ショートカット・ハラスメント

らくがき

はじめに ショートカット・ハラスメント

「髪、まだ切ってないの?」


 陵介は真っ直ぐに私の目を見て言った。色素の薄い明るい目はいつ見ても堂々としていて、こちらが気後れしてしまう圧力があった。

 気のせいか、いつもよりも明るい声にはどこか非難めいた薄暗い響きがあった。ひょっとするとそんな気がする。


 やっぱり今日もか。


 何度目になるか分からない小さな失望が顔に現れないよう、努めて静かに口角を上げる。

 まだ燃えカスみたいな期待と、ある種のあきらめがないまぜになって、お腹がじりじりした。


 三宮駅に立ち並ぶ背の高いビルの一角。何語か分からない名前のカフェで、わたしと陵介は窓際の席に向かい合って座っていた。

 空を大きく切り取った窓から差し込む14時23分の眩しい陽が陵介の顔を照らす。高い鼻を境目に、月の表と裏みたいに濃い陰影ができていた。

 右側はアッシュグレイの髪が小さな乱反射にきらきら光っていて、左側では暗いまぶたの細い目がこちらを観察している。


 平日の昼下がりにもかかわらず、店内は学生と思しき客で賑わっていた。黙っていても話し声が止まないので居心地がいい。誰かの声にすぅっと溶け込んでしまえそう。


 隣の席では一際声の高い女子大生が2人でおしゃべりをしていて、時々悲鳴のような高い笑い声が聞こえてくる。たっぷりの満足感と心地良い疲労感をただよわせる会話のキャッチボール。

 わたしは心の中で彼女たちにささやいた。


 できたらもっと大きな声で、思いっきりにぎやかにおしゃべりをたのしんで。

 どうか、わたしが言い終えるまで。


「助教がかっこいい」と熱烈に語る彼女たちの声に紛れるようにして、電車の中で考えていた言い訳を復唱した。


「いつも行ってる美容院お休みしててさ」


 言い終えた途端に喉が急激に乾いた。

 そんな気がして輪切りのレモンが浮かんだお冷やを飲む。大きな種がぐらぐらしていて、今にも果肉からはがれてグラスの中に放り出されそう。

 冷たい水が薄い喉をすべり、青い柑橘の香りが鼻に抜ける。後味は固い皮の味が混ざって少しだけ苦い。


「そっか、残念だったね」

 陵介はきれいに整えられた眉毛を少しだけ歪めた。黄金比の眉毛は、毎日整えているんだと言っていた。どうせ髪でほとんど見えないのに。


「残念」って、誰にとって?

 私にとって?

 それとも陵介?


「ミヨちゃんは絶対にショート似合うよ。顔小さいし首が白くて綺麗だし」

 氷が大きな音をたててグラスの中に沈没した。カロン、と涼やかで小気味良い音がしたのに、店内の賑やかな話し声とテンポの良い洋楽に飲み込まれて立ち消えた。


 陵介が上まぶたぎりぎりまである長い前髪の隙間から、じぃっとこちらを覗いている。緩いパーマと柔らかい毛質、そして明るいグレージュの色味があいまって子猫の毛のようだ。

 返事を待ってる。いや、返事じゃなくて「イエス」を待ってる。


 ―――でも長いの気に入ってるんだよね。

 もう何度言ったか分からなくなってしまった言葉を言おうとして、唇を少し開いた。

 陵介と何度も交わした言葉のやりとりを、今日も今日とて性懲りもなく繰り返したとして、なんて返されるのか、どんな反応をするのか、もう知りすぎていた。

 それでも、わずかばかり期待せずにはいられない。


「ね、陵くん。わたし」


 ちょうどそのタイミングで、カクテルグラスに盛られたジェラートが運ばれてきた。

 わたしはイチゴとミルク。陵介はピスタチオとブルーソルト。ジェラートとアイスクリームってどう違うんだろ。


「で、いつ切るの?」

「そのうちかな」

「そっか、たのしみにしてる」


 言わなくていい、そう心の中で念じたのに口は勝手に動いた。あんまりにも唇が軽やかな自動操縦で動いたので、思わずぞっとする。


 陵介が自然な仕草でジェラートを一口よこした。さかさまの天井を映す銀のスプーンの上にはこっくりとした深いグラスグリーンと爽やかで浅いベビーブルー。

 給餌のように差し出されたスプーンを口にくわえると、陵介は満足そうに微笑んだ。はちみつのような笑顔だった。


 ジェラートは舌の温度ですぐにほどけ、ゆるゆると溶けていく。冷たくて甘くておいしい。陵介がリサーチしてきただけあって悔しいくらいにおいしい。

 完全に溶け消える前、まだ形がある内に胸の辺りまでせりあがった言葉と一緒に飲み込んだ。


 私は今日も、つかなくていい嘘をつく。

 ほんとは髪を切る予定なんてないし、今のセミロングが気に入っている。

 でも、その内に切るんだろうな。


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