を灰皿に押し付け、僕は見つめながら言った。

「知ってる」

 目を見ると、由紀は微笑みながら答えた。僕はその表情に安堵した。立ち上がった由紀を追いかけるように、僕は会話を続ける。

「さっきの話に戻ると、例えば学生時代に恋愛をしたことがある人からしてみれば、学生恋愛くらい普通だと思うだろう。でも、学生恋愛ができなかった人も居るし、まだ恋愛に意識が向いていない無い人。中には自身のジェンダーで悩む人も居る。普通なんて言葉で済ます程、この世は簡単じゃない」

「孝ちゃんが勝手に難しくしてるだけだよ」

 由紀は、木皿に溜まっていたみかんの皮をゴミ箱へ捨てた。

「いいや、違うね。世の中が誤魔化しまくってるんだよ。都合の悪い事からは目を背けて、世間という普通を押し付け、少しでも歪なものがあれば淘汰される。まるで工場だ」

「部品で喩えるなら、でも歪なものが一つでも混じっていれば何処かしらで不具合が発生するかもよ? そうならない為に普通が仕分けという名の修正をする。集団で活動するにあたって、指揮を取る人がいないと、バランスというものはいずれ崩壊してしまうから。虐めだってそうでしょ? 今は虐めが駄目っていう世の中だけど、それが無かったら当たり前のように虐めが蔓延って、もっと悲惨な状況になってたかもしれない。私たちは無意識のうちに普通に助けられて生きているんじゃないかな?」

 僕の何かが一瞬にして、動きを止めた。眉間に皺が寄った。

「それは普通じゃなくて秩序の話じゃないの?」

「秩序って普通って意味じゃないの?」

 段ボールからみかんを幾つか取り出して、木皿に乗せながら、由紀は言った。

「話だいぶ逸れてる?」

「孝ちゃん舵を取るの苦手だから」

 頭の中にあった僕の脆い思考は、一箇所にできたヒビををきっかけに虚しくも崩れていった。同時に僕の中の何かは何処かへと消え去っていた。

「訳わかんなくなってきた。で、その部品たちを使って出来上がるものが……」

「社会?」

 由紀はみかんが乗った木皿をテーブルに置いた。座ると、みかんを一つ取り、頭頂部に親指を押し込むと、真ん中から皮ごと割るように剥いでいた。

「じゃあ、取り残された部品たちはどうなるんだよ。」

「リデュース」

 少し間を置いて、由紀は答えた。僕は少し戸惑いながら返答する。

「……リユース?」

「リサイクル」

 その瞬間、木皿からみかんが一つ落ちた。

「僕はそんな社会嫌だね。みかんのように色々なカタチや色があるんだ」

「現実は残酷。消費者が喜ぶのは綺麗なみかん」

「綺麗じゃないみかんが可哀想だよ。歪なみかんだって見た目が少し悪いだけで味はしっかりしてる。寧ろそっちの方が美味しいまである」

 取り出したみかんを見つめるように、僕は言った。

「オレンジジュースとかジャムとか色々あるでしょ。道は一つじゃないよ」

 僕は思考を再構築しようと試みたが、既に脳みそは力尽きた様子であった。そんな僕が返せる言葉はないかと模索するも、中々見当たらない。

「オレンジジュース好き」

 結局、今の僕には、この言葉しか拾えなかった。

「私も。孝ちゃんの実家から送られてきたみかん美味しいね」

「母ちゃん喜ぶよ」

「もう一個食べよ」

「……僕たち何の話してたっけ?」

 僕の顔を見て、由紀は笑った。

「歪な形でも、みかんはどれも美味しいねって話だよ」

 そう言うと、由紀は零れ落ちたみかんを取り、僕の前に差し出した。

「みかんのポテンシャルに敬礼」

 僕は背筋を伸ばし、みかんに敬意を示した。

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吾輩の短篇集。 吾輩 @im_wagahai

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