第2話 バカ夫婦の目覚め その2

「おい、上野!」



いつになく私を呼びつける声のトーンが低い。

編集長が私を呼びつけるその声に、ぞくっと寒気を感じた。


生理中で下腹部からじわっとした痛みと、なぜか今月は今までになく出血が多くて、不快指数が高い。

全体的に、気分も体も落ち込んでいるときに、編集長のあの低いトーンの声で呼ばれると、これから起きうる事態がとても憂鬱に感じる。


案の定、事態は深刻だった。

私が担当するとある作家先生から、直接編集長にクレームが入ったのだ。


「上野、春日かすが先生に締め切り変更の事連絡してなかったのか?」

へっ? そんなことは無い。ちゃんと春日先生にはメールで連絡してあったはずだ!


春日成人かすがなるひと。私が担当する作家先生たちの中でも、一番の売り上げ数を誇る売れてる作家。

ちょっと、いやいやかなりの癖の強い人なんだけど、年齢も私と同じくらい。

パット見、イケメンに見えるから、女の影はいつも絶えない噂話が飛び交うちょっと危険な感じの先生なんだけど。


「ちゃんと連絡していましたけど」

「今、春日先生から連絡があって、いきなり締め切りはめられても対応できないって、かなりご立腹な連絡が俺んところに直接来たんだよな。それってどういうことなんだ?」


「嘘です、私ちゃんと春日先生にはメールで……あ、」

言いかけた言葉を飲み込んだ。


そうだ、あの先生には、一度のメールで済ませること事態ミスなのだ。

何度もしつこく言わないと、すぐに頭の中からそう言うこと消し去ってしまう人だった。


「す、すみません。すぐに春日先生のところに行ってきます」

「いやお前は行かなくてもいい。しばらく春日先生の担当からは外れろ」

即決即断。その一言で唯一誇れる作家先生の担当を外されてしまった。


「秋葉。お前行けるか?」

「はい、いけます」

「じゃぁお前に任せる」


元々春日先生は愛子さんが担当していた。それをこの春から、この業界ではまだ新人扱いのこの私に担当させてもらったというのに。

痛恨のミス。編集長に怒られたことよりも自分自身のこの甘さに、心が痛んだ。


「すみません愛子さん。どうかよろしくお願いいたします」

「いいって、大丈夫よ。あの先生のご機嫌取りくらい、つぼ得ているから心配しなくたっていいよ」


にっこりと笑いながら、彼女が返した言葉がさらにこの胸の奥をえぐっていた。



仕事を終えて家に帰宅すると、雄也はまだ帰っていなかった。


暗い家の中。家と言っても賃貸のマンションなんだけど。二人で住むには十分なところ。

明りをつけると、真っ先にソファが目に入る。そのソファに吸い込まれるように、ぐったりとひれ伏した。


体が重い。心が、気持ちが重い。

動く気が起きない。夕食の支度しないといけないのに。


雄也がもうじき帰ってくるよ。

それでも体はピクリとも動かなかった。


ガチャ。

玄関のドアが閉まる音がした。雄也が帰ってきたんだろう。


ぐったりとソファに横たわる私の姿を見て。

「どうしたの麻奈美ちゃん?」

心配そうに私の横に寄り添ってくれた。


そんな彼の姿を目にしたとたん、あんなにも体を動かすのが苦痛だったのに、しっかりと雄也に抱きついていた。

ボロボロと涙を流し、雄也のワイシャツの肩を濡らした。


「いったい何があったんだよ」

そんな私に雄也は抱きしめながら問う。


その時ふんわりと、雄也の首筋からかおる。香り。

この時なぜこんなにも”におい”に敏感になっていたのかは分からないけど。


雄也から。二人のにおいじゃない。



別の……雌の臭いが、私の洟についているのを感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る